さつき会ブログ

さつき会イベント委員の有志が会員の皆さんと一緒に様々な情報をお伝えしていきます。           (※ブログ内の関連情報は、興味をお持ちの方にさらに深く知って頂くためのものです。さつき会として販売促進するものではありませんのでご了解ください。)

アメフト観戦記

イベントだよりCM(0)

会員のK. D. さん(2023年 総合文化卒)に、さつき会のアメフト応援イベントでの観戦記を書いていただきました。なお観戦イベントは、8月のブログ記事東大アメフト部・・」を契機に開催されたものです。


はじめに
9月16日(土)東京ドーム開催の東京大学アメリカンフットボール部WARRIORSの中央大学戦の応援に行きました。アメリカンフットボール部は関東1部上位リーグTOP8に所属しています。部員のほとんどが未経験の中で、日本一を目指して、TOP8の強豪校と渡り合っています。今回のアメフト応援イベントはさつき会の参加者にとっても、エキサイティングな時間となりました。

アメフトの説明
アメフトは陣取り合戦のスポーツです。オフェンス側のチームはパスやランを駆使して、相手陣地のゴールラインまでボールを進めタッチダウンを狙いに行きます。オフェンスにはまず4回の攻撃権が与えられます。その4回のうちに10ヤード以上進むと、新たに4回の攻撃権が追加されます。各回の攻撃をダウンと呼びます。4htダウンのうちにボールを10ヤード以上進めなければ、その時点で相手チームに攻撃権が移ります。ディフェンス側のチームはオフェンスの攻撃を10ヤード以上進ませないか、相手チームのパスをキャッチしたりファンブルしたボールを拾ったりすることで、攻守交代を狙っています。
フィールドではオフェンス11人・ディフェンス11人が戦い、攻守ごとに担当する選手がチーム内で分担されています。アメフトはボールを持ってない選手にもタックルが可能なスポーツです。そのため、力強い展開となることが多く、競技時に着用する防具がしっかりとしています。QBの選手が針のようなロングパスを飛ばしたり、パスを受けたRBやFBの選手がゴールラインまで独走したりするなど、華がある展開になることも多いです。
オフェンス側はQBの選手のパスの線上やRBやFBが走りやすいように道を開けるために、あらかじめタックルによってディフェンスの選手を倒すことが必要になります。ディフェンス側の選手は逆に攻撃のラインをつぶすようにプレーをする必要があり、アメフトは戦術も大変重要になるスポーツです。

試合の展開
東大は1Q2Qに中央大に得点を許すものの、2Qにはキックによるフィールドゴールにより3点を獲得しました。試合も終盤に差し掛かった4Qについに東大はタッチダウンを決めました。ボールを受け取ったバックの選手が走ってどんどん相手の陣地に攻め込み、あっという間にゴールラインを超えました。東大の応援席も今日一番の盛り上がりをみせ、スタンディングオーベーションで応援をしました。残念ながら試合には(11-21)で敗れたものの、選手たちの挨拶の時には応援席が総立ちとなって選手の健闘を称え、温かな雰囲気で試合を終えました。

Aozアメフト試合中

Aozアメフト試合終了後

所感
選手たちの頑張りを間近で応援することができて良かったです。東大の選手たちは積極的に相手選手に果敢にタックルを仕掛けていました。最後のタッチダウンもチームが一丸となってタッチダウンが決まる状況を作り出していたように感じました。チーム力で勝負をしている姿がとても印象的でした。
さらに、東大アメフト部の強さの秘訣は、サポートメンバーの充実にもあるようです。トレーナーやデータアナリストなどの選手の練習や試合のサポートはもちろんのこと、マーケティングスタッフがWARRIORSの広報活動を行っています。今回のさつき会での応援イベントもマーケティングスタッフの方にご案内をいただいたことがきっかけです。さまざまな部内のスタッフがWARRIORSの活動をサポートしています。
加えて、東京大学応援部も全力で応援することでWARRIORSをサポートしています。
タッチダウンの後に残り時間が短い中で中央大学へと攻撃が交代してしまい、応援席が盛り下がりかけたところ、応援部の方が「さあ!最後まで!」と鼓舞していたのが印象的でした。応援部もきっと悔しい中で明るく盛り上げる姿を見て、「私も最後まで精いっぱい応援しよう」という気持ちになりました。応援部はWARRIORSだけではなく東大の運動部をサポートする縁の下の力持ちです。

Aozチア

最後に、今回の試合は、会場に来て応援をしていた皆さんの力も感じました。東京ドームの1塁側内野席の多くがWARRIORSの応援で埋まっていました。若者やファミリー層からご年配までの幅広い年齢層の方がいました。私も初めての応援でしたが、思っていた以上に楽しく、良い経験になり、この先もWARRIORSを応援したいと思いました。


K. D. さん 観戦記をお寄せいただき有難うございました。このエキサイティングな観戦イベントが次回開催されるときは、もっと多くのさつき会員で応援に行きたいですね。

 (担当 Aozora)


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見沼田んぼにて(その2)

埼玉県CM(1)

一見緑豊かに見える田んぼですが、見事な「ひえ田」になってしまいました。

Aoz9月田んぼ全景


4月に「見沼田んぼにて」を掲載しましたが、その後の経過をお伝えします。
米作りは、①稲作準備(畦づくり、耕耘、用水浚い、代かき) ②イネを育てる(田植えと草取り、水管理) ③コメにする(稲刈り、天日干し、脱穀、籾擦り) ④翌年の準備(たい肥作り、天日干し用の竹の伐採)に大きく分けられます。このうち②のイネを育てるのが5月頃から10月頃までの作業です。

田植えは 6月3日と4日に行いました。4日の日曜日には市民参加の田植えを行い、たくさんの子供たちが参加してくれました。

Aoz田植え

その後は草取りと水管理です。田植えの翌週から一番草を取り、一巡すると最初の田んぼに戻り、二回目の草取り(二番草)を行います。また、この時期には畦や用水路の草刈りも何度か行います。
一番草は、まだ小さなイネ苗の根元を手でくるりと回すだけで、小さな雑草が根ごと浮き上がり、水に流れていきます。
二番草は最初のうちは手で摘めば簡単に抜けますが、田植え後4週、5週と経つうちに根がしっかりと張ってきて抜くにも力が必要となってきます。この辺りまでしっかりと草取りをしておくと、イネの背丈が伸びて、あとから生えてくる雑草に日光を遮られることはないので、元気に成長してくれます。
ただ、ヒエだけは別です。イネと見分けることが難しく、同じような成長ぶりで、イネの花が咲く頃に急に草丈を伸ばし、花を咲かせて実をつけ、田んぼ中に種子をばらまき、翌年驚くほど生えてきます。隣の田んぼにも種子をばらまくので、農家はヒエが生えるのを嫌います。

Aoz一番草取り

また、稲の状態や天候を見ながら、田んぼに入れる水の量を調整する水管理も重要です。見沼田んぼの近くに住むメンバーが毎日見回りをして、取水口の開閉の調整をしています。
こうして7月の中旬までは順調に進んでいました。

Aoz6月田んぼ

ところが、7月下旬頃から水が来なくなったり、配水槽の水を軽トラックに載せた大きなタンクで持っていかれたり(要するに水泥棒)する事態が発生。また、暑さのため参加者も少なくなりました。さらに8月のお盆の頃には稲の花が咲くので、そもそも田んぼに入ることはできません。斯く言う私も8月は全く田んぼに行きませんでした。
そして、9月2日に久しぶりに見沼田んぼに行ったところ、唖然としてしまいました。
この活動に参加して10年以上となりますが、初めて見るほどのヒエの繁茂状況です。特に昨年まで地力回復のため休耕していた田んぼは、一段とヒエがイネを圧倒している状態です。

Aozヒエとイネ

イネは開花から40日程で稲刈りです。あと一か月もありませんが、ヒエ取り頑張ります。


Aoz蓮の花

 (担当 Aozora)


