さつき会ブログ

さつき会イベント委員の有志が会員の皆さんと一緒に様々な情報をお伝えしていきます。           (※ブログ内の関連情報は、興味をお持ちの方にさらに深く知って頂くためのものです。さつき会として販売促進するものではありませんのでご了解ください。)

見沼田んぼにて

埼玉県CM(1)

私は、埼玉県の大宮から川口に広がる「見沼田んぼ」と呼ばれる地域の一画で米作りのボランティアをしています。農薬や化学肥料を使わず、化石エネルギーもできる限り使わない伝統的な米作りをしている市民ボランティア団体の活動に参加して、ちょうど10年が経ちました。これから、何回かに分けて米作りについてお伝えしたいと思います。

AO-見沼春1

米作りは、田植えから始まり、稲刈りで終わると思っている方が多いのではないでしょうか。実は米作りは、春先の準備作業、田植えから稲刈りまでの稲の栽培、刈り取った稲を米にする作業、そして田んぼの片づけなど翌年のための準備作業と年間を通じての流れがあります。今は田植えのための準備の時期で、「田起こし」や「用水路浚い」を行います。

「田起こし」とは、春先に田んぼの土を掘り返す作業です。田んぼに残っている前年の稲の切り株やレンゲなどの草をすき込みながら田んぼの土を柔らかく、できるだけ平らにする作業(耕耘作業)です。その作業の前に、道路から車に飛ばされてきた小石や人が捨てたごみを拾います。結構な量の小石が田んぼの中にまで飛ばされてきていることがわかり驚きます。
次に、土地の境界の杭を目印にひもを張り、それに合わせて畔(あぜ:田んぼと田んぼの区切り)を切り、田んぼの区画をきちんと作り直します。畔で仕切られた区画ごとに水入れや排水などの水管理を行いますし、日本の農地は権利関係が入り組んでいるので、田んぼごとにその所有者が異なることが多く、どれだけ手をかけたかで田んぼの地力も異なりますので、畔はとても重要です。
それからようやく耕耘作業に入ります。昔はスキやクワを使った人力や、牛などにより行われていましたが、さすがに今はトラクターで行います。田起こしの終わった田んぼの土はふかふかになります。
ここまでが田起こしですが、畔ができると、あちこちに穴があるのがわかります。モグラの穴です。これは放置すると水漏れの原因となりますので、草を丸めて穴をふさぎます。(モグラは出口をたくさん作っているので、塞いでも大丈夫だそうです。)

AO-見沼春3

AO-見沼春4

米作りにとって欠くことができないのが水(農業用水)です。見沼田んぼの水は、埼玉県北部の利根川から米作りの時期にだけ取水しています。取水したところに近い田んぼから順番に溜めていくため、南の末端に位置する私たちの田んぼに水が来るのは5月半ばになります。最近は米作りをやめる農家が多くなってきたため、私たちの田んぼに水が来る時期が少しずつ早くなってきています。
 農業用水は、あちこちで分水しながら末端の田んぼまで流れてきますので、途中にごみなどで流れが滞ると水が流れて来ないことになります。そのため水が来る前に、用水路のごみ拾いや底浚いをすることが必要になります。その作業はそれぞれの地区の農家の役割ですが、農家の減少と高齢化のため、ボランティアである私たちが主力となって行っています。  
まず用水路の周辺のごみ拾いや草刈りなどをし、その後用水路の中を浚います。毎年市民参加の「ごみ拾いウォーク」を実施し、農業についてご存じない地域住民の方に、農業用水路は下水道ではないことを理解していただく機会にしています。以前は、壊れた家電や自転車等も投げ込まれていましたが、最近は、主としてペットボトル、飲料缶で、時々家庭ごみの袋が出てくる程度になりました。写真は昨年のものですが、結構きつい作業です。でも、皆でワイワイやるのは楽しいものです。

AO-見沼春2

このような作業を3月から5月にかけて行います。原則土曜日の活動ですが、次々と花が咲き出し、春が来たこと、そして季節が巡っていくことを実感します。
AO-見沼春8

AO-見沼春7


 (担当 Aozora)

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東京六大学野球応援のすすめ

私の愉しみCM(0)

会員のK. M. さんから、東京六大学野球の応援について投稿していただきました。

 東大OGのみなさんは、東大が東京六大学野球の加盟校であることや、強豪校を相手に苦戦していることはご存じだと思います。しかし、誰もが神宮球場で応援したことがあるのではないと思います。
 私は東大卒業後十数年経ってから東京六大学野球の応援にはまり、150試合以上を東大応援席で応援してきました。私が感じている応援の魅力をお伝えしたいと思います。

AO-2303野球


東京六大学野球応援席とは
 東京六大学野球の観客席は大きく分けて「内野席」「外野席」「応援席」の3種類があります。内野席と外野席は普通の観客席です。「応援席」は各大学応援部(応援団)の指示のもとで観客も応援するエリアです。
  応援席の指揮を取る団体は大学により名称が異なります。東大と早大は「応援部」、立大・明大・法大は「応援団」、慶大は「應援指導部」です。これ以降は東大に合わせ「応援部」と書きます。

応援席の基本ルール
-応援席では応援部員の指示に従い、観客も応援歌を歌ったり、コールをしたりします。
-応援部と観客は対戦相手に敬意を持って応援します。相手校の選手に汚い野次を飛ばすことはしません。相手校エール中は応援席内の移動を止め、部員と観客は静粛にします。
-応援部リーダーが「はい、学生注目!」と叫んだら、観客は「なんだ!」と応じます。リーダーが「今日は開幕戦である!」のように肯定すべき言葉を口にしたら「そうだ!」と応じます。リーダーが「みなさんは東大が負ける試合を見たいか」のように否定すべき言葉を口にしたら「いいえ!」で応じます。
-東大応援席では、東大が得点した時は、応援席は肩を組み「ただ一つ」(もしくは「闘魂は」)を歌います。隣が面識のない人でも、肩を組むことを遠慮する必要はありません。肩を組むのに躊躇がある場合は、隣の人の背中側に軽く手を回してエアー肩組みでもよいと思いますので、応援の流れに従いましょう。
-応援席では飲酒は禁止です。熱中症防止のためのこまめな水分補給は推奨されていますし、キャンディー等のお菓子を口にすることはできますが、試合中に食事をすることは困難です。
ー東大応援席では、無許可の撮影は禁止されています。

AO-2303東大応援グッズ
東大オリジナル応援グッズ(メガホン、Tシャツ、タオル)

東大応援の魅力
 私は早大出身の同僚に「負けてばかりのチームを応援して何が楽しいの?」と言われたことがあります。思わず「負けてばかりのチームであるからこそ応援の存在意義があります。私は放って置いても勝つチームを応援して何が楽しいのかわかりません。」と返しました。
 私は、東大応援席の魅力は、類稀なるポジティブシンキングだと思います。東大応援席は、試合がどのような状況であっても悲観せず、27個目のアウトを取られるまで勝利を信じて応援します。

例1:相手校の攻撃で満塁になった時 
 次の打球を東大がさばく際に、どのベースでもアウトが取れます。アウトを取りチェンジして東大攻撃に移るチャンスです。

例2:相手校の攻撃でノーアウト満塁になった時
 どのベースでもアウトが取れる上に、アウトをまとめて三つ取ることもできます。東大が華麗なるトリプルプレーを披露する準備が整った状態です。

例3:相手校の攻撃でランナー2・3塁かつ次の打順が4番バッターの時
 高打率の相手校4番バッターがヒットを放つとまとめて2点取られるピンチではあります。しかし、ピンチは凌ぐためにあるのです。ピンチの時こそ、いつも以上に大きな声を出して応援し、東大野球部とともにピンチをチャンスに変えましょう。

例4:9回攻撃開始時点に19-0で負けている時
 27個目のアウトを取られるまではどんな大逆転の可能性もゼロではありません。19-0で負けていても、満塁ホームラン5本で逆転勝利できます。

 応援席では、東大野球部がここぞという場面でエラーをし失点しても、選手を責めたり貶したりしません。笑顔で「どんまい!」「(気持ちを)切り替え!切り替え!次で取り返すぞ!」と叫びます。
 東大野球部が負けた場合、応援席は「応援が足りずに東大を勝たせることができなかった」と受け止めます。選手にかける言葉は「よくやった」「次は勝つぞ」です。東大野球部が勝ったら「野球部が頑張って勝利を手にした」と受け止め、応援席も一緒に大喜びします。

応援席に行ったきっかけ
 私が卒業後十数年経ってから久しぶりに応援席に行ったきっかけは、不本意なことが続いてストレス満載になり、何故か「誰憚ることなく『ただ一つ』を大声で歌いたい」という衝動に駆られたことでした。応援席で大声を出し「ただ一つ」を歌って満足しただけでなく、ポジティブシンキングの連続に触れ目から鱗が落ちた気がしました。それ以来、元気が出ない時ほど、「応援に行って元気を分けてもらおう」と思うようになりました。
 応援席に頻繁に来る人の中には「ここに来て応援すると、くさくさしていた気持ちが浄化されて来週も頑張ろうと思える」と言う人もいます。

一般客の応援復活!
 東京六大学野球やその応援もコロナの影響で活動制限を受けました。新型コロナ禍の2020年から2022年までの3年間、感染防止のため、応援エリアは各大学応援部員のみで運営され、一般客の立ち入りが禁止されていました。
 先日、4月8日開幕の2023春季リーグにおいて、従来の一般客も受け入れる応援席を復活することが決定しました。復活直後はマスク着用・声量小さめ等の制限があるかもしれませんが、また応援部と一緒に応援できることになりました。
 いきなり応援席で試合中ずっと応援をする自信がない人は、内野席の中で応援席が見える位置に座り、試合と応援の両方を見ながら楽しむことから始めるのもよいと思います。「私も応援席で応援してみようかな」と思ったら、遠慮も躊躇も不要ですので、応援席チケットを買って応援席にお越しください。
 元気いっぱいの人も、最近何となく元気が出ない人も、東大野球部を応援して、元気いっぱい・ポジティブシンキングで過ごしませんか。


   (担当 Aozora)

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原広司・原游の展覧会によせて

美術館さんぽCM(0)

今回は、さつき会ブログレポーター kuminさん(1985工院)からお送り頂いた記事をご紹介します。


原広司『建築に何が可能か』12/13-3/5
国立近現代建築資料館

原倫太郎・原游『つくりかけラボ10RE幼年期ディスカバリー』1/14-4/2
千葉市美術館


早春にこの二つの展覧会、親子それぞれの集大成、スタートアップとなる展示が行われています。
機会を作り、上京して拝見してまいりました。

M-2303yk5.jpg M-2303yk6.jpg

まず千葉市美術館で行われているアーティストユニット“原倫太郎・原游”の展覧会!「遊び」がテーマです。
展示室に入った瞬間〜子供が小さかったら連れてくるのになぁー、いや、私の方が子供みたいに遊べそう〜 
重たい鎧を脱ぎ捨てたくなるような軽快な装置の数々。

中でも展示室を縦横に水を流している水路は、写真の通りカラフルな色彩で子供達が作る船を一方通行で流して水を足元で回収して循環させるという、目からうろこの装置でした。

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そしてピンクと水色の大きな箱は内部に飾るものを一般の方から募集しており、このピンクにはある老齢の婦人が自らの私物を持ち込んで飾ってくれているそうです。

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(ピンクの箱の中に立つ原游さん)

不思議な卓球は原倫太郎・原游夫妻の十八番の作品ですが、こちらは台の下に装置が埋め込んであって玉が触れると不思議な音を立てます。

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(不思議な卓球をする原游さん(右)とTさん)

インスタレーション作家の原倫太郎さんに対して、東京芸大で研鑽を積んだ原游さんは絵画の可能性を探求し平面作品に取り組んでいます。不肖私が作っております山形コンフィチュールのタグも、こちらの原游さんにデザインして頂いております。

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旅の最後に訪れたのは、国立近現代建築資料館。
原広司『建築に何が可能か』-有孔体と浮遊の思想の55年-

原先生は東大で28年にわたり教鞭をとられましたが、個人住宅から美術館そして代表作となる「JR京都駅」、大阪の「新梅田シティスカイビル」、「札幌ドーム」など世界的に著名なランドマークまでを手がけてこられました。
そして数学、哲学、芸術を始めとして多様な視点から建築に関する思索は、日本の現代建築の発展を大きく牽引したと言えます。その代表である1967年の著書『建築に何が可能か』における「有孔体」と「浮遊」の思想に始まる原先生の思想は後に反射性住居、多層構造、機能から様相へ、集落の教え、離散的空間等多彩な建築概念に発展し、現代建築に計り知れない影響を与えています。

こちらの展覧会では、近年原広司+アトリエファイ建築研究所から寄贈が進められている建築資料群の中から「有孔体」と「浮遊」というテーマの展開を示す図面とスケッチを、年代を追いながら展示しています。原広司作品の根源であるこの二つの発想がいかに具現化し 建築となっていったかという点に着目し、「思想」「構想」「実想」と三つの「想」を行き来しながら原広司の思想と実体的建築の解読へと誘っています。