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心の豊かさをたどる道のり(2) ゲスト:細田満和子さん

会員の活動CM(0)

さつき会会員で臨床心理士の宮下深帆さん(1998年教育学研究科・教育心理学コース)の対談シリーズ。第2回はセレンディピティに生かされてきたという宮下さんと、細田満和子さん(1992年文学部社会学科)の対談です(聞き手:ブログチーム ゆっちょむ)。
細田さんは社会学者として国際的に活躍されるほか、東大から米国に留学する学生等に奨学金を出すなど積極的な活動を行っている「東大友の会」の諮問委員・奨学金委員と東大ニューヨーク・オフィスの理事を務めておられます。


宮下:第一回目に続く対談をお願いしましたら、細田さんはこの夏だけで何か国も飛びまわって会議やフィールドワークをされているそうで! ご多忙をきわめるなか、貴重なお時間をいただきましてどうもありがとうございます。

ゆっちょむ:細田さんと宮下さんはどんなきっかけで知り合われたのですか。

細田:ボストンからの一時帰国とちょうど重なった、2010年のさつき会総会だと思います。

◯ セレンディピティとなった出逢い

宮下:常勤で働きながら一人で子育てを担っていた私も、総会の保育サービスのおかげで足を運んでみたいと思って、晴れやかな気持ちで懐かしいキャンパスに子どもたちを連れて出かけました。恒例の1分間スピーチで、細田さんとはボストンやハーバード大学でのつながりがあるように思ったので歓談させていただくと、そのころ私の身体を揺るがしていた難病 ME/CFS をご存知だと気づきました。

細田:当時私はアメリカのボストンに住んでいて ME/CFS の患者会の方々を対象に調査研究を始めたばかりでした。私が関わっていた患者会と宮下さんの病が同じだったのは全くの偶然です。珍しい病気なのに、不思議ですね。
 当時、宮下さんは発症して2、3年でしたが、既に病名をご存知でしたね。私が2012年に日本で行った調査では、ME/CFSの患者さんたちは正しい病名の診断を受けるまでに何か所も病院を回っていた方がほとんどでした。「不調を感じてから病名がわかるまで何年かかりましたか」という設問では、「6年以上」と答えた方が5割以上でした。
 設問を作る時には、6年以上もかかる人はほとんどいないだろうと思って選択肢で最長のものを「6年以上」としたのですが、もっと長い選択肢を設けるべきでしたね。

宮下:私は幸いにも2年目くらいで診断が得られました。臨床心理士としての学びを通じてある程度の医学的知識があり、素晴らしく優秀な医師たちとの出逢いに恵まれていたからかと思います。
 アメリカの患者会は、日本とは違うところがあるようですね。

細田:アメリカで脳卒中患者会の方からうかがったことですが、入院中から、先輩患者からのアドバイスを受けることができるといいます。これからこういう症状になるから、こういう準備をしておくといい、といった情報を得られることは、患者さんの大きな支えになります。今後予測される症状に合わせて、退院前から自家用車を改造しておく患者さんもいました。

宮下:病院と患者が協力して地域での暮らしを支える仕組みがあるとは!うらやましいかぎりです。ところで、そのころ細田さんご自身も ME/CFSの患者会に関わられたばかりだったということは、今回初めて知りました。
 
細田:総会のとき、宮下さんは軽くはない患者なのに、立って歩いておられたので驚きました。

宮下:外出には気力体力を振り絞っていました。平熱に戻らなくなってから一年以上、その翌月には自力で起き上がれなくなり、翌年の3・11のあと電撃的に悪化して、家族は子どもたちだけなのに寝たきりとなってしまいました。
 つまり倒れることは予見していなかったのですが、その直前にさつき会総会に出向いたおかげで細田さんに出逢うことができ、患者会をご紹介いただき、先輩患者につながり、真摯で優れた医師に出会って行きました。私はそれぞれの方の知恵と情熱と努力が功を奏した、幸運な症例です。

◯ アドヴォカシーということ

ゆっちょむ:細田さんは、どうして患者会に関わる研究をされるようになったのですか?

細田:学部や修士の頃には、芸術社会学を専攻していたのです。博士課程から方向転換をして、脳卒中になった方々の研究で博士論文を書き、現在までの取り組みに続いています。その関係で、様々な病気の患者会に関わるようになりました。

宮下:患者であることもそうですが弱っている当事者として、困りごとが折り重なってくる凄まじい体験をすると、当事者ではない方が一緒に取り組んでくださるということが文字通り、かけがえのない力を発揮するように感じてきました。
 女性として、ひとり親として、障害者として、それから私も国の法改正(堀木訴訟の上書き)を目指して、半世紀ぶりの改正と法的救済を叶えることになりましたが、その渦中では、当事者が死に物狂いで取り組んでいるのに負わされたものがあまりにも複雑化された上に重すぎて、自分たちを救うことは出来ないかもしれないと思うことがありました。
 マイノリティの体験は、筆舌に表しにくいのです。ヒロシマやナガサキや日航123便墜落事故に想いをいたす季節ですが、生存者の多くは長年黙したままです。イヤなことは思いだしたくないですし、カタストロフィの悲惨な記憶に苦しみ、言葉にしたりして伝えようとすることは大変つらいからです。
 さらに一旦マイノリティだと目されると、人を人とも思わないような酷い目に遭わせる人たちがいるのですよね。現在も続いている苦しみに加えて、語れば危険が増すわけです。

細田:マイノリティの人も無理をしなくてよいように、個人の選択に委ねるというふうになるとよいのですが、なかなかそうならないですね。

宮下:「当事者が声を上げればいい」と言われることもありますけれども、それによって当事者が報われるともかぎらないですし、危険に晒されてしまうので、勇気ある発言が守られてほしいと願っています。
 自分だけでは解決できない落とし穴に閉じこめられてマイノリティ性にどっぷり浸かっているとき、それは他の人のカード(他の人のマジョリティ性や特権)を以て働きかければ解決できそうだと感じて、私自身のマイノリティ性と同時に、弱っちい自分にも備わるマジョリティ性と特権を強く意識しました。
 しかし、当事者ではない細田さんが、どうしてご自分の知性や能力を人のために活かそうと考えたり、行動されるようになったのでしょうか?

細田:英語でアドヴォカシー Advocacy という言葉があります。これは当事者の側にいる人、周りにいる人が、当事者の思いを代弁するという意味です。これは何かを実現するためには大切なことだと思います。
 例えば、女性差別や人種差別を是正するときに、声を上げたり、運動したりしたのは女性や黒人だけではありませんでした。当事者のことは、当事者でなければわからないということはないと思います。

宮下:そうですね。そうして理解し行動する方には深い尊敬の念が湧きます。
 私自身は自分たちを救えないことには絶望せざるを得なかったものの、課題を理解している人間として自分の特権を他者のために使おうと決意したことが、半世紀もおかしなままでいた現実を変えることになる大きな転換点となったように思います。

細田:私は、患者会の活動は、自分と切り離されたことではないと感じていました。患者さんたちが「おかしいな」と言われて、私も「おかしいよね」と思ったことを見過ごせなかったのです。

宮下:おかしいなと感じ、見過ごせない、という感覚から細田さんの感性が伝わってきます。

細田:それから、そうしていろんな人に関わっているなかで、自分のことだったらそこまでしないかもという事も、頑張ってしまうことはありますよね(笑)。
 
宮下:分かります(笑)。自分のこととなるとそんなに頑張れないのに、愛しい人たちのこととなると頑張って、気づくと眠っていなかったり食事が後回しになってしまうという。おまけにパワーに縁遠そうな一介の女性ということになると、どんな努力も人知れず、感謝されることもほとんどないのですから。
 成功するか分からないし、家族にしわ寄せとなりかねない!と我に返っては、もっと利己的に振る舞うべきでは?と一応悩むのですが。一瞬で元に戻っていたりします(笑)。

◯ 子育ては暮らしの一部

宮下:細田さんもそれと同時に、母親として妻として、多忙な日々を過ごしてこられたれたのではありませんか?

細田:子育ては生活の一部なので、子どもたちも患者会や研究会に一緒に連れて行っていました。娘は3、4歳から車椅子を押していましたし、インタビューにも同席していました。今、上の子は医学生、下の子は環境学を専攻しています。

宮下:そうした体験をいかに自分のものにするかは、子ども本人の感じ方や考え方によるところもあります。しかしお子さん方もまた素晴らしくて、英才教育ですね。私も患者や障がい者の集まりに子どもたちを同伴して行きました。それは当事者で、ひとり親なので、成り行きでもあったのですが。
 さまざまな姿の方がいらっしゃるところです。子どもたちは動けない方々に代わって車椅子の間やテーブルの下をすり抜けたりして得意げに手伝いをして回り、参加者を観察した結果「自分の特徴は、極端に小さいってことなんだね!」と声を弾ませて、目を輝かせて話してくれたことがありました。わずか数時間でも身を以て学んで、マイノリティのなかの多様性をよく理解しているんです。
 世間的には、マイノリティに与すると不利になると案じているのか、自分が弱い人ほど萎縮したり忌避する傾向もあるように思います。でもマイノリティの現実って、じつはそんなに共通点もなければステレオタイプなどないのかもしれなくて、一人ひとり個性的な人間が暮らしているだけにすぎない。なのに、マイノリティであることを隠していないと生きづらさを感じさせる社会にいるように思います。

◯ 今いるところが自分の居場所

宮下:ところで、地元民ではない「よそ者」というマイノリティも肩身の狭い日本ですが、細田さんは「今いるところが自分の居場所だと考える」と腹のすわったことをおっしゃっていましたね。どうしてそのように思われるようになったのですか?

細田:アメリカのニューヨークの郊外に住んだとき、ブロック・パーティBlock Partyというものがありました。道路を堰き止めて、道にテーブルを出して、食べ物を持ち寄って近所の人たちが集まるのです。消防車も来て、子どもたちを消防車に乗せてくれたりしました。私たち家族も、浴衣を着て、お寿司をもって参加しました。海苔巻の海苔は、黒い色だから食べ物として抵抗があるかしら?と心配して表巻きと裏巻きを作って行ったのですが…

宮下:ふつうの黒い海苔巻と、寿司飯が外側になる白い海苔巻と!

細田:それが皆さんの手が伸びて、飛ぶようになくなってしまって!白とか黒とか関係なかったです(笑)。おかげで、近所の同じくらいの世代の方々と知り合いになれました。ボストンでもMIT(マサチューセッツ工科大学)で日本人研究者の交流会が毎月のようにあって、みんな子どもたちを連れてきていて、今でも仲良くしています。

宮下:ゆっちょむさんも、アメリカに住んでおられましたよね。

ゆっちょむ:2年間だけでしたが、楽しかったです。アメリカでは、家族も一緒に交流できるところがいいですね。

細田:2010年には、ボストン日本女性の会というものを作りました。おつれあいに同行するためにお仕事を辞めたり、休んで来たりしている女性には、博士や医師や企業に勤めていた方も多くいらっしゃいました。そこで、それぞれが講師になって得意分野について話す勉強会を定期的に実施しました。最初は8名で始めたのですが、今では70名くらいになっています。そうやって交流して、キャリアを途絶えさせず、活躍できないか情報交換していました。

宮下:細田さんは、行く先々でいろんな集まりに参加したり、自ら集まりを作ったりされているのですね。

細田:実は最近、近所で引っ越しをしました。そうしたら、すぐに町内会の班長が廻ってきて驚いたのですが、引きうけてみると、お花見の会、成人式、消防団、秋祭り、まちづくり説明会などといろんな行事があって、意外と忙しいのです。ただ、先輩班長の方から、何も言わないとそのままになってしまうので、「これは必要ないのではないですか」などと伝えて、少しずつ簡素化してもらったという話を聴きました。
今、価値観が多様化していて、ひとりひとりが貴重な人財と考えられてきていると思います。旧来の負け組・勝ち組とは違う新しい見方も生まれつつあります。多様性を大切にして、誰もが尊重されるインクルーシブな社会に変わることが求められていると思います。

宮下:ガウディのサグラダファミリアが完成に近づいているそうですが、個人では成し得ないことを築き上げる共同体の力と、物語を共有し互いに作用しあって創造することを見せつけてくれます。

細田:サグラダファミリアは、志を同じくする人が集まることで完成に向かっています。2020年から、「Inclusive Action For All (IAFA)」という一般社団法人を立ち上げて、国際教育支援や次世代育成などの活動をしていますが、これも、なんとなく周りの人たちと「こんなことをしたいね」と話し合って、その場にいる人が自分のできることをしている感じです。

ゆっちょむ:さつき会の活動と雰囲気が似ていますね。

(一同うなずく)

細田:確かにそうかもしれませんね。

ゆっちょむ:細田さんをはじめ、弱っている人や苦しんでいる人に自ら手を差し伸べる方々は、不思議と皆さん、今、社会で活躍しておられますね。そういう温かな心を持っている方は、自然と人望が集まって、重要な仕事を任されるようになるのかもしれませんね。

宮下:細田さんと出逢ってまもないころ、一時帰国のお土産にドリームキャッチャー(米国先住民の工芸品で、悪夢を取り除くというお守り)をいただきました。発熱で連日連夜うなされているころでしたから、それは単なる偶然というよりも苦しい闘病をする患者への深い理解を伝えているようで和みました。ほかにもさつき会で、案じて声をかけてくださったり、足を運んでくださった皆さまお一人お一人のことを覚えています。ずっとお幸せを願っています。

ゆっちょむ:これからも一層ご活躍ください。本日は、ありがとうございました。

(担当::ゆっちょむ)

著書紹介「自信がもてる、成長できる!新人保育者の社会人基礎スキル」

会員の活動CM(0)

会員の谷口(伊藤)真紀さん(1995工、97工学修士)より、ご著書「自信がもてる、成長できる!新人保育者の社会人基礎スキル」(中央法規出版)についてご紹介いただきました。
20230824 book

 私は大学卒業後、エンジニアとして働いていたのですが、子育てと仕事に悩んでいた時にさつき会のご縁でキャリアチェンジをして、東大のキャリアサポート室の立ち上げにかかわらせていただきました。
 それを機にキャリアコンサルタントという資格を取得し、気が付けば20年近くこの世界に身を置いています。現在は、特に保育業界で働く人に対して、キャリアカウンセリングと研修をする仕事をしています。
 この業界は歴史的・政治的に大きな矛盾を抱えながらも、子ども達のために最前線の保育士達が奮闘している世界です。そんな保育の世界に生きる人たちの支援をすることをライフワークにしています。
 この業界の大きな課題は人手不足です。その影響で、新人も十分な研修期間を持つことができないまま現場に入ることになります。社会人としてのコミュニケーションが分からないまま親ほども歳の離れた人と保育という協働作業をするということは、大変な困難です。夢をもって保育の世界に入ったのに、その手前の人間関係でつまずき、志半ばで去ってしまう人も決して少なくはありません。
 そこで、保育業界で働き始めたばかりの方が、短期間で効率よく社会人基礎スキルを身につけるための本を上梓いたしました。保育現場でよくある事例をもとに、社会人としてふさわしい行動や考え方を分かりやすく解説しています。
 一人でも多くの保育業界の方に手に取っていただき、新人育成に役立てていただければ幸いです。

谷口(伊藤)真紀さん、ご寄稿、ありがとうございました。
(ブログチーム 担当:ゆっちょむ)

9/30 迷人落語会へのお誘い

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 会員のアビガイッレさんから、9月30日(土)の落語研究会OBによる「迷人落伍会」へのお誘いをいただきました。どんな名(迷?)落語が聴けるのでしょう?
20230823 落語会チラシ

 毎日、殺人的ともいうべき暑さが続いていますが、そんな時には、落語で大笑いするのは、いかがでしょうか?9月30日(土)午後2時から、深川江戸資料館で、東大を卒業して46年プラスマイナス一年を経過した落語研究会OBによる落語会が開催されます。今回で、6回目の開催ですが、コロナが流行中は開催できなかったために、久方ぶりの開催と相成ります。なにぶん、素人のだんな芸ではありますが、演者一同、合宿をして当日に備えておりますので、お楽しみいただけるものと確信しています。詳細は、チラシにありますので、よろしくお願い申し上げます。
 深川江戸資料館アクセス
(アビガイッレ)

アビガイッレさん、ご寄稿、ありがとうございました。
(ブログチーム 担当:ゆっちょむ)

都立大に牧野富太郎博士の標本が!