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日曜日ということもあり熱気あふれる観覧者で、皆さん熱心に図面をご覧になっておりました。CAD全盛の昨今でございますが、手の温かみ溢れるスケッチに軽い興奮を覚えました。
旅程を伸ばして拝見することにして本当に良かったです。
(kumin :山形県在住)


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同じ未来を夢見る幸せ ~一時保育の検索・予約サービス「あすいく」を運営

会員の活動CM(0)

7歳、4歳、1歳の小さなお子さんを育てながら、起業して日々奮闘されている会員の幸脇啓子さん(2001年文)。
今回は、幸脇さんに、起業して今に至るまでの思いを寄稿していただきました。


大学卒業後、10数年のサラリーマン生活を経て起業し、現在は一時保育の検索・予約サービス「あすいく」を運営しています。子どもをちょっと預けたいときやひとりの時間がほしいときに、安心して預けられる一時保育先がLINEから見つかり、キャッシュレス・ペーパーレスで利用できるプロダクトです。
あすいく1
「あすいく」のホームページ

30代半ばで長男を出産した時の経験が、起業のきっかけです。それまで雑誌の編集者として徹夜は当たり前、ほぼ休みなく国内外を飛び回る「24時間働けますか」の世界(古い……)を生きていたものの、乳児を育てる生活はそれよりはるかにハードでした。

寝ない赤ちゃん、眠たい私、進まない家事、溜まるストレス。
いま思えば「何をそんなに」と思うのですが、当時は無駄に強い責任感と義務感に押しつぶされそうになっていました。

そんなわたしを見かねたのか、ある日、母に「赤ちゃん見ているから、気分転換してきたら?」と言われ、駅前のカフェに行きました。出産以来、はじめてのひとりでの外出。抱っこ紐の中の赤ちゃんを心配することなく、ひとりでのんびり過ごす時間は、想像以上の解放感でした。出産前は普通だった「ひとり時間」が、こんなにもありがたいなんて!

たった数十分のうちに、赤ちゃんに感じていたイライラはすーっと溶けてなくなり、こわばっていた心も体も、なんだかやわらかくなったように感じました。

子どものことは大好きだけど、ときには少し離れてもいい。
離れたからこそ、もう一度笑顔で向き合える。
幸脇さんとお子様2
幸脇さんと三番目のお子さん


自分が体験したからこそ、どんなママやパパにも、一人の時間を大事にしてほしいと思っています。

ところが、大事な子どもを安心して預けられる場所を探すことは、そう簡単ではありません。周りに聞いてみても、小さい子どもを育てながら区役所のホームページを調べたり、保育園にひとつずつ電話するのは大変で、結局預けることをあきらめて、自分で頑張った、という声が多く聞かれました。

そんなある日、「空いている保育園をスマホで調べて、そのまま予約できたらいいのに!」というアイデアがふっと浮かんだのです。復職して保育園を利用し始めてから1年ほどが経った頃でした。

子どもをしっかり預かってくれる、保育園という存在のありがたさ。
ちょっとした悩みにも耳を傾けてくれる、保育士さんの心強さ。
小さいなりに集団生活を体験し、お友だちを作ってくるたくましさ。

この場所は、働いているかどうかに関係なく、子どもを育てているママやパパにとってはなくてはならないものなのではないか?それなら、保育園の空きをシェアできないだろうか?

とはいえそううまくいくはずもなく、やってみてはうまくいかず、山あり谷ありの繰り返し。とにかくいろいろなことがありましたが、どうにかアイデアは形になり、LINE会員は1400人を超えました。

一時保育という体験が、親にも子どもにも楽しいものになるようにという願いを込めて、今も日々、サービス開発をしています。(よければぜひ、使ってみてくださいね!)
あすいく2


日々不安と悩みばかりの起業家ライフですが、「やめられない」と思う瞬間がいくつかあります。サービスが実際に使われるのはもちろん、保育園や保護者の方から利用してよかったという感想が届くと、「ああ、やってよかった」と嬉しくなります。

そしてもうひとつ、仲間がいることも「やめられない」――、いやむしろ「やるしかない」理由です。

最初は自分ひとりで始めたこのサービスも、今は10人を越えるメンバーに支えられています。デザイナーやエンジニアはもちろん、保育園を訪問してくれる営業担当、インスタグラムやツイッターなどSNS発信のサポート担当、そして事業の成長戦略を一緒に考えてくれる経営チームメンバーまで。

私が多少へこたれていても、「まあ頑張ろうよ!」と背中をたたいてくれる存在がいる心強さは格別で、これまたいつの間にか背負い込んでいた重たい責任感を降ろし、ふっと肩の力を抜いてもう一度事業に向き合うことができます。

「ビジョン」なんて言葉を使うとちょっと気恥ずかしくもありますが、同じ未来を夢見て走り、ときには愚痴を言い合える仲間が増えていくのは、起業したからこそ味わえる喜びなのかもしれません(それでも大変なことばかりですが)。
あすいく3
(babytech awards 2022授賞式にて。左が幸脇さん)

プロダクトが賞を獲れば一緒に喜び、営業がうまくいかなければ一緒に悔しがり、SNSのフォロワー数が1人増えたねと、お互いにねぎらい合う。なんだかこの1年でチームっぽくなってきたんじゃない?と、最近、じわじわ嬉しくなっているのです。


20代の頃は、雑誌の編集者という仕事は自分の天職だと思っていました。ひとりで原稿を書くのも、チームで海外取材に行くのも、政治家の取材も芸能人の撮影も、何もかもが楽しくて夢中でした。

そのころは、自分が会社を辞めることも、母になることも、そして起業することも、かけらも想像していなかったのに……だから人生っておもしろい。そう言えるのはきっと、未来を目指す仲間がいるから。自分の性格を考えてみても、ひとりだったら、早々にどこかで諦めていたでしょう。

今でも、時折ふと思い出す言葉があります。
「あすいくは、社会を変える可能性がありますよ」

普段は冷静沈着なあるチームメイトが、チャットで書いた言葉です。
そうか、私たちは社会を変えようとしているんだ――。

私がひとりで作ろうとしていた未来を、今は仲間がそれぞれの言葉で語ってくれる。
こんな嬉しいことがあるなんて。

だから起業はやめられない、のかもしれません。

幸脇啓子

keiko@あすいく note 事業を立ち上げるまでの思いなどの詳細はこちらをご覧ください。

(担当 ゆっちょむ)

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段染め糸で編み物

私の愉しみCM(0)

会員のK.M.さんから、趣味の編み物について寄稿していただきました。

段染め糸で編み物
同居の祖母の手解きを受け5歳頃で編み物を始めて50年。趣味としてずっと編み物を続けています。中学生以降は市販本で独習しながら、さまざまな編み物ジャンルに挑戦しました。レース編みや手袋・靴下編みも試し、息子が小さい頃はキャラクターの編み込みセーターも編みました。
色々なものを編んできましたが、私は棒針で大物をひたすら編み進めるのが一番好きです。きれいな糸とお気に入りの道具を使って手を動かしていると、仕事も家事も忘れて気持ちが落ち着き、リフレッシュできます。
糸もさまざまな素材・太さ・色合いのものを試しました。
2014年頃からはドイツのメーカーSchoppelの段染め糸に魅せられて、よく使っています。

毛糸1
Schoppelの段染め糸
 Schoppelの段染め糸は写真のような多色使いで、毛糸玉の状態で見ると「こんなカラフルな糸で編んだらとんでもない配色になってしまわないかしら」と思いますが、編み進めるとわくわくするようなグラデーションが現れます。ロングピッチなので、どのようなサイズの作品でもグラデーションを楽しめます。

ショール1
左上のLace Flower 2330 Autumn Championで編んだショール
(編み図はテライ株式会社のサイトhttp://kyoto-terai.com/ よりダウンロード)


ショール2
左下のLace Flower 2365 Middle Landで編んだショール
(編み図は同じ)


長く続けるうちに、我流ですがサイズ調整や編み図作成もできるようになりました。近年は自分の服の好みに合わせたスカートやワンピースも編んでいます。
スカート
毛糸玉の写真右下と同色のZauberball 100 2305 Red to Goで編んだスカート

ワンピース
Zauberball 2203 Oktoberfestで編んだワンピース

大人になってから身近に編み物仲間のいない私ですが、群ようこさんのエッセイ「毛糸に恋した」(幻冬舎文庫)を読んだ時は、編み物仲間ができたようなとても嬉しい気持ちになりました。20年以上前の本ですが、電子書籍も発行され入手しやすくなっています。編み物好きの方はぜひご一読ください。

K.M.

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歌舞伎の楽しみ方 自慢篇

観劇CM(0)

歌舞伎や能について詳しい原田紀子さん(71年 理学部卒)の鋭く興味深い視点から、「歌舞伎の楽しみ方」について寄稿していただきました。




歌舞伎の楽しみ方 自慢篇

歌舞伎座

写真 歌舞伎座


「菊吉爺(きくきちじじい)」という言葉があるのを最近知りました。
今は亡き六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が最高の役者で、「自分は見たことがあるが、お前たちは無いだろう」とか「今の役者はとても菊吉に及ばない」というような意味らしいです。
また九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎の場合は「團菊爺」だそうです。

歌舞伎故人

写真 歌舞伎座3階には在りし日の名優達の写真が展示されています。


十三代目團十郎襲名公演の助六を見て、私は「十一代目婆」だわと思いました。
十一代目團十郎は最高に芸が上手い役者というわけではありませんが、最高に美しい役者で、声もカラカラとした男らしい声でした。亡くなる1年くらい前、丁度東京オリンピックの時で外国人向けに上演していたのではないかと思われる彼の助六を私は見ることができたのです。

勤め先の先輩に神田の生まれの20歳位年上の方がいました。
彼女の自慢は十五代目市村羽左衛門の舞台を見たことでした。花道の揚幕から出てくるだけであたりがぱーっと華やかに明るくなるのだそうです。
逸話に照明係がスポットライトをどのように当てましょうかと十五代目に聞いたところ、ライトなんかいらないよ、俺が光るんだからと言ったというのがあります。
彼女はさしずめ「十五代目婆」でしょうか。


助六揚巻

写真 孝夫・玉三郎の「助六」(『演劇界』平成3年4月号)

歌舞伎役者の条件は、一声(いちこえ)二顔(にかお)三姿(さんすがた)といわれています。今この三拍子揃った役者は、片岡孝夫(現仁左衛門)、女形では坂東玉三郎でしょう。
その素晴らしさは1975年に「桜姫東文章」を二人に演じさせることを目的として「T&T応援団」が、いわゆる後援会とは全く別に、結成されたことからも分かります。この4月に二人がお富与三郎の「与話情浮名横櫛」を歌舞伎座で上演するそうです。今は孝夫ではなく仁左衛門なので正確ではありませんが「孝玉婆」になれる残り少ない機会です。ぜひ観劇されることをお勧めします。

原田紀子



今回の「自慢篇」に引き続き、これからも独自の視点からのご紹介を楽しみにしています。
原田紀子さん : 国立科学博物館に勤務され、「西岡常一と語る木の家は三百年」 農文協、「着物と日本人」 平凡社、「能への扉」 淡交社などの著書があります。

(担当:Giglio)



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私の散歩道:高浜運河―天王洲運河(その2-植物)

私の散歩道CM(0)

さつき会会員 C.F.さん(1965理)から「私の散歩道:高浜運河―天王洲運河(その1-鳥)」の続きを送って頂きましたので、ご紹介します。

先日、ユリカモメなどの鳥について書いたので、今回は植物篇です。

JR品川駅の東側に高浜運河とそれに続く天王洲運河があり、遊歩道・緑地があります。
立春の頃に天王洲運河遊歩道の港区民が植えている花壇に菜の花が咲き始め、春を告げます。

高浜運河1
左上:咲き始め 左下:満開  右:菜種

2月中旬には、天王洲テラスに河津桜が咲き始め、3月まで楽しめます。
高浜運河2

次は、桜の季節です。3月下旬に、高浜運河近くの品川フロントビルの染井吉野がよい枝振りです。
高浜運河3

染井吉野の次は、はなみずきです。港区の区の花になっています。高浜運河の遊歩道に咲きます。
高浜運河4

高浜運河の浜路橋と新港南橋の間の遊歩道にツツジが咲きます。2022年は特別きれいでした。
高浜運河5

天王洲運河の関山(かんざん)と普賢象(ふげんぞう)の八重桜が咲くと、桜の季節も終わりです。
高浜運河6-2

高浜運河7-2

梅雨の季節になると高浜運河、天王洲に紫陽花(あじさい)が咲きます。柏葉あじさい(白)、額紫陽花、その他の紫陽花が咲きます。
高浜運河8

2022年夏は、天王洲テラス、天王洲運河の百日紅(さるすべり)がきれいでした。白もあります。10月頃まで咲きます。
高浜運河9

梅雨が明けると、蝉の声がします。最近はクマゼミが優勢です。ミンミンゼミも聞こえます。アブラゼミが少なくなりました。夏の後半になると、つくつく法師が鳴きます。ヒグラシはいなくなりました。