博物館めぐりCM(0)

 NHKの朝の連続ドラマ小説「らんまん」の主人公のモデルになった牧野富太郎博士。その牧野富太郎博士が集めた標本を、東京都立大学(都立大)南大沢キャンパス(東京都八王子市)で見られることをご存知ですか。
20230822 DrMakino

 子どものオープンキャンパスの付き添いで訪れた都立大。キャンパス内を一人でブラブラ歩いていたところ、牧野標本館で「『日本の植物分類学の父』牧野富太郎が残したもの」と題する企画展を行っていることを発見。企画展では、牧野博士が自宅に保管していた植物、野菜、果物などの標本が間近に見られる上に、「らんまん」で実際に使われた標本や「ムジナモ」の実物、牧野博士ゆかりの広告など、「らんまん」ファンにとって嬉しい展示がたくさんありました。
20230820 Guests
展示を熱心に見入る老若男女の来場者
20230820 Mujinamo
牧野博士が日本でも生息することを発表した「ムジナモ」の実物
20230822 Newspaper
牧野博士が自身の窮状を訴えながら標本収集への協力を依頼した「植物名稍ノ通信」
20230822 Hyouhon1
標本の一つ一つに植物が美しくレイアウトされています
(左上:サクラソウ、右上:クマガイソウ、左下:カワラノギク、右下:ハナムグラ)

20230822 Hyouhon2
野菜の標本(左上:カブ、右上:ダイコン、左下:チンゲンサイ)
20230822 Hyouhon3
果実の標本(左上:オクラ、右上:マンダリンオレンジ)
20230822 Hyouhon4
奥様の寿衛子さんの名前をつけた「スエコザサ」(左)と今は野生絶滅となった「サクラソウ」(右)
20230822 Ronbun
牧野博士の論文

 では、なぜ都立大に牧野標本館があるのでしょう?実は、牧野博士が終生をかけて集めた膨大な標本は、晩年、十分な管理もされずに東京都練馬区の自宅に放置されていたそうです。博士が名誉都民第一号ということもあり、牧野博士のご遺族から標本が東京都に寄贈され、1950年に発足したばかりの都立大に牧野標本館が設置されたそうです。
20230822 Donguri
 来場者数を数えるためのドングリ。来場者に協力を求めるところが牧野博士が全国の植物ファンに標本送付の協力を求めたことと重なり、ほのぼのとした気持ちになりました。

 企画展は、9月30日まで開催されているとのこと。「らんまん」ファンも、そうでない方も、足を運んでみてはいかがでしょうか。
 
 都立大南大沢キャンパスアクセス
 企画展チラシ

(担当:ゆっちょむ)
 

 

東大アメフト部、9/16(土)東京ドームで試合開催!

会員の活動CM(0)

さつき会の学生会員で、東大アメフト部マーケティングスタッフ2年の苧谷(おたに)優子さんから、東大アメフト部WARRIORSについてご投稿いただきました。9/16(土)には、東京ドームでの試合も予定されているそうです。あなたも応援に行って、一緒に日本一を目指しませんか?

私が所属する東京大学アメリカンフットボール部WARRIORSは現在関東の一番上のリーグであるTOP8で試合をしており、本郷キャンパスにある御殿下グラウンドで日本一を目指して日々練習に励んでいます。

昨年には、TOP8の開幕戦の試合会場が東京ドームに変更されることが発表され、一層熱気が高まりました。本番の東京ドームの試合では、東大は私立の強豪校である中央大学相手に逆転勝利!ギリギリまで粘って残り19秒で逆転タッチダウンを決めました。最後まで耐え抜き、勝利することができたのは、試合当日に東京ドームに集まってくださった方々の応援の力のおかげです。
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↑東京ドームで逆転勝利をして喜ぶ選手たち

なんと今年も昨年に引き続き東京ドームで9月16日(土)に試合を開催することが決定しました!マーケティングスタッフは集客の目標として3000人プロジェクトを掲げております。我々が勝利するためには皆様の応援が不可欠です。少しでも多くの方に観戦していただきたいと思っているので、この記事を読んで興味を持ってくださった方はぜひ試合にお越しください。対戦相手は昨年と同じ中央大学で、キックオフ時間は11時です。ぜひ観戦申し込みをこちらからしてくださるとありがたく思います。
9/16(土)東京ドーム戦の観戦申込みフォーム

アメリカンフットボールをあまり知らない方に向けて少し簡単にルールを説明させていただきたいと思います。アメフトとは簡単にいうと、とにかくディフェンスの妨害を避けながらパスやランでボールをゴールまで運ぶ競技です。オフェンスには4回の攻撃権が与えられ、オフェンスは4回のうちに10yd進めたら攻撃権を更新することができます。攻撃権を更新しながらエンドゾーンまでボールを運ぶことができたら「タッチダウン」となり、6点を獲得することができます。逆にディフェンスはオフェンスが進めないようにタックルしたり、相手オフェンスのボールを奪って攻撃権を得る「インターセプト」をしたりすることができます。

この記事を読んで、一人でもアメフトやWARRIORSに興味を持ってくださる方がいらっしゃれば幸いです。そしてぜひこの秋シーズンは試合会場に来て東大アメフト部のことを応援してくださりましたらとてもありがたく思います。

苧谷さん、ご寄稿ありがとうございました。
(担当:ゆっちょむ)


歌舞伎の楽しみ方 食べ物篇 その2

観劇CM(0)

原田紀子さん(71年 理学部卒)から、「歌舞伎の楽しみ方 食べ物篇」の第2弾を寄稿していただきました。今回は「大阪 松竹座の巻」です。

歌舞伎の楽しみ方 食べ物篇 
「大阪 松竹座」の巻


道頓堀にある松竹座では毎年七月大歌舞伎にさきがけて行われる「船乗り込み」が夏の風物詩として定着しています。揃いの浴衣を着た役者衆が道頓堀川を紙吹雪や沢山の見物客の歓声の中、船で乗り込みます。

大阪の七月大歌舞伎は、関西での歌舞伎の定期公演が無くなるのを憂えた民間の労働組合が呼びかけて昭和53(1978)年に結成した「関西歌舞伎を育てる会(現関西・歌舞伎を愛する会)」が主催するものです。

G 歌舞伎 松竹座
写真:松竹座

1階は受付で2階に売店や立食用の丸テーブルがある。3階からが客席。地下には飲食店街「松竹座ダイニング」があり、幕間に食べられる。

コロナ前は、まず大阪に着いて藤田観光の太閤園淀川邸で懐石料理を食べ、夜の部の幕間に、はり重のビーフカツサンドをつまみ、終演時間が早いので芝居がはねたら織田作之助の『夫婦善哉』に出てくる法善寺横丁の正弁丹吾亭で食事をすることにしていました。
ところがコロナ禍で藤田観光は太閤園を創価学会に売ってしまい、正弁丹吾亭は閉店してしまいました。