お盆を過ぎると、草むらに、エンマコオロギなどの声が聞こえてきます。運河の遊歩道でも一瞬涼風が吹き抜けることがあります。「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかねぬる」 (藤原敏行 古今和歌集)を思い出します。

その頃になると、天王洲運河遊歩道の港区民の植えている花壇にひまわりが花盛りになります。

高浜運河10

11月下旬になると、天王洲のレストランRIDEの広場の欅(けやき)の紅葉が素敵です。
高浜運河11

他にも紹介しきれないぐらい、多くの花が咲きます。
運河は広々として、清々とした気分になります。コロナ禍以来、可愛い幼児を連れた散歩だけでなく、可愛い犬を連れた人が増えました。赤ちゃんや、犬とアイコンタクトするのも心が慰められます。

みなさまも是非おいでください。



☆ C.F.さん、ありがとうございました!
 (情報発信チーム)

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ピカソの実験的作品にも出会える「ART FACTORY 城南島」

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 Giglioさんの「ピカソとその時代」のブログを拝見し、思わぬ所でピカソに出会えた「ART FACTORY 城南島」についてご紹介したくなりました。アートファクトリー
「ART FACTORY 城南島」は、東横インが倉庫街にあった自社の倉庫を再利用した施設で、三島喜美代氏の大規模な立体作品と、浮世絵のインスタレーションが常設展示されています。三島氏は1932年生まれですが、現在でも、生み出される膨大な製品やゴミをモチーフに、社会に問いかけ活躍する作家です。この施設にはゴミなどをテーマにした作品や、新聞紙の束による巨大な迷路があるほか、広大な元倉庫の床に20世紀100年間の記事を転写したレンガ11,000個が敷き詰められています。三島作品
常設展示冒頭の三島作品
浮世絵インスタレーション
浮世絵のインスタレーション

そして、レンガが敷き詰められた吹抜空間の2階をぐるりと廻るキャットウォークの壁に、ピカソと写真家アンドレ・ヴィラール、詩人のジャック・プレヴェールが共作した作品が多数展示されているのです。
三島レンガとキャットウォーク
敷き詰められたレンガと二階のキャットウォーク

猫

ねこの詩
「猫を連れた男」 作品と詩

ヴィラールの写真にピカソが具象的なモチーフをコラージュしプリントした実験的コラボ作品へ、プレヴェールが詩を寄せています。作品と詩が一対ずつ並べて展示されています。
魔術師

魔術師の詩
「雄牛を連れた魔術師」 作品と詩

山羊

山羊の詩
「地平線の山羊」 作品と詩

ピカソたちの作品があることは公式HPでも触れられていないので気づかない人も多く、私も全く想定外、頑張って螺旋階段を昇ったご褒美の様に思えました。
アクセスは不便な場所ですが、素晴らしい展示を無料でしかもたった一人で満喫することができ、屋上からはすぐ近くの羽田空港と飛行機が間近に見られ、ちょっと苦労して行っただけの価値は十二分にありました。

ART FACTORY 城南島 三島喜美代 アンドレ・ヴィラールとピカソ
<担当:NAO>

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「まだ見たことのないピカソ」を見た

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国立西洋美術館
ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展

~2023年1月22日まで~


12月の晴れた日、上野の国立西洋美術館を久しぶりに訪れました。「まだ見たことのないピカソ35点が日本初公開」という言葉に惹かれて。
ドイツ生まれの画商ベルクグリューン氏の元コレクションの中からピカソ、マチス、クレー、ジャコメッティ等の作品が97点出展されていて、内76点が日本初公開の作品だということです。


pikaso 9

チケットはオンラインで予約。入り口は人も少なく、これはゆっくり見られると思い、長谷川博己氏のナレーションの流れる音声ガイドの器械を手に、中に入ってみると・・・ 静かに絵に見入る大勢の人々。

目を上げると作品に撮影禁止のマークが。ということは、撮影禁止のマークのない作品は撮影可能ということかもしれない、と周囲を見回すとスマホを絵に向けている人たちがいます・・・。
初めは遠慮がちに、鑑賞する人々の後ろから「座るアルルカン」を撮影しました。
絵画に関する造詣が深いわけでもなく、他の鑑賞者に気を遣いながらのスマホでの撮影なので画像も欠けていたり曲がっていたり。そんな私の眼で見た展覧会の様子をお伝えします。

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1 ピカソが描いた二枚のドラ・マール

ピカソの恋の多さはあまりにも有名です。そして女性が変わるごとに作風が変わったとも言われています。
今回の展覧会で特に目を引いたのは次の二つの作品。モデルが、ドラ・マールという女性であること、そして今回の展覧会の大きなポスターに使われているという共通点があります。

キュビズムの人物像の特徴は、一人の人物を多視点から描いているところにあると言われます。小学校時代、キュビズムに魅せられた美術の先生に、1枚の絵に正面と横顔を組み合わせた絵を描くようにと言われて苦戦したことがありました。もちろん人の内面の多面性など全く分からない私の描いた絵は、単にバランスの取れない奇妙な失敗作に過ぎなかったのを覚えています。
しかし、間近に二つの作品を見た時に、ピカソの思いがほんの少しですが、伝わってきたような気がしました。

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「緑色のマニュキュアをつけたドラ・マール」(1936年)

彼女の右半分は目を見開き真実を見つめるかのようです。しかし左半分は現実から目を背け、遠くにある何かを凝視しているように見えます。そして、どちらの目も美しい。
絵の題名である緑色のマニュキュアをした指は左右4本ずつしかなく、直線で不自然な形をしています。この指から、ピカソは何を伝えたかったのでしょうか?

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「黄色のセーター」(1939年)

彼女の顔の右半分は、意志の強い目が正面を見据えていますが、左半分の憂いを秘めた目は心の奥に向かっているように見えます。
指は5本ずつありますが、右手はつややかで直線的で、左手は汚れ、傷つき、曲がりくねり、左右共に不自然な形をしています。黄色のセーターの網目は丁寧に描かれていて、左側からは体のまろやかさが伝わってきます。

美しかったに違いないドラ・マールはこの二つの絵が完成した時、どう思ったのでしょうか? 不自然な自分の姿に驚いて、不満に思ったのでしょうか?
ドラ・マールとピカソの関係は1936年~1943年という短い期間だったそうです。しかし、ドラ・マールはピカソと別れたのちもこの絵を大切に保管し続けて自宅のリビングルームの暖炉の上に飾っていたということです。彼女にとってこの絵は、第二次世界大戦の不安や恐怖の中をピカソと共に生き抜いた思い出が刻まれた、何物にも代えがたい宝物だったのでしょう。

2 ピカソの作品から

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「大きな横たわる裸婦」

モデルの女性は不自然に首を捻じ曲げて暗くくすんだ色で描かれています。
ピカソは後にこう語ったそうです。
「私は戦争を描かなかった。だが、戦争の時代に描いた作品には、戦争が存在している。」

ピカソのスケッチ画とパステル画「座って足を拭く裸婦」です。いずれもいわゆる「ピカソの絵」とは趣を異にしていますが、力強い手の表現にピカソらしさが感じられます。素晴らしいデッサン、パステルでのやわらかな表現が心に響きました。

IMG_2240.jpg pikaso 2 

対象を確かに見据える天才の眼、吸い込まれるような色彩のハーモニーを感じられる次の二つの作品も心に残りました。

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「彫刻家と彼の彫像」

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「窓際の静物 サン=ラファエル」(1919年)

3 クレーの作品の中から

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「時間」

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4 マチスの作品から

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matisu

まるで東京オリンピックのピクトグラムのような切り絵です。

5 ジャコメッティの彫刻とピカソの大作

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最後の部屋でジャコメッティの彫刻とピカソの大作に見入る人々です。 

展覧会を見終わって、心地よく満ち足りた気持ちになりました。ベルクグリューンの美学によって構成された統一感が流れていたからかもしれません。一枚一枚の絵に作家の魂が込められているような気がしました。
ご紹介しきれなかった作品にも心に残ったものがいくつもありました。
国立西洋美術館での展覧会は1月22日まで開催されていて、そのあとは大阪で開催される予定です。
もし、興味のある方は、ご自分の眼で鑑賞していただければと思います。さらに、音声ガイドを聴きながら鑑賞されることと、気に入った作品が多数あった場合は図録を求められることをお勧めします。図録を買わなかったことに少し後悔している私からのアドバイスです。

その後、国立西洋美術館の常設展を見ました。松方コレクションの数々が落ち着いた気分にしてくれます。今回はルノワール、モネの作品もありました。個人的に気に入った2枚の絵です。

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〇詳しくは、こちらをご覧ください。
国立西洋美術館 ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展

大阪では、大阪国際美術館において開催されます。
会期:2023年2月4日(土)〜5月21日(日)
〇詳しくは、こちらをご覧ください。
国立国際美術館

(担当:Giglio)

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シンガポールに暮らして

海外だより―シンガポール編CM(0)


 ☆さつき会会員A.Y.さん(シンガポール在住)が投稿してくださった記事です☆

シンガポールと聞いて、どんなイメージをお持ちでしょうか。赤道直下の熱帯、マーライオンやマリーナベイ・サンズ、中華系・マレー系・インド系などから成る多民族国家…。日本から直行便で約7時間と比較的近く、観光や仕事で訪れたことがある方も少なくないでしょう。東京23区より少し広い面積に約560万人が暮らす小さな島国ですが、アジアを代表する金融やビジネスの拠点として栄え、国民一人当たりの所得はアジア首位、世界2位となっています(2022年12月現在)。


マーライオン

シンガポール1
写真:ライトアップしたマーライオン(上)とマリーナベイ・サンズ(下)

私は今年の秋、家族の帯同でシンガポールに引っ越して来ました。まだ滞在3ヶ月ほどですが、住んでみて気づいたこと、驚いたことなどを紹介したいと思います。


〈「日本」が身近にある〉
 まず感じるのが、日本人にとって非常に住みやすい国であるということです。元々シンガポールには日本人が多く、通りを歩くと日本語が聞こえてくることは珍しくありません。看板やメニューに日本語が表記されていることもありますし、同じアジアだからでしょうか、街の景色に違和感なく溶け込めると感じます。
 日本のブランドは大人気で、ユニクロ、無印良品、ダイソーなどは常に賑わっています。高島屋、伊勢丹、明治屋もありますし、日本の食品や日用品を専門に扱うスーパーもあります。日本のディスカウントストア、ドン・キホーテは「DON DON DONKI」という名前で現在14店舗が営業しており、焼き芋が人気なのだとか。
 日本食も人気があります。吉野家、モスバーガー、元気寿司、サイゼリアなど多くのチェーン店が進出しているほか、日本の焼肉やラーメン、居酒屋なども良く見かけます。フードコートには大抵、和食がありますし、ローカルなスーパーにもJapaneseコーナーがあったり、日本の野菜が売られていたりします。日本との価格差に衝撃を受けることも多いですが、使い慣れた日本の商品を簡単に手に入れられる環境のありがたさが身に沁みています。

日本食品店
写真:スーパーの日本食品コーナー

〈物価が高い〉
 来る前から覚悟はしていましたが、やはり日本と比べて物価が高いです。それもそのはず、英・エコノミスト紙の最近の報告によると、シンガポールはニューヨークと並び、世界で最も生活費が高い都市なのだそうです(東京は24位)。特に家賃、医療費、教育費、車、酒・たばこが高いと言われています。またインフレの影響に加え、人件費が高く、食品の9割を輸入に頼っているため、日々の食材が割高なことも生活者としては痛いところです。卵や牛乳は安いものでも3Sドル(約300円)くらいします。しかも気温が高いので、野菜や果物がすぐに傷んでしまうのも悩ましい点です。スーパーに並んでいる時点で腐っていることも珍しくありません。日本では売り物にならない、傷だらけの野菜しか置いていないこともあります。こちらに比べると、日本の野菜は信じられないほど綺麗で、新鮮で、安いと思います。しかし、裏を返せば多くの商品が店頭に並ぶことなく廃棄されているということかもしれません。
 トイレットペーパーや歯ブラシといった日用品も日本に比べると高いです。ただ、日本ではあまり見かけない欧米やアジアのブランドが手に入るのは魅力的です。また、ホーカーセンター(屋台を集めたフードコート)では100円程度から地元グルメが楽しめ、映画のチケットが日本よりも安い(平日は約1000円)のは嬉しいポイントです。

〈案外リラックスしている〉
 「チューインガムの禁止」「ゴミのポイ捨て禁止」に代表されるように、シンガポールと言えばやたらと規則が多く、守らないと罰金を課す窮屈な国という印象があるかもしれません。しかし人通りの少ない場所にはゴミが落ちていますし、禁止されているはずの歩きたばこをしている人も見かけます。現実にはそこまで厳格には運用されていないものの、多様な人々が暮らす社会で一定の秩序を保つためには細かいルールを敷く必要があると考えているのではないかと思います。
 高層ビルが立ち並び、都会的なイメージのあるシンガポールですが、オフィス街を離れるとTシャツに短パン、サンダルという軽装の人が多く、総じてリラックスした印象を受けます。店員も仕事中に平気で雑談したり、スマホをいじったりしています。電車内では通話が禁止されておらず、大きな声で電話したり、音が漏れているのも気にせずに動画を見たりしている人もいます。私のご近所さんも、開けっ放しの玄関から話し声やらお香の匂いやら漏れてきます。始めはこうしたマナーが気になっていた私ですが、最近は「自分もそこまで周りを気にしなくて良いのだ」と思うようになり、解放感を感じています。今考えると、日本ではクレームを恐れ、大きな音を立てぬよう、人を待たせぬよう、常に気を張り、縮こまっていました。細かいルールがなくとも規律正しい日本社会には驚くばかりですが、それは皆が他人の厳しい視線を気にして生きている結果とも言えるのではないでしょうか。
 
もうすぐクリスマス。常夏のシンガポールも、美しいイルミネーションやクリスマスツリーに彩られています。シンガポールを代表する繁華街であるオーチャード通りのライトアップは、日立が毎年スポンサーになっているそうです。まだまだ日本の力は健在だと思わせてくれるシンガポール、皆様も機会があればぜひお越し下さい。


シンガポールクリスマス

シンガポールクリスマス2
写真:(上下とも)オーチャード通りのイルミネーション

☆ A.Y.さん、ありがとうございました☆
(担当 アレクサンドリア)


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埼玉古墳群と忍(おし)城~行田市~

埼玉県CM(0)

古墳標識 城紅葉
新宿から高崎線で一時間、埼玉県行田市の埼玉古墳群と忍(おし)城を訪ねました。市内観光には行田駅から巡回バスがあり、便利です。

Ⅰ 埼玉古墳公園
関西在住の方に古墳はさほど珍しくないようですが、東京に暮らす私は埼玉古墳群の存在に興味をもちました。当地に来ると、9基の大型墳墓(5世紀から7世紀の初めに造成)を作った当時の技術、文化の伝播力、国造りの意気込みに圧倒されます。稲荷山古墳のように土木工事のため一部土取りで切り崩され、それを復元した古墳もありますが、古墳に立ち入ったり上ったりして体感できることは魅力です。今回は主な4基の古墳を紹介いたします。


①稲荷山古墳
稲荷山古墳4
公園奥に位置している稲荷山古墳は全長120mの前方後円墳です。周囲には堀が二重に回っており、5世紀の造成は、埼玉古墳群中で一番古いと言われています。以下この後円墳部分に実際に上った時の写真です。
稲荷山古墳跡2
粘土槨(素掘りの竪穴に粘土を敷き,、棺が置かれていました)

稲荷山古墳頂2
礫槨(舟の形に掘った竪穴に河原石を張りつけ、棺が置かれていました)

稲荷山出土品 (2)
出土品です。現地掲示板より転写
1968年の発掘調査で発見された115文字からなる金錯銘鉄剣、帯金具、勾玉、鏡などの遺物(1983年に国宝指定)は、公園内のさきたま史跡の博物館で見学することができます。
金錯銘鉄剣 (2)
さきたま史跡の博物館リーフレットより転写
古代国家の成立を読み解く鉄剣(辛亥の年7月…ヲワケの臣…)は発見当時大フィバーでしたね、鉄剣に彫られた一文字一文字を見つめていると時空を超え胸打つ静けさを感じました。


⓶将軍山古墳
将軍山古墳_4
全長90m、後円部の直径39m、前方部の幅68mの将軍山古墳です。

埴輪アリの将軍山古墳

6世紀中ごろの造営のこの古墳は墳丘や濠は複製ですが、埴輪を飾った墳丘は圧巻です。埼玉古墳群のその他の古墳も、この古墳のように円筒埴輪を並べられていたことが発掘調査で明らかになっています。

将軍山博物館2 将軍山内_2
さきたま史跡の博物館リーフレットより転写
この将軍山古墳は1894年(明治27年)地元の人々によって発掘、横穴式石室から馬冑などの金具、馬具などの副葬品が発見されました。併設の博物館・将軍山展示館から実物の横穴式石室を見学できます。

房州石R_4
房州石
この横穴式石室には千葉県富津市周辺で採取された「房州石」が使われています。随分遠方から素材を運んだものだと思われますが、当時の関東平野は海から続く川だらけで、距離的な問題があまり無かったからだそうです。凝灰質砂岩の表面にあいた穴は貝が住み込むためのもので、今も穴の中に貝が詰まっています。

③二子山古墳
二子山古墳2
全長132m、武蔵の国で最も大きな前方後円墳です。墳丘など建造当時のものと考えられています。

④丸墓山古墳
丸墓山古墳3
直径105mの丸墓山古墳は日本最大級の円形古墳で、出土した埴輪などから6世紀初頭の造成と考えられています。1590年豊臣秀吉から関東平定の命を受けた石田三成は近隣の忍(おし)城を水攻めにしましたが、その折周囲を見渡せるこの古墳の頂上に(高さ19m)に陣幕を張り指揮を執りました。

丸墓山古墳への道
現在もこの古墳に上ることができ、頂から肉眼で忍城を確認することができます。


忍城遠景4_8

というわけで、循環バスで古墳公園から約5分ほどの忍城へも行ってみることにしました。このバスはかつて堀端であった水城公園なども通過しますので、往時をしのぶことができます。

Ⅱ 忍(おし)城
忍城全景
室町時代1478年成田顕奉氏によって築城されたこのお城は映画「のぼうの城」などでも有名です。 石田三成の水攻めに耐え、よもや水に浮くのかとまで恐れられ、「忍の浮城(うきしろ)」と称されましたが、小田原城降伏後に開城されました。(場内看板より抜粋)   廃藩の後忍城は解体されましたが、博物館周辺には土塁などが残っています。かつての御三階櫓は復元され、中は郷土博物館となっています。戦国時代の忍城水攻めの経過を伝える書状や松平家の支配下となった江戸時代の甲冑など、また足袋の生産地として栄えた頃の様子などを展示品から知ることができました。最上階は富士山から男体山までを望めます。

関連情報:埼玉県立さきたま史跡の博物館
       
※埼玉古墳群及び埼玉県立さきたま史跡の博物館に関する記事は、古墳群や博物館で得た情報を元に作成しました。

(担当⁑ アレクサンドリア)

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駅から徒歩10分のミルクファームと城跡公園

東京都CM(0)

ミルクファーム3_COVER

電車と徒歩で行くミルクファームと城跡公園をご紹介いたします。
①磯沼ミルクファーム
新宿から特急で40分、京王線高尾線・山田駅徒歩10分の磯沼ミルクファーム・磯沼牧場(東京・八王子市)を訪ねました。
磯沼牧場は交通至便な住宅街にありながら山並みを背景にした見晴らしのよい丘陵地に位置し、ここが東京だということを忘れるほどの解放感が味わえます。訪問当日は快晴で周辺に富士山を臨めましたが、残念ながらシャッターチャンスを逃してしまいました。


ミルクファーム3

牧草地に遊んだり施設内にいる牛や羊たちはみな、手入れが行き届き、とてもきれいな毛並みをしています。

羊たち

放牧される牛2

放牧されている牛たちです。写真を撮ろうとしたら寄ってきました。



牛小屋2

園内の看板によると、この磯沼牧場は「牛と人の幸せな牧場」「街の中の美味しい楽しい牧場」を目指すと同時に、家畜福祉の考え方を基に、環境に優しい牧場であるため毎日約1000キロのコーヒー皮などを牛舎のベッドなどに撒いているそうです。この完熟コーヒー牛糞たい肥は畑を元気にする有機質肥料として活用されています。

カフェ看板JPG

最近オープンした隣接のカフェ・Tokyo Farm Villageではソフトクリームやヨーグルト、ケーキ、軽食などを楽しむ観光客で賑わっていました。(写真は都合上無人のものを使用しています)

カフェ1

カフェ2


②片倉城跡公園
磯沼ミルクファームからの帰り道徒歩20分、京王線高尾線・片倉駅から徒歩10分の片倉城跡公園を訪ねました。

片倉城址)

片倉城址3JPG

この公園は小比企(こびき)丘陵の東先端に位置し、現在もその北側の斜面から複数の湧き水があり池や湿地を形成しています。湧き水の傍に可愛らしい水車もありました。

水車31

うっそうとした木々が生い茂るこの史跡には、戦国時代の武将の館を思わせる雰囲気があります。ちなみにカタクリの群生地としても有名です。

城址内1)

現在その遺構は殆ど残っていませんが、かつてこの城址からは応永(室町時代)の頃大江備中守師親が在住したことを記した板碑が出土しています。また城跡にある住吉社は片倉村の鎮守であるとともに、大江氏の守護神であったと伝えられているそうです。(東京都教育委員会編集の「東京都の中世城館」より)、また現存する遺構は15世紀後半、関東管領家扇谷上杉家の家臣長井氏によって築かれたと推定されています。(東京都教育庁の資料より)
ウィキペディア(Wikipedia)には、後北条氏の領地となって以降戦国時代後期まで砦として使用され、1590年豊臣秀吉の小田原征伐で八王子城とともに落城したとあります。
尚、園内は相当の急勾配ですので健脚の方にお勧めいたします。

※片倉城跡史につきましては、八王子市教育委員会のご協力を頂きました。

(担当⁑ アレクサンドリア)


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新選組局長 近藤勇生誕の地:調布市上石原

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私の住む調布市は、新選組組長 近藤勇の生まれたところです。
京王線「西調布駅」北口に降り立つと、ロータリーの真ん中に、赤地に白い『誠』の横に青地に白く染め抜かれた『新選組局長 近藤勇生誕の地 上石原』の文字が目に飛び込んできます。

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駅付近の住宅の前には、赤い「誠」の字とともに同じ「新選組局長 近藤勇生誕の地 上石原」と書かれた白いのぼり旗が立てられています。

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今回は、市内のあちこちにある近藤勇ゆかりの地をご紹介したいと思います。

〈生家跡〉
近藤勇は、1834年(天保5年)、武州多摩郡上石原村の農家 宮川久次郎の三男として生まれ、幼名は勝五郎と言いました。
近藤勇の生家は調布飛行場の北側(現:調布市野水1-6-8)にありましたが、1943年(昭和18年)に飛行機の離着陸に危険との理由で軍の命令によって取り壊されてしまいました。現在は、勇の産湯にも使われたという井戸だけが残っています。

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ところで、取り壊された生家の模型が調布市郷土博物館(調布市小島町-26-2)の2階に展示されており、無料で見学することができます。

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宮川勝五郎は天然理心流 近藤周助に剣術を学び、15歳のとき周助の養子となり、後に近藤勇と改名しました。養子入りの際に周助から父親宛てに差し出された嘉永2年(1849年)付けの養子縁組状が残っています。

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1863年(文久3年)、近藤勇は土方歳三らと共に幕府の浪士隊に応募して京都に行き、新選組を結成して局長として洛中の治安維持に当たりました。
鳥羽伏見の戦いに敗れた後、1868年(慶応4年)1月、幕艦富士山丸で江戸に帰還します。

※土方歳三も京王線沿線の日野の出身です。新選組のメンバーは近藤勇や土方歳三を始めとして、多摩地区の農家の次男坊や三男坊が多かったと言われています。

〈上石原若宮八幡宮〉
その年の3月、勇は甲陽鎮撫隊を編成して甲州街道を甲府に向けて出陣しました。その途中、故郷の上石原で駕篭を降り、宮川家の氏神様であった上石原若宮八幡宮に向かって遥拝して戦勝を祈願したそうです。
この上石原八幡宮は勇が通った旧甲州街道から南にかなり離れたところにあります。当時は民家も少なく、恐らく街道から眺めても八幡宮の位置を簡単に認識できたのではないかと思われます。

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〈西光寺〉
西調布駅から旧甲州街道を少し西に行ったところに、西光寺があります。
甲府に向かう甲陽鎮撫隊は、ここの境内で休憩を取ったと伝えられています。
ここには、調布市『近藤勇と新選組の会』が近藤勇の没後130年を記念して建立した、大きな近藤勇座像があります。

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〈龍源寺〉
甲州勝沼の柏尾山の戦いで敗れた勇は下総流山(千葉県流山市)に陣を張りましたが、官軍に投降。4月25日板橋にて斬首刑に処せられます。享年35歳でした。
勇の首は京都に運ばれて三条河原に晒されたそうですが、勇の甥で娘婿の近藤勇五郎は板橋の刑場で肩の鉄砲傷を目印に首のない遺体を掘り起こし、生家近くの龍源寺に埋葬しました。勇の無言の帰還を一族の人々は野川に架る相曽浦橋で迎えたと伝えられています。
龍源寺は調布市に接した三鷹市のお寺ですが、門前に近藤勇の胸像があり、本堂裏の墓地には近藤勇の古めかしい墓と甥で娘婿の勇五郎の新しい墓が並んでいます。