G 歌舞伎 はり重南
写真:松竹座の隣にある黒毛和牛専門店「はり重」

今のところ昼は道頓堀のうどん・そばの「今井」、夜は法善寺横丁の「いちい」がおいしくて値段もそんなに高くないし、いいかなと思っています。松竹座に近くて便利です。

G 歌舞伎 今井 
写真:「今井」
7月の季節そばは、活き締め湯引き鱧がのった冷たい出しの「白波そば」だった。


G 歌舞伎 法善寺横丁
写真:法善寺横丁
「いちい」は元「正弁丹吾亭」のすぐ近くにある。主人一人で手早く調理している。



原田紀子さん、ご寄稿ありがとうございました。
(担当:Giglio)


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長野市松代町ツアー「真田家の歴史を辿る一日 菩提寺長國寺と十万石の城下町」

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さつき会イベント委員会のはるりんさんが、7月15日(土)に行われたイベント委員会主催のツアーイベントについて詳しい報告を寄稿して下さいましたのでご紹介します。


2023年7月15日、長野市松代町ツアー「真田家の歴史を辿る一日 菩提寺長國寺と十万石の城下町」が実施されました。

まずは09:15に長野駅に集合です。今回は総勢11名のさつき会員が東日本を中心に東海地方からも集まり、全世代から文理半々くらいの構成となりました。コロナ明け後の三連休で活気あふれる駅構内から、タクシーに乗り換えて長國寺を目指します。

松代ツアー1ブ

長國寺は、信州の曹洞宗の中核です。天文十六(1547)年に傳為晃運(でんいこううん)大和尚を御開山(ごかいさん)として迎え、真田幸隆(さなだゆきたか)公を開基(かいき)として建立されました。

山門を潜り抜けて堂塔伽藍に足を踏み入れると、鮮やかな夏の草花が出迎えてくれました。正面には本堂が目に入ります。棟には海津城から移設した身の丈1mのしゃちほこが並び、六文銭の意匠とあいまって、「真田家の菩提寺」であることが分かります。

松代ツアー2ブ

松代ツアー3ブ

■法話

四十四世住職 柴田康裕方丈の法話では、長國寺の来歴について生き生きとした解説を拝聴しました。

真田家の家紋にもなっている六文銭は仏教説話の「三途の川の渡し賃」であることから、いついかなるときにおいても死をいとわない不惜身命の決意をあらわすところ、「戦乱の世の中にあって今を生きる命の大切さ」の意も込められているそうです。母子手帳掲載の麦田穣『空気』の詩がひもとかれ「私たちが生まれて初めて吸い込んだ空気が肺のどこかにずっと残り、それが美しいもの正しいものをほしがる」という内容が、万人共通の「仏心」概念に結びつき、名刹ならではの法話体験となりました。

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戦乱の世にあって同じ真田が敵味方に分かれて戦い一族の滅亡を免れた後も、江戸幕府への普請協力を通じた信頼関係の構築、養子縁組の姻戚関係の妙などで、松代藩真田家は独自の発展を遂げていきます。

■開山堂

長野県県宝にも指定され、三代真田幸道公のために1727年に建てられた御霊屋です。1872年の伽藍焼失後、1886年の本堂再建の際に移築して開山堂としたものです。今回は特別に、さつき会でも歴代の当主と妻たちの霊前にお参りしました。

■初代藩主真田信之公御霊屋

国指定重要文化であり、1660年に建立された、松代藩祖・真田信之の御霊屋(おたまや)です。入母屋造り平入り、屋根は柿葺き(こけらぶき)、黒漆で塗られたきらびやかな建築です。

透かし彫りや丸彫りがふんだんに施され、唐破風の雌雄の鶴は左甚五郎作と伝えられています。

松代ツアー6ブ

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内部の金色の格天井を見上げると、さまざまな吉祥モチーフで埋め尽くされた狩野探幽筆と伝わる天井画が、当時のままに残されていました。日光東照宮の普請にも人を出した松代藩ならではの華やかな霊廟でした。奥の禅宗様仏壇には、信之公と小松姫御夫妻の位碑が安置されています。

その後は四代真田信弘公御霊屋、真田家墓所を巡り、夏の長國寺を後にしました。

■昼食

昼間は暑く静かな街中ですが、この日は3年ぶりに「松代祇園祭」が開催されるとあって、ところどころにテントが張られ出店の準備が進んでいました。たくさん歩いた後は、「割烹梅田屋 お食事処うめたや」で昼食です。
自己紹介をしながら、「松代風土プレート」「松代特産長芋とろろ定食」をいただきました。地元名物「松代焼」の箸置きや小鉢の青色が鮮やかでした。

席替えも交えつつ、思わぬ共通の知人がいたり、同じ誕生日の人を見つけたり、前職つながりがあったりと、対面ならではの交流時間となりました。

松代ツアー9ブ

■真田宝物館・真田邸・文武学校

学芸員の降幡浩樹先生のご案内で、学術的な観点から真田の歴史を解説いただきました。

街全体が端正な文化財のような松代ですが、これは松代が県庁所在地に選定されなかったことで地価上昇が回避され古い文化財が残ったという経緯があるそうです。

宝物館には真田の六文銭以外の家紋が付された物品も数多く並んでいました。養子縁組や婚姻を通じて真田家にもたらされたものだそうです。家紋は識別標識として機能し、江戸時代の離縁時の夫婦間の財産分与(妻の資産は離縁後に完全に妻が持ち去る)の際には所有者を明らかにする効果もあったそうです。

真田邸は空間を「表」「奥」に区切りながら公私双方の機能を併せ持たせた「御殿建築」です。動線も造作も、身分の格式や公私の別ごとに、ち密に設計されています。正面玄関の広い式台(玄関の低くなった板敷の部分で、武家のみに許された設備)から借景を用いた座鑑庭園にいたるまでの「当主の動線」を辿ることができました。壁やふすまに貼られたモダンなデザインのクロスは印刷されたものだそうです。

松代ツアー10ブ

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広小路を通り抜けると文武学校に到着です。冠木門をくぐって文学所で映像を視聴してから、学校内を見学しました。

平和の時代が長く続き武士の役割が官僚化するなかで、特に幕末には石高は変わらぬまま人口増加したため、文武学校での子弟の成績が親の藩士の賞罰にも影響し人員整理に使われたそうです。

剣術所の大空間の天井は、太い梁で水平が保たれており、小屋組みの強度がうかがわれます。

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柔術所の火縄銃、スペンサー銃、大砲体験コーナーでは、一同射撃体験に没頭しました。銃身の重たさにもかかわらず、しっかり射撃成功する強者も(なかなか当たらないそうです)。回数を重ねるごとに上達するのでなかなかやめられません。

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最後は松代城跡へ。千曲川を外堀とする天然の要塞で、川中島合戦での武田側の拠点として築城されたといわれ、当時は「海津城(かいづじょう)」と呼ばれました。明治の廃城にともない建物が壊され長らく石垣が残るのみでしたが、1981年真田邸とともに国の史跡に指定されました。その後、2004年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが復元されました。城跡の最も高い部分となる戌亥の櫓に上ると、遠くのほうから夕方から始まる「松代祇園祭」の「わっしょい」の掛け声を練習する子供たちの声が聞こえてきました。夕方の涼やかな風を感じながら一日を振り返り、子ども時代からの今までもふと振り返るような時間になりました。

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一日だけでは味わいつくせない松代町を、凝縮して味わうことができました。
ご参加ありがとうございました。

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■協力 (五十音順)
荻野貴美子さん(長野市教育委員会)
曹洞宗真田山長國寺 四十四世住職 柴田康裕さん
松代文化施設等管理事務所 降幡浩樹さん
細田満和子さん(さつき会会員)

(文責:さつき会イベント委員 はるりん)