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ところで、東京の板橋駅前にも新選組を供養する墓所があって、そこに小さな近藤勇立像があります。調布にあるものと比べると、ちょっと可愛らしい感じです。
隣には、近藤勇と土方歳三連名のお墓もあります。

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京都の壬生寺にも近藤勇の胸像があります。
写真を見ると、龍源寺前の胸像とそっくりです。
機会があったら、そのうち訪れてみたいと思っています。

(担当 Mikkie)

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私の散歩道:高浜運河―天王洲運河(その1-鳥)

私の散歩道CM(0)

☆さつき会会員のC.F.さん(1965理)が投稿してくださった記事です。☆

JR品川駅港南口から東へ400 mほど歩くと、御楯橋(みたてばし)に来ます。階段を降りると高浜運河(河幅50 m)の遊歩道・緑地に来ます。両岸にあります。台風の高潮、地震の津波から街を守るための護岸を遊歩道・緑地に整備してあります。
一番の楽しみは、冬の渡り鳥です。10月下旬にユリカモメが来ます。シベリアやカムチャツカ半島などから遙々来るようです。

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新港南橋下に芝浦水再生センターの排水口があり、ここに鳥が集まります。今年は10月24日に24羽来ました。翌日には100羽来ました。1月頃には200羽以上来ることもあります。夜眠るのは、東京湾の無人島のようです。11月頃だと、高浜運河には、朝6時半頃、群れで来て、夕方4時過ぎに帰って行きます。欄干に止まるのも好きで、そっと近づいても逃げません。雄雌の羽の色は違いませんが、幼鳥は、羽に薄茶色いはん点があるので、分かります。2月頃になると北帰行の練習か、数十羽が一斉に飛び立ち、数分上空を舞って、また水上に戻ります。1日に何回も行います。壮観です。4月頃になると成鳥は夏羽に変わり、頭が頭巾を被ったように黒くなり、4月下旬から5月上旬に、北国へ帰って行きます。

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12月頃から、鴨類もやってきます。キンクロハジロ(水に潜るのが好きで、動作が可愛らしい)、ホシハジロ、オナガガモ(雄の姿が格好いい)、ヒドリガモ(雄の頭から嘴にかけてオレンジ色で、顔が可愛い)、ハシビロガモ(嘴の幅が広い)、コガモ、オカヨシガモ、スズガモ、時々マガモ、オシドリなどが来ます。鴨類は、雌雄で羽の色が違います。オオバン(黒く、額から嘴までが白い)も来ます。冬の間は、冬鳥を見るだけでも、楽しく過ごしています。ツグミも陸に少数来ます。春には、鶯の鳴き声も数回聞きます。季節を問わず、運河の上空を時々鳶が舞います。カワウもいます。運河にはボラなどの魚も沢山いて、カワウが数羽の群れで、狩りをするのもたまに見ます。魚を丸呑みします。
冬鳥が帰ってしまうと、次は5-6月のカルガモの雛の誕生ラッシュです。ピイピイ声が聞こえてきて、母鳥の後ろから泳ぐ姿が愛らしい。どこで生まれるのか、どこで夜を過ごすのか、いまだに突き止められません。カルガモは通年います。

ブ-3-1

天王洲運河(河幅70m)へ行くと、東京海洋大学の敷地の端(陸地)に、雲鷹丸 東京(UNYOMARU TOKIO)を展示しているのが見えます。3本マストの帆船です。帆がなくても姿が美しい。

ブ-4

お茶を飲むなら、天王洲には色々お店があります。お勧めは、港区側から天王洲ふれあい橋を渡った右側にある、T. Y. HarborのBread Worksです。美味しい小さいマロンパイとカプチーノで¥770です。コロナ前は¥500ぐらいだったと思うのですが、値上がりしました。水上レストランの建物もあるので、冬だと、目の前にユリカモメやキンクロハジロが泳いでいて、楽しいです。コロナ禍で外食を避けて過ごしていたので、2年8ヶ月振りに寄りました。その間もテイクアウトはしていたのですが。

ブ-5

次回は、植物について紹介します。

高浜運河 ( Google マップ )  
天王洲運河 ( Google マップ )

☆ C.F.さん、ありがとうございました。☆
 続きもよろしくお願いします。 (担当 Mikkie)


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大宮公園舟遊池の大かいぼりまつり

埼玉県CM(0)

誰もが一度は公園のボートに乗った思い出があるのではないでしょうか。
大宮の氷川神社(武蔵一宮と言われ、埼玉、東京近辺に約280社ある氷川神社の総本社)に隣接する大宮公園内の舟遊池でも、その名の通り、1934年に池が造成されてから2000年まで貸しボートに乗ることができました。しかし、現在はボート営業が中止され、池の水質も悪化しています。
かつてのボート 3
ボートでにぎわった頃の舟遊池

そこで、水質浄化とボート再開を見据えた大搔掘(かいぼり)まつりが今月3日4日に開催されました。11年前にも行政主体でかいぼりは行われましたが、県民は「あれっ、水なくなっちゃったね」と横目で見ていた状況でした。
今回は、企画・運営で県民や企業が連携し、ボランティアも多数募集、水が減った池に入り捕獲した生き物を公開したり、企業ブースが出店されるなど非常に多くの人でにぎわいました。
かいぼり1

かいぼり2

スジエビや多くのモツゴが採取されたほか、大きなギンブナやナマズもみつかりました。アメリカザリガニなどもいましたが、それほど多くの外来種は生息していません。これから池干しをしますが、その間にも池底を歩くイベントなど継続的に実施される予定です。
かいぼり フナ
捕獲されすぐに公開されたフナ

かいぼりは、東京を代表するボート池の一つである井の頭公園などでも行われています。池底の泥が乾きヒビ割れして空気が入ることで、富栄養化の原因の窒素が放出され、またリンは溶出しにくくなる化学変化を起こします。埋まっていた種子が発芽し水草の再生も見られます。
今後、水質の状況を見ながら、ボート再開に向けた準備が行なわれます。
大宮公園は日本さくら名所百選に指定されている桜の名所。再びボートに乗りながら桜を愛でる日が今から楽しみです。
桜のボート池 (3)
桜満開時の舟遊池
大宮氷川神社 大宮公園・大掻堀まつり
ボートに乗れる東京の公園 日本さくら名所百選
<担当:NAO>
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小石川植物園散策

イベントだよりCM(0)

11月2日、さつき会イベント委員会の主催で、さつき会会員のT.I.さんのご説明を受けながら小石川植物園の散策をしました。総勢17名。澄んだ秋空、風もなく穏やかな日差しの下で絶好の散策日和でした。

全体写真

小石川植物園は、正式には「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」という名称で、植物学の研究・教育を目的とする教育実習施設です。 1684年に徳川幕府が設けた「小石川御薬園」がこの植物園の遠い前身で、1723年に施薬院(養生所)が設けられ、1735年には青木昆陽によるサツマイモ(甘藷)の試作が行われたそうです。1877年、東京大学が設立された直後に附属植物園となり一般にも公開されてきました。
園内には、様々な樹木や薬草等が植えられており、温室や旧東京医学校本館といった建物、日本庭園等があります。
「ニュートンのリンゴの木」は、1964年に英国から日本学士院長柴田雄次に贈られた枝を接ぎ木したものです。この木から日本国内の研究所、植物園、学校等に接ぎ穂が分譲されました。(以前のさつき会ブログ「ニュートンのリンゴの木」 にも書かれています。)

ニュートンのリンゴの木2

「精子を発見したイチョウの木」は、樹齢300年ほどの大木です。1896年に、理学部植物学教室の助手であった平瀬作五郎が、種子植物のイチョウにも精子が存在することを発見しました。
被子植物と多くの裸子植物は授粉後、花粉管が伸びて精核が卵細胞に達しますが、ソテツとイチョウは、コケやシダと同じように、運動する精子が卵細胞に達します。
イチョウは雌雄異株で、春に開花し、雄株の花粉が風で運ばれて雌株の雌花の先端から内部に吸い込まれ、そこで花粉管を伸ばし精子を作る準備をします。9月になると精子ができて周囲は液体で満たされ、泳いで卵細胞に達します。しかし精子が観察できるのはたった一日です。平瀬作五郎は9月になるとイチョウの木に登り櫓を組みそこで一日過ごして、ギンナンを観察したり採集したり、研究室でプレパラートを作り顕微鏡で覗く、という作業を4年も続けて、ついに泳ぐ精子を目撃しました。

イチョウ4

ソテツの精子もその後同じ年に、平瀬の属する研究室の池野成一郎教授によって発見されました。こちらは鹿児島県で池野教授が採取した標本の中からです。そのソテツの子孫も、園に入ってすぐ左側に見ることができます。

ソテツ全体

中東からユーラシア大陸に広がるスズカケノキは、幹が青白く、葉に深い切れ込みがあります。一方アメリカスズカケノキは、幹が黒っぽく、葉の切れ込みも浅いのです。街路樹によく見られるモミジバスズカケノキは、両者を掛け合わせてできた種で、中間の特徴を持っています。園内ではこの3種類のスズカケノキを見ることができました。

この時期は、樹木の果実をあちこちで見ることができます。説明を聞いて初めて気づいた樹木に付いている果実、足元に落ちている果実も多かった気がします。


ロウヤガキ 3

ソテツ2

ケンポナシ2

オオモクゲンジ2

ユリノキ2

参加してくださった皆様、有難うございました。
スタッフ一同

(担当Aozora)


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犬をつれた奥さん

エッセイCM(0)

さつき会会員の松村幸子さん(1958年医・衛生看護)からお寄せいただいた作品をご紹介します。


   ぺんぺん草

ペンペン草や猫じゃらしが生い茂っている道端で草を食んでいる雑種犬がいた。夕方の買い物に出かける途中だった亮子は思わず
「ポンタ君?」
と声をかけた。先日新聞配達をしていた時見かけて名前を教えてもらった犬に似ていたので自分の記憶力を確かめたかった。
「いえ、サブです」
飼い主らしい奥さんが答えた。
「あ、ごめんなさい。私、目が悪くなって見分けがつかなくなってしまって」
と言いながら亮子はしゃがみこんで犬の耳の付け根のあたりをゆっくり撫でた。亮子の仕草を見ていた奥さんが小さな声でアッと言いながら亮子に聞いた。
「村野さんではありませんか」
「はいそうですが」
答えながら飼い主の奥さんを見上げた。白のスラックスに濃紺のシャツの襟元には赤のスカーフが覗いていた。
「一郎君はお元気ですか、例子ちゃんも、絵美ちゃんも」
亮子は一瞬焦った。この人は誰だろう?全く分からない。それなのにこの奥さんはうちの子供たちの名前まで知っている。どなたさまで?と聞く訳にはいかない。どのあたりに住んでいるかが分かれば家に帰って町会の名簿を見れば分かるかもしれないとかすかな期待をこめて、亮子は言った。
「お住まいはどちらでしょうか。私はT町会ですが」
奥さんはここから自分の家までの道のりを丁寧に教えてくれたが亮子は帰宅後地図の上で奥さん宅を探し出す自信がなかった。やはり苗字だけでも聞いておかねばと恥を忍んで聞いた。
「私、最近記憶力が駄目になってしまいまして、お名前が思い出せないのです。失礼ですが、お名前を教えて頂けないでしょうか」
「中村文子です。M駅降りてすぐの所に以前レストランがあったのを覚えていらっしゃいますか。今は時計店になってしまっているけれどあそこはうちのレストランだったのです。」
亮子は記憶を辿った。確かに明るくて美しい姉妹が経営しているレストランがあった。まだフアミレス等がない頃、子供の卒業式や入学式の時、家族で食事に行ったことのあるレストランで洋風のスープが美味しかった。
「はい、覚えています。スープが美味しくてすてきなご姉妹が働いていらっしゃいました。あの時の店主さん?」
「いえ、私は妹の文子です。村野さんに頼まれてレストランで働いてもらった人いましたよね」
咄嗟に言われて思い出せなかった亮子は戸惑いながら言った。
「いろいろお世話になりました。すっかりご無沙汰してしまいまして、もうあれから何年くらい経つのでしょうか」
草をまさぐり終えた犬のサブが帰りたそうにリードを引っ張るのに気づいて、またお会いしましょうと亮子は文子と別れた。