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歌舞伎の楽しみ方 食べ物篇

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歌舞伎や能について詳しい原田紀子さん(71年 理学部卒)から寄稿していただいた「歌舞伎の楽しみ方」、今回は「食べ物篇」です。

歌舞伎の楽しみ方 食べ物篇 
「歌舞伎座」の巻


普通は昼の部と夜の部の2部制でそれぞれに30分ぐらいの長い幕間と20分程度の短い幕間があります。
長い幕間が食事時間です。
幕の内弁当は歌舞伎の幕間に食べる弁当だそうです。私は歌舞伎座の南前の木挽町辨松の幕の内弁当が大好きでした。ところがコロナ禍で閉店してしまいました。現在それに代わるお弁当を探しています。別に歌舞伎だから幕の内弁当でなければと決めているわけではありません。

G歌舞伎1 新歌舞伎座
現在の歌舞伎座


前の歌舞伎座の中には、おでん屋、蕎麦屋、カレー屋があり、おでんと茶飯の定食を愛用していました。また春になると蕎麦屋にそのころだけ登場する白魚のかき揚げ蕎麦を食べました。建て直したら残念なことに歌舞伎座の食堂、喫茶室と吉兆だけになってしまいました。その代わり地下の劇場外に歌舞伎関連の土産物や食べ物を買ったり食べたりできる「木挽町広場」ができました。

切符を見せれば再入場できるので、昔は近くの「銀之塔 ひらい」で急いでシチューを食べて来たこともありました。おでん屋が無くなったし、久しぶりに行ってみたら店の名前から「ひらい」がなくなり「銀之塔」だけになっていて場所も微妙に違うし、味も違っていました。

「木挽町辨松」なき後、私は上野駅から地下鉄で東銀座に出るので上野駅のザ・ガーデン自由が丘でお弁当を選んで行くことにしました。それと短い幕間用に牛乳寒天です。
最初は「升本」の弁当がいいと思っていたのですが、種類が増えてきて味が好みでなくなり、この頃は「分とく山」の弁当にしていたら、見当たらなくなってしまいました。
牛乳寒天も販売しなくなりました。

G歌舞伎2 弁松
日本橋弁松の幕之内弁当

歌舞伎座には銀座三越が近くて便利かもしれません。そこで「木挽町辨松」とは全く関係ありませんと主張する「日本橋弁松総本店」の幕の内弁当を買うことができます。
梅干しが赤くないとか、おかずも昔風でかなり似た感じです。いつも同じ材料、味付け、汁の含ませ具合の「木挽町辨松」のかたくなさはなかったです。

歌舞伎座の二筋北にある「柏屋菓子店」が昔風で好きでした。2年前までやっていたのに、高齢で閉店したようです。
仕方がないので、この頃外からも入れる歌舞伎座1階のお土産処「木挽町」(劇場内から行く場合は再入場になるので切符が必要か)で始めた「演目ゆかりのお土産」の和菓子を買っています。

G歌舞伎3 ちらし
「演目ゆかりのお土産」の宣伝(『ほうおう』より)

(71理 原田紀子)




原田さんの愛用されていた「木挽町辨松」の閉店は大きなニュースになりました。
たまたま、あるアートのイベントが「木挽町辨松」のあったビルで行われたときに、地下会場で「辨松」の名残を発見して思わず写真を撮りました。

G歌舞伎4 辨松ドア
「辨松」という名前のついたドア

コロナ禍さえなければ、ドアの向こうの厨房では今も多くの料理人さんが心を込めてお弁当を作っていたことでしょう。
エレベーターは、山のように積まれたお弁当を運んでフル回転していたことでしょう。

G歌舞伎5 辨松エレベーター
「木挽町辨松」の名前のあるエレベーター

(担当 Giglio)


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奥鬼怒遊歩道を歩く

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さつき会会員のakifuyuharuさんから、涼しい水音を感じるような美しい写真と共に「奥鬼怒遊歩道を歩く」という投稿をいただきました。
akifuyuharuさんとご一緒に遊歩道を歩いている気持ちでご覧ください。



ときには自然や温泉でリフレッシュしたい!ということで、7月上旬、奥鬼怒温泉郷という秘湯?に行ってみることにしました。
奥鬼怒温泉郷は鬼怒川の上流にある温泉地ですが、日光国立公園の中にあり、一般車両は入れません。4つの温泉それぞれにひとつ、宿は4軒だけ。しかも、そのうちの2つは車の送迎無し。予約した日光澤温泉は送迎無しの宿なので、川沿いの奥鬼怒遊歩道を2時間ほど歩きました。

G日光1奥鬼怒遊歩道の看板
「奥鬼怒遊歩道」の看板

東武鉄道鬼怒川温泉駅から日光市営バスで1時間40分。終点の女夫渕(めおとぶち)駐車場で下車。鉄製の階段を登り、また下って大きな橋「鬼怒の中将乙姫橋」を渡り、鬼怒川の左岸を上流へ。

G日光2 橋の遠景peg
橋の遠景

川音が響く緑あふれる道を歩いていきます。きらきら光る川面を眺めながら木々の中を歩くので、爽快です。

G日光3 川面が見える林
川面が見える林

途中、倒木も崖崩れのあとも。「落石注意」の看板もしばしば。

G日光4 倒木が道に寄りかかる
倒木が道に寄りかかる

二つ岩という大きな岩を迂回します。
しばらく行くと「二つ岩橋」という橋があり、ここを渡っていったん右岸に入りますが、すぐにまた「砥の岩橋」という橋を渡って左岸に戻ります。

G日光5 橋の入り口
橋の入り口

林の中の道をしばらく歩くと左前方の岩の上に何か動くものが。。。テンでした。夏は黒に焦茶の毛皮です。ときどき立ち止まってはこちらを見るのですが、動きが速くて写真に撮りきれず残念。テンはここ栗山村の村獣なのだそうです。

川にはところどころ大きな段差があって滝のように水が流れていきます。

G日光6段差による滝
段差による滝

少し行くと、右側にコザ池の滝です。岩の割れ目から勢いよく水が流れ出ているため、高さはないのですが、すごい水音と勢いです。

G日光7コザ池の滝
ゴザ池の滝

さらに行くと岩から管をとおしてチョロチョロと水が流れ落ちています。こちらは水場で飲むことができるそうです。

G日光8水場
水場

だいぶ来たなあと安心感もあって、ここでお昼を食べることにしました。実は鬼怒川温泉駅の駅前にはコンビニがなく、少々高いと思いつつ、「ささむすび」という駅弁を買ったのですが、これが正解でした。湯葉や鱒などを具材にしたちらし寿司のおむすびは美味しく、それぞれ本物の笹で巻いてあるところが、都会では味わえない風情です。

G日光9 笹むすび
笹むすび

いよいよ奥鬼怒温泉郷も近くなり、最初の八丁の湯の建物が見えてきたときはほっとしました。なにしろ、途中、出会った人は数人。お店はおろか看板もほとんどなく、自然を満喫できたものの、やや心細かったので。

今晩の宿の日光澤温泉では、柴犬のサンボくんが迎えてくれました。

写真10 サンボくん
サンボくん

お風呂は古いながら温泉は源泉で味わい深く、岩魚の塩焼きはじつに美味しかったです。


akihuyuharuさん、自然を満喫できる遊歩道のご紹介をありがとうございました。

(担当:Giglio)

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「子どもの誇りに灯をともす」 ユニークなアメリカの学校の実践 

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子どもの誇りに灯をともす

G子どもの誇り表表紙2

ロン・バーガー 著 注1
塚越悦子 訳 注2
藤原さと 解説 注3
英治出版


さつき会会員 塚越悦子さん(1996年文学部ドイツ語ドイツ文学科卒業)から「1年半ほど取り組んでいた翻訳書が出版になりました。今回の本は、サンディエゴで子どもたちが通っているハイ・テック・ハイという学校の教育理念について書かれたもので、今までで一番難しかったです。」というメッセージと共に送られてきたのがこの本です。