   IMG_1767.png

 買い物を済ませて家に着くと亮子は早速町会の名簿と地図を取り出し文子の家を探したがすぐには見つからなかった。番地が並んでいないので家探しが困難な地域だった。名字で索引してやっと探し当てた。亮子の家から五分もかからないで歩いて行ける近さだったが今まで一度も出逢ったことがなかったことが不思議だった。
遅くなってしまった夕食の支度に台所に入ると夫と次女がいたので早速聞いた。
「犬をつれた感じのよい奥さんが家の子三人の名前をみんな知っていたのよ。どうしてなの?」
酵素作りに余念がなかった次女の絵美が答えた。
「駅前のそのレストランであたし達アルバイトしていたの」
「エッいつ?」
「あたしは中学に入ってすぐかな。れー姉は高校時代、兄ちゃんは中学の時だよ」
「エッ知らなかった。今の今まで知らなかった初めて聞くことだわ。なんで親にも黙ってアルバイトなんかしたの」
問いただすと絵美は夏みかんの乱切りと砂糖をかき混ぜる手を休めて言った。
「相談したくてもお母さんはいつも家にいなかったじゃない。朝早くから夜遅くまでお母さんは仕事に夢中だった。あたし達より仕事が大事だったのよ」
「そんなことないわよ。あなたたちのこと何よりも大切に思っていたわ。だけど帰れない事情がお母さんにもあったのよ。聞いてくれる」
今更その時の事を説明してみたところで始まらない、とは思った。時は過ぎ去り何もかも過去のことになった今、何を言っても空しく響くだけかもしれない。しかし、仕事優先の為に子供たちをないがしろにしたと言われてはあまりにも悲しい。色褪せ凋んでいった四十五年も前のことを亮子は手繰り寄せようとして言った。
「私が保健所から精神障害者のリハビリテーション施設に転勤になったのは知っているよね。絵美が生まれる二年前だから昭和四十六年かな。保健所では昼間の勤務が主だったけれど、そこは二十四時間患者さんが生活する場所だったから勤務も三交代制で昼間八時間、夕方四時半から真夜中の十二時迄八時間、十二時から朝まで八時間働くという勤務をしていたのよ。私は係長に任命され入所者だけでなく係全体を見ていかなければならなかったの。毎日やることが山のようにあって、仕事が終わることはなかったから帰りたくても帰れなかったの。いつも考えたことはどうしたら一日も早く患者さんたちが社会復帰できるかということ、社会復帰に向けて病棟は何を大事にしていくかをみんなで討論して決めていたの。看護職だけではなく、社会福祉職、作業療法士、臨床心理職に精神科医など多くの職種がデイケア部門、就労援助部門を作って働いていたから意見の違いがあって喧嘩になって泣くことも沢山あった。国が予算化した新しい社会復帰施設だったから見学者も次次に来て経験してみないとわからない位の忙しさだった時、事故があって」
「もういいよ。そんなのみんな言い訳じゃない。聞きたくないよ」
絵美に遮られて亮子は二の句が継げなくなった。精神障碍者も人として認められ社会復帰の可能な社会を作ることを目指して馬車馬のように働いた日々、その結果手にしたのは、母親のような生き方はしたくないという絵美たちの反旗だった。
気を取り直して亮子は夫に聞いた。
「お父さんは子供たちがアルバイトするのを許したの」
「いや知らなかった。今始めて聞いてびっくりしている」
「お父さんにも相談しなかったの」
矛先がまた自分に返ってきそうなことを察知した絵美は、夏みかんの匂う琺瑯の器を抱えて自分の部屋に退散してしまった。
いづれにしてもレストランの文子たちにお世話になって絵美たちは育ったのだ。遅ればせになってしまったけれどお礼とお詫びに行かなければならないと亮子は夫と話し合った。


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「象鳴き坂」を訪ねて~吉宗将軍に献上された象の話~

静岡県CM(2)

静岡県の浜名湖の北を通る「姫街道」には、引佐(いなさ)峠の少し手前に「象鳴き坂」という急な坂があります。
象が悲鳴をあげた坂とは一体どんな坂なのか、是非自分で体験してみたい!
姉に誘われて強く興味を抱いたので、3年前の4月末に訪れてみました。
今回は、この「象鳴き坂」とそこを通った象について書こうと思います。

ブDSC03785

1728年6月、ベトナムから雌雄の象2頭が長崎に到着しました。8代将軍徳川吉宗に献上されるために遥々連れて来られた象でした。
ところがその年の9月、雌の象が死んでしまいました。そこで、残った雄象だけを長崎から江戸まで連れていくことになったのですが、象があまりに大きくて重いので、当時の日本には海路で運べるほど大きな和船がありませんでした。仕方なく、象を歩かせて陸路で江戸まで運ぶこととなったのでした。

1729年3月13日、宰相2人とベトナムからやって来た2人の象使いを含む総勢14名の一行は象を連れて長崎を出発。長崎路を11日掛けて3月24日に小倉に到着。翌25日、大里(だいり)から底の平らな石船で海峡を渡って下関へ。潮の流れが外海から瀬戸内海へと変わる瞬間を捉えての渡りでしたが、海峡の激流に翻弄されながらなんとか渡り切った、まさに危機一髪!この後「道中、船渡しは可能な限り回避すべし」との追触れが出ています。
下関では大寒波で足止めされ、3月29日にようやく出発。山陽道を広島、尾道、岡山と辿り、4月16日に姫路に到着。さらに兵庫、尼崎を通り4月20日大阪に到着して、23日まで逗留。京都に着いたのは4月26日でした。
京都には3泊して、御所で中御門天皇に拝謁した後、4月29日三条大橋を渡って京を出発。この天覧を機に、京を中心に大変な象フィーバーが巻き起こったそうです。

京からは逢坂山を登り、大津から草津へ。草津川を徒歩で渡って琵琶湖沿いに中山道を北上。今須宿から関ケ原の古戦場を通り抜け垂井へ。垂井からは、鈴鹿峠の難所や桑名から宮への7里の船旅を避けるため美濃路を辿って名古屋へ向かいます。
揖斐川は象が深みに嵌って水没しながらも歩いて渡り、長良川を象船で、境川は浅瀬を歩き、木曽川はまた象船で渡り、清州へ。名古屋を5月5日、家康の生まれた岡崎を5月6日に過ぎ、「姫街道」を辿って「象鳴き坂」に差し掛かったのは梅雨の5月8日。雨の中の峠越えでした。その後も雨は止まず、木賀(気賀)で2泊しています。

浜松で東海道に戻り、天竜川、大井川を歩いて渡り、岡部、十国坂、宇津谷峠を通り、安部川では川越人足の人堰で流れを緩めた中を徒歩で渡り、府中(静岡)、清水を抜けて興津へ。5月15日興津を発って由井宿、蒲原、富士川を渡り、沼津から三島宿へ。5月17日にいよいよ箱根に挑みます。箱根の山の険しさは「象鳴き坂」の比ではなかったようで、なんとか箱根宿に辿り着いた象は遂にダウンしてしまい、回復のため4泊5日を要しました。この間、象の不調を江戸に知らせる早馬が二度も出されたり、宰相が箱根神社で象回復の護摩を焚いてもらい、駒形神社で祈願の上お札を頂いたりした記録が残っています。
ようやく回復した象を連れた一行は5月21日に箱根宿を出発し、小田原、平塚、戸塚と泊り、川崎に5月24日に到着。翌25日、六郷川(多摩川)に作られた船橋を渡って、蒲田、大森、品川を通って高輪の大木戸から江戸に入り、浜御殿(浜離宮)に新しく用意された象小屋に到着しました。
長崎から江戸までの354里を74日かけて歩き通した旅でした。
江戸城に参上して、待ちわびる8代将軍吉宗に謁見したのは、2日後の5月27日のことです。

2019年4月、私たちは天竜浜名湖線の都築駅で下車して「象鳴き坂」へ向かいました。
田んぼを抜け、住宅が点在するみかん畑の中の舗装された坂道を上り、牧場を通り過ぎると、道端に草に覆われた一里塚がありました。日本橋からちょうど70里とのこと。

ブDSC03763 ブDSC03766

分かれ道に「姫街道」の立て札があり、ここから細い土道に入ります。石コロだらけの坂道はとても歩きにくく、気を付けながら上っていくと道の脇に大きな「石投げ岩」がありました。引佐峠を上り下りする旅人が道中の無事を祈ってこの岩に石を投げたそうで、岩の上には小石がいっぱい載っていました。

ブDSC03777

この辺りからいよいよ本格的な急坂となります。しばらく行くと「象鳴き坂」の立て札!
そこからはさらに道が悪く、急な細い坂道が続きます。左側は崖。

ブDSC03783

かなり大変ですが、人間は身体が小さいから泣くほどのことはありません。でも、滑りやすい雨の中、図体の大きな重い象だったら確かに悲鳴をあげたことでしょう。
本当に、よく転げ落ちなかったものです。こんなところを延々と歩かされた象に心から同情しました。なんて気の毒な象さん!!!
急な坂道はまだまだ続きます。息を整えながら、ゆっくり着実に登っていきます。
やっと引佐峠に着きました。

ブDSC03791

とても大変だったのに、この峠の標高がたったの200メートルしかないことに驚きました。その割には急な坂道の連続!
峠というのに木々が邪魔して見晴らしは効かず、景色は全く見えません。
ここからは、ひたすら下ります。
さらにどんどん下りていくと突然眺望が開け、浜名湖を見下ろす絶景が!

ブDSC03796

疲れが一瞬で吹き飛んだ「象鳴き坂」の旅でした。

さて、江戸城で吉宗将軍に謁見した象のその後について。
一行の通り道となった各藩に多大な負担を掛けながら大騒ぎして江戸まで連れてきて、江戸でも大フィーバーを巻き起こした象でしたが、吉宗はたった3回会っただけで興味を失い、その後は全く関心を示しませんでした。
「金喰い怪獣」の厄介者となった象は浜御殿で12年間過ごした後、中野村の源助という男に払い下げられ、見世物にされた上に餌も碌に与えられず、1742年12月11日、寒さと飢えで衰弱して死んだそうです。21歳でした。

「象が泣いた坂とは一体どんな坂?」という単純な好奇心で訪ねた旅をきっかけに私が知ったのは、なんともやるせないとても悲しい話でした。

参考資料:「象の旅 長崎から江戸へ」(石坂昌三著 新潮社)

(担当 Mikkie)

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虎ノ門駅のアート

東京都CM(0)

徐々に新型コロナ以前の生活に戻りつつあるこの頃ですが、皆様いかがお過ごしですか。
私は最近東京メトロの虎ノ門駅で面白いものを見つけました。
虎ノ門駅の周辺は再開発が進み、再開発した建物から駅にアクセスできるようになり、駅のホームも改修が進んでいます。
その改修が済んだ渋谷行のホームの壁面です。
一見したところ、子供が虎のお面をかぶって遊んでいる絵です。

IMG_1314.png

近寄ってみると、凸凹があり、絵画というより彫刻のようです。
正面からだけでなく、右から見たり、左から見たり、見る方向や角度により、凸凹とその影により表情やしぐさが変化していきます。不思議なアートです。

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東京メトロの資料によると、これは2020年に設置された「白い虎が見ている」という中谷みちこさんの作品だそうです。
銀座線については、2017年の上野駅をはじめとして、京橋駅、銀座駅、青山一丁目駅、日本橋駅等にパブリックアートが設置されているそうです。(詳しくは以下の東京メトロの資料をクリックしてください。)
 
 上野駅・末広町駅
 京橋駅、銀座駅、虎ノ門駅、青山一丁目駅、外苑前駅
 日本橋駅

これらの駅を利用されることがあったら、パブリックアートをご覧になってみてください。


 (担当 Aozora)

小林逸翁が工夫を凝らした邸宅と茶室~小林一三記念館・雅俗山荘

博物館めぐりCM(0)

 阪急電鉄の池田駅からなだらかな坂を登って、徒歩10分。池田文庫や逸翁美術館を通り過ぎると、立派な門構えの小林一三記念館が現れます。小林一三記念館は、小林一三氏の旧宅である「雅俗山荘」を中心に、小林一三氏の功績を紹介する施設です。
雅俗山荘長屋門
能勢町にあった庄屋から移築したと伝えられる長屋門。「雅俗山荘」の玄関アプローチにつながる。(出所:小林一三記念館ホームページ)

 小林一三氏は、阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者です。宝塚歌劇や阪急百貨店、宝塚ホテルも設立した実業家であり、茶人、文化人としても活躍されました。逸翁は、一三氏の雅号です(ここでは、以後「逸翁」と呼ばせていただきます)。
 長屋門を入ると、正面が小林逸翁の旧邸である洋館「雅俗山荘」です。現在は、優雅な雰囲気の中、フランス料理を楽しめる山荘レストランになっています。
雅俗山荘玄関
雅俗山荘の玄関。鉄筋コンクリート造2階建ての洋館ですが、屋根は日本風のいぶし銀の瓦が葺かれた和洋折衷の建物

 私も、さつき会の友人たちと「雅俗山荘」でランチをいただきました。玄関を入るとすぐに二階まで吹き抜けになった広い応接間があり、今はラウンジとして使われています。私たちが案内されたテラス席は、かつてはサンルームで、逸翁はここで家族や友人とバーベキューなどを楽しんだそうです。テラス席からは庭の緑を楽しむことができ、雨天にもかかわらず明るい光が差し込んでいました。
テラス席
光が差し込むテラス席
ダイニングからテラス席を望む
ダイニングからテラス席を望む