翻訳をするに至った背景


塚越さんは、次のように述べています。(以下「訳者あとがき」抜粋)

ハイ・テック・ハイがどんな学校なのかを知るきっかけになったのは、2018年の夏に早稲田大学で開催された「Most Likely to Succeed」の上映会でした。・・・
その当時、私たち一家はサンディエゴに12年住んだ後に、子どもたちを日本の文化に触れさせることを主な目的として5年計画で帰国しており、翌年にはまたアメリカに帰る予定でした。・・・
映画を見た最初の感想は「自分が通った日本の中高一貫教育の学校とはまるで違う。こんな学校に子どもたちを通わせてみたい」というものでした。・・・10月から募集が始まったオンライン抽選に申し込み、翌年の3月に次男が抽選に通ったというメールを受け取りました。1か月後に三男の当選を知らせるメールがあり、それぞれハイ・テック・ハイの中学校小学校への入学が決まりました。・・・
私が今回、藤原さとさんのご紹介で本書の翻訳をさせていただくことになった背景には、子どもたちがハイ・テック・ハイに通っていること、そしてハイ・テック・ハイの先生によるプロジェクト型学習(Project Based Learning)の研修をお手伝いさせていただいた
ことがありました。

沼みたいな本

塚越さんは原語の本に惹き付けられて2日間で読んだとのことでした。
一方、261ページにわたるこの本を、藤原さとさんは「沼みたいな本」と表現しています。確かに教育理念をすばりと定義しているのではなく、ストーリーで語っており、子どもとのやり取り、姿から語っている本なのです。一つ一つのストーリーは興味深く、どんどん読み進めていくことができるのですが、そこから理念を汲み取ろうとすると、なかなか難しい・・・。

実はイタリアのレッジョエミリア教育について研究したことがあり、プロジェクト活動とアートの融合、素晴らしい教育者の関与と保護者の協力、というあたりに共通するものがあり、幼児教育で終わってしまっていたレッジョエミリア教育の小、中、高校生版として興味深く読み始めたのですが・・・。私は、途中で読み進めるのを中断していました。


オンライン読書会

そんな折、「子どもの誇りに灯をともす」のオンライン読書会があることを知りました。
塚越さんが参加されるとのことで、さっそく申し込みました。
オンライン読書会の様子です。

G子どもの誇りスクショ4

G子どもの誇りスクショ1

G子どもの誇りスクショ2

藤原さん、塚越さんのお話のあと、ブレイクアウトルームに分かれてのディスカッションがありました。私のグループは実際に教育に携わっている方、レッジョエミリア教育に触発されてリベラルアーツに関わっている方など4名のグループでした。
文章で表現することの苦手なジェニーという生徒が、一つの質の高い感動的な作品を生み出すのに、助言やサポートを受けながらいくつもの段階を経て、何度も作り直し奮闘したプロセス、作品を完成させたときの彼女の思いなどについて、意見が活発に交わされました。1冊の本について、初対面で背景も異なる人たちと話し合うというのはとても新鮮な体験でした。

これがきっかけとなり、一気に本を読み進めることができました。
きらりと光るいくつもの言葉と共感できる理念に出会い、この本は「教育」の限りない可能性を気づかせてくれました。例えば、次のような文の中から。
「私たちが問うべきなのは・・・どのようにすれば生徒が芸術家のようにこまやかな気配りや気遣いを持てるようになるのか、ということです。・・・芸術を愛し、洗練された作品を作ることを通じて、生徒は自分自身や作品を大切に表現することを学ぶのです。」
「もし学校や生徒の評価が、テストの成績でなく、生徒の作品や思考力や人格に基づくとしたらどうでしょうか。・・・学校は、生徒のテストで得点するスキルを向上させることではなく、思慮深い生徒、良い市民を育成することに焦点を当てるようになるでしょう。」


翻訳者 塚越悦子さんから

ハイ・テック・ハイという学校について紹介する際によく言われることとして、例えば教科書や宿題がないこと、始業や終業を知らせるチャイムがないこと、先生に「何をどれだけ、どのように教えるか」を決める裁量があること、グループでプロジェクトに取り組み、その成果を一般の人にも開かれた場所で発表するエキシビションという機会が必ずあること、そして生徒ひとりひとりが、自分を「学習者」として客観的にみて、学びの過程や成果、これからの課題について言語化する機会が定期的にあること・・・などが挙げられます。
私のところにこの本の翻訳のお話が来た時点で、子どもたちが学校に通い始めてから2年ほど時間が経っていたこともあり、このユニークな学校の実践について(あくまで保護者としての視点ではありますが)ある程度は理解していました。
この本には、子どもたちが日々体験しているさまざまな取り組みの背景にある理念が、著者の紡ぎ出すさまざまなストーリーや言葉によって書かれていたのです。

アメリカの教師たちの間でバイブル的な存在となっているこの本を、現在、日本で教育に携わっていらっしゃる方、あるいは子どもたちと関わる立場にある方にもお読みいただくことで、日々の実践に少しでも活かせるヒントになるように、また、この本をきっかけに、読書会や、学校教育についての対話をする機会が広がることを願っています。
ハイ・テック・ハイについて、またこの本の内容について興味を持っていただきましたら幸いです。また、私で何かお役に立てることがありましたら、ぜひお知らせください。

7月から9月まで、月1度の読書会をすることになっています。
興味のある方は、こちらからお申し込みください。
https://peatix.com/event/3633746/view/


G子どもの誇り裏表紙


【略歴】
注1 (著者)ロン・バーガー ハーバード大学教育学修士 EL.Educationシニアアドバイザー ハイ・テック・ハイの教育大学院でアドバイザーを務める。著書に「A Culture of Quality」「Leaders of Their Own Learning」「Management in the Active Classroom」「Learning That Lasts」など
 
注2 (訳者)塚越悦子  翻訳業 カップル&パートナーシップ専門コーチ アドラー&幸福学ハッピーペアレンティング(子育てコース)講師 著書に「国際結婚一年生」(主婦の友社) 訳書に「異性の心を上手に透視する方法(プレジデント社) 「アドラー流子育てベーシックブック(サウザンブックス社)。

注3 (解説)藤原さと  一般社団法人こたえのない学校代表理事  ハイ・テック・ハイの教員研修プログラムの日本導入に携わる。著書に『「探求」する学びをつくる」(平凡社)など。


塚越さん、素晴らしい本と出会える機会をありがとうございました。

(担当:Giglio)


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「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」が伝えること

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 今回は複数のさつき会・会員から推薦がありました「竹林はるか遠くー日本人少女ヨーコの戦争体験記」「続・竹林はるか遠くー兄と姉とヨーコの戦後物語」(ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著&監訳、都竹恵子訳、ハート出版)について、ゆっちょむとアレクサンドリアが感想を綴りました。

IOT竹林はるか遠く表紙
 
 今年の冬は、本を通じてたくさんの出会いがありました。その中でも、特に忘れられない一冊が、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズさんの著書「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」と、その続編の「続・竹林はるか遠く―兄と姉とヨーコの戦後物語」です。
  ヨーコさんは、満鉄(南満州鉄道)に勤務する父と母、兄、姉に可愛がられて育った、ちょっと甘えん坊の末っ子です。「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」では、そのヨーコさんが、母と姉とともに日本に引き揚げてくるまでの壮絶な体験が描かれています。息を吞むような出来事が続く中、自分がヨーコさんだったら、お姉さんだったら、お母さんだったら、と想像しながら一気に読みました。そして、ヨーコさんや、特に姉のコウさんがとった行動や決断の素晴らしさに感銘を受けました。戦争の悲惨さ、残酷さ、家族を思いやる気持ちの尊さなど、この一冊から言葉では表せないほどたくさんのことを学び、読みながら涙が止まりませんでした。後編の「続・竹林はるか遠く」では、日本に引き揚げてからのその後が描かれています。こちらも涙なくして読めませんが、二冊一緒に読むことで救いのようなものを感じます。
 「竹林はるか遠く」は、最初にアメリカで英語で出版され、アメリカの中学生の副読本として採用されたそうです。その本を筆者のヨーコさんから贈られた愛知県の学習塾の先生である都竹恵子さんは、日本の自分の生徒たちと感動を分かち合いたいと思い、この本を塾の教材として使われたそうです。「竹林はるか遠く」の日本語版は、都竹さんが生徒と一緒に訳していたものを土台に翻訳されたそうです。この本を塾の教材として選ばれたこと、そして一つ一つ意味をヨーコさんご本人に確認しながら丁寧に翻訳を進められたことなど、都竹さんのエピソードもこの本に感動を与えてくれます。
 ぜひ読んでみてください。
(ゆっちょむ)