 この山荘で逸翁は、こう夫人と3男2女の子どもたちと暮らしました。元テニスプレイヤーの松岡修造さんは、松岡家に養子に行った逸翁の次男の孫にあたるそうです。今は、二階のこう夫人の部屋や逸翁の書斎も自由に見学することができます。庭に面した南向きの広い部屋がこう夫人の部屋です。夫人の部屋には、当時は珍しいシャワー付きのバスルームも隣接しています。一方、逸翁の書斎や部屋は、北側の山が見える部屋です。
逸翁の書斎
逸翁の書斎。かつては窓から山を見ることができた。
こう夫人の部屋
庭に面した南向きのこう夫人の部屋
こう夫人のバスルーム
当時は珍しいシャワー付きのこう夫人のバスルーム

 庭には、三つの茶室がお互いに邪魔し合わない絶妙な位置に配されています。近衛文麿公が命名した二畳の茶室「費隠」、逸翁が生前使用していた茶室から名づけられた茶室「人我亭」も見ごたえがありますが、何といっても惹きつけられるのは「即庵」です。「即庵」は、三畳台目に土間を二方に廻らせた椅子席の茶室です。逸翁の考案で、10席の椅子席からは畳上と同じ視線で喫茶、拝見ができるように工夫されています。茶道愛好家にも正座が苦手な方が多い中、このような茶室を考案したところに、逸翁の発想の豊かさ、お客様への真のもてなしの心を感じます。
茶室「即庵」
茶室「即庵」

 小林一三記念館や雅俗山荘の魅力は、まだまだ伝えきれません。ぜひ一度足を運んでみてください。

小林一三記念館
(担当:ゆっちょむ)



カリフォルニア州は宇宙探求の搭乗口

カリフォルニアCM(1)

カリフォルニア在住のさつき会会員、林左絵子さんに「宇宙探求の旅」の案内をしていただきました。
このブログを通して、皆様にも「ダークなカリフォルニア旅行」を楽しんでいただければと思います。


 夏休みにカリフォルニア旅行、というと皆さんはどのような所を思い浮かべられるでしょうか。南北に長く、太平洋に面しているこの州は、ほぼ日本と同じ広さ、人口は日本の1/3ぐらいです。
 比較的温暖だった気候のおかげで豊かな森林を含む国立公園、スポーツの盛んなところ、あるいはハリウッド、ディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、など。日本からの移民も含め、古くから日本との交流があります。かなり明るいイメージなのではないでしょうか。そこで今回はダークな面をご紹介したいと思います。ただしこの「ダーク」は、星々をよく見る、また宇宙空間を表現しようとして引っ張ってきた形容です。

ロサンジェルス

写真:ロサンジェルス空港着陸前、ダウンタウンの高層ビルと密集した建物群、遠くにサンゲーブリエルなどの周辺山地。地表近くの空がけむっているのは、(この時は)山火事ではなくスモッグ。それがなければ、雲一つない青空。



ロサンジェルス国際空港
 日本の各地の空港から太平洋を超えて、南カリフォルニアのロサンジェルス国際空港に着くと、ほとんどいつでも空が明るい。昼間は天気が良いために明るい、夜は街の活動で明るい。空港を抜け、ダウンタウンに向かうフリーウェイ(自動車専用道路、無料)に載ると、空港周辺にハイテク企業の建物が並んでいるのが目に入ります。
  東側に開けているのは電気自動車テスラの工場群とオフィス。そのどれかが、ロケットや宇宙船を扱うスペースXの管制の建物。国際宇宙ステーションに宇宙飛行士たちが往復する際に、ストリーミング画面に映るあの管制室があるところです。
  反対の西側、丘陵地帯のビバリーヒルズの近くにはカリフォルニア大学ロサンジェルス校があります。物理や天文の研究も盛んに行われていて、天の川の中心部にブラックホールが存在することを示したアンドレア・ゲエツは、2020年に女性の天文学者として初めてノーベル物理学賞を受賞しました。アンドレアはハワイ島にある望遠鏡をよく使っています。同年のノーベル化学賞を受賞したのは2人の女性化学者ですが、そのうちの1人はハワイ島ヒロの出身、地元の公立高校を卒業しています。自分が長いことハワイ島に暮らしていたので、このような地縁を勝手に喜んでしまいました。

グリフィス天文台 とカーネギー天文台
 旅を続けましょう。フリーウェイを北上してパサデナ市に至ると、カリフォルニア工科大学とジェット推進研究所があります。市民天文台の草分けの一つ、グリフィス天文台、また宇宙膨張を示す観測が行われた2.5メートル望遠鏡のあるウィルソン山天文台やそこを運用していたカーネギー天文台などが近くにあり、米国が関わる2つの次世代光学赤外線望遠鏡本部もパサデナにあります。グリフィス天文台からは、「Hollywood」の標識がよく見え、「Back to the Future (1, 2)」「ラ・ラ・ランド」「スタートレック」などさまざまな映画やテレビのロケにも使われました。
天文台1

写真:グリフィス天文台。1935年から市民に公開されている天文博物館。展示を見るだけでなく、できるだけ触って理解できるよう工夫されている。ロサンジェルスの市街地を一望にできる。

カーネギー天文台

写真:カーネギー天文台本部。右側の針葉樹との間、遠くに見えるサンゲーブリエル山地に見える白い塔が、ウィルソン山天文台の施設。ウィルソン山天文台は1904年の開設なので、120年近くの歴史を持つ。ここの2.5メートル望遠鏡(=100インチ)を使い、エドウィン・ハッブルが膨張宇宙の発見につながる観測を行った。自分が住むアパートからもこの塔が見えるので、30メートル望遠鏡(=100フィート)作りに気合が入る。性能を100年は持ち堪えられるようにしたい。

パサデナ市を中心とした宇宙研究機関や基地
 パサデナ市は、ロサンジェルス市をはじめとするロサンジェルス郡の人口密集地帯を避け、郊外にあり、山に近いので少し涼しく、昔は避暑地として親しまれ、また広い土地が使えたのでした。北部・東部の州から避寒のために来ることもあったようです。東京都・神奈川県にありながら混んだところから少し離れている、国立天文台(東京都三鷹市)やJAXA宇宙科学研究所(神奈川県相模原市)のようなものかもしれません。
 さてカリフォルニア州には、宇宙から地球を調べたり、宇宙での活動を進めるための研究機関や基地もあります。北部のサンフランシスコ、サンノゼ、またシリコンバレー周辺と南部のロサンジェルス内やその付近に本部があったり、そこから離れた山地や砂漠に研究施設や打ち上げ基地があったりします。スペースXの管制本部がロサンジェルス郡にあることは既に触れましたが、ロサンジェルスの北にあるヴァンデンバーグ宇宙軍基地(「空軍」ではなく「宇宙軍」)からファルコンロケットを使い、海洋調査衛星や通信衛星などが打ち上げられています。昨年11月には、地球への小天体衝突回避策のテストのために2つの小惑星の進行方向を変えるテスト機が打ち上げられました。今年の11月にその試験が行われる予定で、どうなるかドキドキものです。
 パサデナから近いパームデールには、地球人として月面に初めて降り立ったアームストロング宇宙飛行士の名前を冠した研究センターがあるのですが、ジャンボ機に搭載した空飛ぶ望遠鏡の基地でもあります。雲より上を飛ぶことで、雲つまり地球の水(水蒸気)の影響を最小限に抑えることができ、たとえば月の岩石に水分が含まれていることを発見できています。2020年10月に発表されたこの研究は、月のでき方、ひいては地球のでき方を調べる上でとても重要な発見でした。ただしその水分を搾り取ることができても、おそらくサハラ砂漠の水分より少ないようで、人間が長期に月面滞在する助けにはならないでしょうが。 

日本の貢献も大きいアルテミス計画
 8月29日にフロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げ予定で、月を周回することになっているアルテミス1号は、2号での有人飛行に向けて打ち上げ機と宇宙船の性能を証明しようとしています。カリフォルニアに限らず、あちこちにある企業や研究所が力を合わせて作ってきています。人類がもっとも最近に月に降り立ったのが1972年のアポロ17号によるものでしたから、もしアルテミス2号が月に到着すると50(プラスアルファ)年ぶりになるわけです。しかも今回は女性宇宙飛行士も含まれ、月面の長期滞在に向けて計画が進められています。
 国際宇宙ステーションもそうですが、アルテミス計画でも米国以外の国からの物と人の参加が重要な役割を持ち、日本の貢献も大きいものがあります。日本からの女性専門家が月で研究開発に活躍する日(夜?)もそう遠くない、とワクワクしながら月を見上げています。

林 左絵子(1982年理学部、1987年大学院)



(担当 Giglio)


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科学者への道を考えるきっかけに ~日本女性科学者の会シンポジウム動画「女性科学者への期待」

男女共同参画CM(0)

夏休みは、お子様と将来の進路を話し合うよい機会ですね。
そんな時に理系進学を考えるきっかけにしてほしいと、会員の本間(加藤)美和子さん(医学系研究科卒)から、ご自身が参加されている日本女性科学者の会のシンポジウムの動画と、内閣府などが共催する理工系女子を応援するサイトをご紹介いただきました。


(一社)日本女性科学者の会は、2021年例会シンポジウム「女性科学者への期待~女性科学者はなぜ増えないか」の動画をYouTubeで公開しています。このシンポジウムでは、林 伴子内閣府男女共同参画局長(当時)をはじめとするパネリストの方々のお話から、日本の女性研究者割合が16.9%と国際的に見て非常に低いことに対する危機感が伝わってきます。
日本女性科学者の会 2021年例会シンポジウム

本間さんによると、当時男女共同参画局長を務めておられた林 伴子さんは、エネルギーに溢れ、明るいお話をされ、同時に科学者としてデータをきちんと読み取り、データに基づく政策の整備にも意欲的に取り組んでこられた方だそうです。パネリストとして登壇されている松尾 泰樹さん(内閣府科学技術・イノベーション推進事務局長) は、長く日本の科学技術政策ヘ貢献されており、なおかつ親しみあるお話の仕方からも分かるように、人望厚い方だそうです。そして、塩満 典子さん(文部科学省科学技術・学術政策研究所上席フェロー:当時)は、日本の女性研究者支援事業を政策側から牽引した中心人物だそうで、Machiさんは大学院から米国で学ばれた後、NSFにて米国での女性研究者支援事業をリードして来られたのだそうです。シンポジウム紹介画面

府省庁の方々のお話が表に出る機会は意外と少なく、このシンポジウムのような動画公開は実は希少だそうです。それだけ国の政策に関わる方々が、大学、小中高から、家庭ぐるみで理系選択を支援することの必要性を痛感されている証かもしれません。私も、林局長のお話にあった、日本がOECD諸国の中でSTEM(science, technology, engineering and mathematics)分野に進む女子学生の割合が最下位である要因として、親や教員による女子中高生への無意識の声掛けが進路選択に大きな影響を与えている、との指摘にドキリとさせられました。STEM系大学入学者女性割合
「男女共同参画白書 令和4年版」より

我が家にも、夏休み明けに文理選択を迫られている高校生の娘がいます。私が先日、シンポジウムの動画をテレビ画面に映して見ていたら、その横で、宿題をしながらチラチラと見ていた娘がポツリと「私、実験とか興味あるんだよね」とつぶやきました。日頃、「数学や物理・化学が好きだけれど、あまり成績が伸びない」「なりたい職業は理系が多いけど、理系科目の成績が悪いから文系に行こうかな」などと迷っている娘の本音のような気がしました。親である私がちょっと背中を押すだけで、娘の将来は大きく変わるのかもしれません。これからは、理系に進むこともしっかりと視野に入れて、娘とよく話し合ってみようと思いました。

そんな私たち親子にとって、本間さんからご紹介いただいた「夏のリコチャレ2022」は、願ってもないサイトでした。内閣府・文部科学省・経団連が共催するこのサイトでは、職場見学・仕事体験・女性技術者や研究者との交流など、理工系の仕事や将来に触れられるイベントが一覧でわかりやすく紹介されています。既に満員御礼となっているイベントもありますが、楽しそうなイベントがたくさん紹介されていて、見ているだけでワクワクします。男女関係なく参加できるイベントもあるので、息子にも参考になりそうです。
夏のリコチャレ2022

この夏、お子様と明るい未来を見据えて話し合ってみませんか?

(担当:ゆっちょむ)


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観潮楼~森鷗外記念館~を訪ねて

博物館めぐりCM(0)

様々なジャンル、美しい文体の森鷗外の作品に魅了された日々を突然思い出したのは、NHKBSドラマ「孫のナマエ 鷗外パッパの命名騒動7日間」を見たこと、友人から鷗外の末子について書かれた「類」(朝井まかて著)を読んでいると聞いたこと、からかもしれません。
千代田線千駄木駅から、眩しい太陽を浴びながら団子坂を数分上ると「文京区立森鷗外記念館」に到着。
ここは森鷗外が家族と共に30年間暮らした家の跡で、家の2階から品川沖が見えたため、自ら「観潮楼」と名付けたそうです。観潮楼では、「青年」「雁」「高瀬舟」などの作品が生まれました。


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〇鷗外生誕160年・没後100年
今年は、森鷗外(1862年~1922年)の生誕160年・没後100年の年に当たり、記念館ではこれにちなんだ展覧会が開催され、訪れた日は、特別展「読み継がれる鷗外」が行われていました。
館内は撮影禁止。メモを取ろうとうっかりボールペンを出した途端、記念館の方にやんわりと注意をいただき、小さな鉛筆のついた小さな手帳を使うことに・・・。


鷗外1 鷗外4

〇11歳で現在の東京大学医学部の前身に入学

10歳で父と共に上京した鷗外は、年齢を2歳偽って、わずか11歳で第一大学区医学校に入学したそうです。19歳で卒業した後、軍医として4年間ドイツに留学し、陸軍の指示による調査研究を行う傍ら、西洋の文学、美術に心酔したようです。
ところが、軍医として日清戦争、日露戦争の戦地に赴くこととなります。
このような体験の中で、鷗外は何を学び、感じたのでしょうか。

〇広い交友関係
多くの人々の書簡が展示されていました。樋口一葉 二葉亭四迷 幸田露伴 高村光太郎 芥川龍之介 太宰治・・・・。 到底書き尽くせません。
1907年、観潮楼歌会を開き、そこには伊藤佐千夫、佐佐木信綱、与謝野鉄幹、さらに斎藤茂吉も集まり毎月のように歌を詠んだといいます。
鷗外は観潮楼というサロンで多くの文学者の交流と互いに高め合う機会を作っていたのでしょう。

ougai02.jpg ougai03.jpg三人冗語の石

〇読み継がれる鷗外
三島由紀夫は、「鷗外はおそらく近代一の気品高い芸術家」と最高の賛辞を述べていました。
また、中野重治の「すべて文学を通して復讐した」という言葉は強烈に心に残りました。
さらに、画家安野光雅は、鷗外の「即興詩人」の影響を強く受け、その足跡をたどり、心に響くような繊細な絵を描きました。「(鷗外の)『即興詩人』は物語が主というより、文語体の調べの美しさが主だといえる。あらすじでは到底伝えることのできぬ音楽的文章の世界があるのだから、それを聴いてもらいたいのである。」と、述べています。

鷗外6

鷗外5

〇モリキネカフェ
モリキネカフェ。そこは思いがけない至福の空間でした。カフェからは二度の火災を免れた大イチョウ、鷗外が幸田露伴、斎藤緑雨と共に写真を撮影したという「三人冗語の石」が臨め、2回の火災で焼失した観潮楼の名残が伝わってくるようです。
軽食のモリキネセットはコーヒー付きで1000円。プレッツェル、コンビーフ、ザワークラフト、ヨーグルトなど一つ一つにドイツの手作りの味わいが込められているようでした。

売店には、森鷗外の作品、関連した作品が並んでいます。私はしばらく迷った後、その中の一冊を選びました。
かつては海が見渡せたという方向を見ると、東京スカイツリーが小さなろうそくのようにビルの間に挟まって、光っていました。

鷗外7

今後の展覧会の予定です。
8月15日(金)~10月16日(日) コレクション展
鷗外の東京の住まい
10月22日(土)~2023年1月29日(日) 特別展
鷗外遺産

文京区立森鷗外記念館

(担当:Giglio)

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小石川植物園でのKew garden画家による植物画教室

私の愉しみCM(2)

今回は、さつき会会員・宮下深帆さん(1998年教育学研究科・教育心理学コース)からの投稿です。
宮下さんは、困りごとで気落ちしている方がいたら、新しいことに踏みだして希望をつかむきっかけになってほしい、というお気持ちで、このブログを書かれたそうです。


サクランボ細密画j4peg
水彩(ハイライト)の初練習…さくらんぼ

 女性として、ひとり親として、3.11ではふるさとを失くし、難病の重症患者となり、障がい者として生死の瀬戸際に立っていましたが、そのあいだに国による差別のあった法律の改正を叶えるなどしつつ、不思議に生きられてきました。
 そんな私の最近のとっておきは、英国キュー王立植物園(通称 Kew garden)の画家にご縁をいただいた、ボタニカル・アート事始めです。  一日の多くを横になってすごす身ながら、執筆にとりくんできて、なんとか10万字ほどのエッセイ集を書き上げた今春、2022年春のことでした。  原稿の発表先を求めるかたわら、リハビリに出かけた小石川植物園の受付で、 Kew の植物画家による教室のお知らせを見つけました。
 植物画は近年、第二の黄金時代ともいえるブームで、日本でも盛んになっているそうですね。
 今回は小石川植物園という研究機関が舞台になっていることもあり、植物学を支えてきた精細で美しい Kew 流のボタニカル・アートを教わってきました。  昨年の東京都庭園美術館で英国をとりあげた展示などを通じて、ボタニカル・アートの美しさ、かつて英国女性に許されていた稀少な職業だったことをご存知の方もいらっしゃると思います。
 Kew のボタニカル・アートは、精細に植物の組織が描きあげられた水彩画です。そしてまぎれもない細密画であることは、当然でした。
 それなのにウットリと眺めるばかりの私は、間の抜けたことに、実際に描くことになってから、それが細密画であることに気づいたのでした。 「大ざっぱで不器用な自分が取りかかるなんてガラでもない…」と大いに怯みました。 ところが、意外にも向いていることがあったようなのです。  不自由が増えて出来ないことの多くなった身にとっても、まだまだ探求し発見する愉悦に満ちた、豊かな世界を見つけたようでした。

ナス0
題材の参考写真(なす実物)

ナス細密画peg
もう一回ハイライトの練習…なす

その理由ですが、まず、
⚫︎力は要らない
 ということがありました。デッサンでも水彩でも、ボタニカル・アートのばあい筆圧はむしろ軽いほうがきれいに仕上がります。
⚫︎あまり腕を動かす必要がない
 植物の実寸で描くので、手の動きが小さいままで作業ができます。
⚫︎絵心に頼らなくても大丈夫  
  独創的な描写はありえません。 よく観察して、できるだけ正確に描くことが求められているので、ディバイダ(算数で使ったコンパスのような採寸器)を使って、凹凸も光彩も陰影も、ひたすら愚直に描きこむのみ。 絵心がなくても美しい絵が描けます。なぜなら、美しい対象をありのままに描ければ、それでよいのですから。
 初めは、震える手先とぼやける視力で細密画に挑戦する自分がぎこちなくて、笑ってしまうほどでした。ところが、慣れてくるとだんだん気にならなくなりました。 そして、ゆっくり取りくめる点が向いていました。 画材(花など)が元気なうちにデッサンしてしまえば、あとは自分のペースでゆっくりと仕上げることもできます。強壮な身体に恵まれていない者にとっては、願ってもないことです。
 さらにはじつは、急がないで描くということが大切だったりします。職業人・主婦業・子育てなどを一手に引き受けて四六時中動きまわってこなしてきた人間にとって、これはもうほとんどライフスタイルの革命です。
 一方で予想外だったのは、思った以上の認知活動が求められるということでした。
⚫︎一にも二にも、観察力
 デッサンでも彩色でもそうです。彩色でも生の画材を丹念に観察することによって、リアルな描画が仕上がって行くのですね。
⚫︎彩色では、自分がスパコン化
 水彩絵具は、乾いたときに色が薄くなり、色合いも変わってしまいます。 ですから “色をつくる” という次元に加えて、仕上がったときに望んだ色味になるように計算して色を作って行きます。 それから彩色の要となる、光彩と陰影の表現では、実物を仔細に観察して、描いている絵との差分を見てとりながら塗りかさねて行きます。
 差分の抽出は言ってみれば実物と絵を見比べる “間違いさがしゲーム” です。 自分の頭のなかで画像解析し、光や影を計算するところもあり(光のあたり方は刻々と変わるため)おどろくほど頭を使います。自分がまるでスーパーコンピュータのようになったかのようです。
 それは私に絵心がないせいなのか? それともボタニカル・アートの巧みな人は相当知能が高いのか? まだよく分かりませんが…  ボタニカル・アート初心者にとって、取りかかるまでの心理的障壁は高くて、大きな山のように思います。 観察したとおりに描くためにはどう手を加えれば良いのかという自分なりの “解” がないと、なかなか手が動かせないからです。
やっと取りかかっても「むずかしいー」と心のなかで悲鳴をあげてしまいます。それでも、とにかく自分なりの解にそって手を動かします。
 それから少し離れて、しばらくリラックスした状態でときどき眺めるようにしていると、描き方が必要十分なところと、不十分なところがふたたび見えてきて、さらなる “解” が浮かんできます。 心の働き、いとをかし、です。
 そうしているうちに  「案外いいんじゃない?」  「なんだか感じがいい」  と思える箇所が出てきます。それらを手がかりにして描き足して行くと、立体感が現れてきます。 しだいに実物と同じような凹凸が描けてくると、葉脈の流れなどが自ずと浮かんできたりします。 色を濃くしながら塗りを重ねていると、絵はしだいに生き生きとしてきて、そうなるといつのまにやら食事も後回しにして熱中してしまいます。 仕上がりまでには、期待と不安に揺れながら色をつくり、なんども勇気を奮って絵筆を濡らします。ひと塗りでそれまでの努力を台無しにしかねない彩色は毎回チャレンジで、冒険です。
 それでも出来ないことだらけになってから、まだ出来ることが増えるという手ごたえは大いなる悦びです。
 感激が嵩じて、先月はブルーベルの咲き乱れるKew gardenを目指してロンドンへの冒険にも出かけました。

キューガーデン

KEW garden の美しい展示

ロンドン画材や
画材を買いに…ロンドンの画材屋さん
 10万字の原稿も日の目をみるように努めつつ。これからも、不自由のなかにあっても出来ることに努めて行きたいと思います。  
病をきっかけに、さつき会で出逢った方々がつぎつぎと手を差し伸べてくださいました。いまのボタニカル・アートの愉悦も創造も、皆さまとの交流なくして到達することはありませんでした。あらためまして、心より御礼申し上げます。

宮下深帆(みやしたみほ)


(担当⁑ アレクサンドリア)

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漱石山房記念館を訪ねて

博物館めぐりCM(0)

人形2JPG
記念館に休む漱石の人形です。

東西線「早稲田」駅二番出口から徒歩十分、「硝子戸の中」に登場する夏目坂経由で新宿区立漱石山房記念館を訪ねました。

漱石山房
漱石山房記念館

夏目漱石は明治四十年九月から亡くなるまでの九年間を「漱石山房」と呼ばれた早稲田南町の家で暮らしました。この地で「坑夫」を皮切りに、「それから」「門」「こゝろ」「道草」を執筆、「明暗」の執筆途中に胃潰瘍のため亡くなりました。享年四十九歳。



一階には漱石の書斎が再現され、「移竹樂清陰」の額が飾ってあります。
書斎内の家具・調度品・文具は、資料を所蔵する県立神奈川近代文学館の協力により再現。書棚の洋書は東北大学附属図書館の協力により、同館が所蔵する「漱石文庫」の蔵書の背表紙を撮影し、製作されました。

夏目書斎JPG
漱石書斎

二階には漱石の書籍からの名言が展示されていました。そのうちのいくつかをご紹介しましょう。

「呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。」(『吾輩は猫である』明治三十九年)

「真面目とはね、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。遣っ付けなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。」(『虞美人草』明治四十年)

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。… … 日本より頭の中の方が広いでしょう。」(『三四郎』明治四十一年)

「僕は常に考えている。「純粋な感情程美しいものはない。美しいものほど強いものはない」と」(『彼岸過迄』明治四十五年)

「私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」(『こゝろ』大正三年)

「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうなれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ。」(『明暗』大正五年)


建物の外、漱石公園には『猫の墓』があります。
これは『吾輩は猫である』のモデルとなった『福猫』の十三回忌にあたる大正九年、夏目家で飼われていた生き物を供養するため、鏡子夫人と漱石の長女・筆子の夫・松岡譲が作らせたものです。昭和二十年の空襲で漱石山房が焼失した折損壊されましたが、昭和二十八年にその残欠を利用して再興されました。現存する漱石山房唯一の遺構です。

夏目胸像JPG
漱石公園入口・漱石胸像

猫の遺構
猫の墓

☆このブログは漱石山房記念館のご協力を得て作成いたしました。
関連情報:新宿区立漱石山房記念館

(担当⁑ アレクサンドリア)


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さつき会イベント委員の有志が会員の皆さんと一緒に様々な情報をお伝えしていきます。           (※ブログ内の関連情報は、興味をお持ちの方にさらに深く知って頂くためのものです。さつき会として販売促進するものではありませんのでご了解ください。)

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