IOT木槿➁
 
 二月のさつき会新年会の雑談の中で、この二冊の存在を知りました。
 これまで大陸からの引き揚げ者のエピソードを含んだ小説は読んだことがありましたが、この本のように朝鮮半島からの引き揚げ者の帰国後の生活まで描いた小説を読むのは初めてで、遅ればせながらこれまで知らなかった事実に目から鱗が落ちたような気分になりました。それにしてもこの小説の主人公達は苦境の中でよく働き、日用品に困って木の匙やアイロンまで手作りするなど工夫を凝らし、物を粗末にせず、学ぶ姿勢を捨てることをしない。生活の困難と貧困による差別や偏見に遭遇した時に主人公が呟く「私たちは他人に恥じることなど何もない、これまでやってきた全てのことを誇りに思った」という言葉が胸に沁みます。
 戦争の記憶を学び直すことで、引き揚げ者や空襲で焼け出された人たちなどと家族を戦地に送りながら住居面で戦争の被害が少なかった人たちなどとの間に発生した経済格差が、実は今も影を落としている現代の老人問題や土地の問題、また戦後日本の社会不安を引き起こした複数の事件の本質を深く意識しました。さらに二冊とも宗教色が薄いことに驚きました。「神も仏もない」ほど凄惨な経験を綴った物語だからでしょうし、背景にある当時の宗教文化についても思い到りました。
 この小説の主人公達の苦脳と克服の道のりはその後の西日本や東北その他で震災に見舞われた被災者の方々の復興へのお気持ちにも相通じるものがあるはずで、福祉のあり方にも深く考えさせられました。

(アレクサンドリア)


IOT竹林



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地植え栽培とプランター栽培~我が家の趣味の園芸~

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コロナウイルスが蔓延し自宅での巣ごもり状態が続いていた頃、NHKテレビの「趣味の園芸」を観る機会がありました。これまではピーマンなどを植える程度でしたが、番組を通じ様々な品目が手軽に育てられることを知りました。本格的に家庭菜園や農業を営まれている方にはお恥ずかしい限りですが、都会育ちの私が楽しむ我が家の数例を紹介いたします。

☆ 種から育てるアスパラガス

IOTアスパラ地植え2

IOTアスパラガスの種➁
アスパラガスの種

IOTアスパラ収穫後

知る人は知っているようですが、アスパラガスを種から地植えで育てます。春・秋の二度、しかも八年間くらいはシーズン中次々に発芽します。現在我が家では三年目に突入し、今シーズンは現在まで(六月初旬)採取できなかった週はありません。

☆ 根三つ葉(市販・野菜の根を利用して)

IOT三つ葉

知人の著名歌人が、ペットボトルで作成した鉢に市販の野菜の切り株(根の部分)を移植し育てているのを知りました。私も早速長さ三十センチほどの根三つ葉の大束を買い、根の部分とその上の茎の部分五センチほどをプランターに植えてみました。十一月にお正月用にと栽培を開始したのですが、生育に三ヶ月かかってしましました。多年草ということもあり、重宝しています。見た目もきれいですね。

☆ コンパニオンプランツとしての万能ねぎと苺

IOT苺とねぎ

コンパニオンプランツをご存知でしょうか。ナスとマリーゴールド、キュウリとインゲン豆など異なる植物を一緒に植え、害虫の被害や根腐りなどの病気を防ぎます。苺の苗を購入しプランターで楽しみ、コンパニオンプランツとして市販の万能ねぎを一緒に植えました。ねぎを栽培する必要もなくお手軽でした。害虫もつかなかいようです。

☆ 布コンテナで育てるサクランボ

IOTサクランボ木

IOTサクランボ収穫

NHK 趣味の園芸のテキストで鉢で育てる果実の記事を読み、我が家はサクランボ(改良種)の四十センチほどの苗木を購入、一年目の今年、三十五個ほどの収穫に恵まれました。布コンテナでも本当に育ち実ったので驚いています。

これからも小さな実りを楽しんでいきたいと思っています。

参考文献⁑NHK 趣味の園芸2020年11月号「至福の果樹生活」

(担当:アレクサンドリア)


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東京落合長崎めぐり~トキワ荘、林芙美子記念館、佐伯祐三アトリエ~

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大江戸線落合長崎駅から西武新宿線下落合駅間にかけて点在する文化人の元住居などを訪ねました。

➀豊島区立トキワ荘マンガミュージアム
IOTトキワ荘看板

IOTトキワ荘

都営大江戸線落合南長崎駅から、徒歩5分。映画「トキワ荘の青春」市川準監督などであまりに有名なトキワ荘を再現したミュージアムです。昭和20年から30年頃手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、水野英子など新人漫画家達がこのアパートで切磋琢磨し合っていました。忠実に再現された建物内に入ると当時の気概や昭和の熱気を肌で感じるような錯覚に陥ります。
このトキワ荘について私がいつも思うことは、水野英子さんはここでただ一人女性であったということです。水野さんの置かれた立場に共感を寄せられる方がいらっしゃるのではないでしょうか。

☆尚、現在、永井豪の企画展が開催中でした。「是非一度漫画の原画を見てください、大変美しいです」と言われておりますが、その通りだと思いました。

➁豊島区立トキワ荘マンガステーション
IOT漫画ステーション

ミュージアムから徒歩2分。トキワ荘の住人達の漫画を読むことができます。
水野英子さんの「ブロードウェイの星」(1968年)をご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。混血(カラード)の少女が演劇の世界でスターになる話ですが、大変久しぶりに読み返す機会を得ることができ、水野さんの意識の高さを改めて実感しました。有吉佐和子さんの「非色」(1964年)を読んだばかりでしたので、差別や偏見と闘いながら自己実現を果たす女性の姿を描いた昭和の女性文化人の勇気に改めて感服いたしました。

③新宿区立林芙美子記念館
IOT芙美子記念館入り口

IOT芙美子玄関2

トキワ荘通りから瀟洒で閑静な住宅地を抜けて徒歩15分。「放浪記」「浮雲」などの代表作で知られる林芙美子が昭和16年から26年まで暮らしていた家です。芙美子が「東西南北風が吹き抜ける家」を目指して建てたということもありますが、高度成長期前の山の手の住宅はこのくらい風通しが良かったな、と吹き抜ける風を体感しながら当時を懐かしみました。
IOT芙美子書斎
芙美子書斎
IOT芙美子ピアノ
芙美子の愛用のピアノ
IOT芙美子庭➀

IOT芙美子庭➁

現在の東京は住宅街も所狭しとビルが建ち風の通りが本当に悪くなってしまいました。緑豊かでやすらぎのある記念館でした。

④新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館
IOT佐伯祐三1

画家の佐伯祐三は、大正12年から渡仏をはさみ4年間、この下落合の地にアトリエを構えていました。当時のままの敷地に大正のアトリエ建築を伝える建物が遺され、夭折の天才画家の息吹を感じることができます。建物しかない、との意見もあるようですが、不思議な満足感を得ることができました。本物に触れられたからではないかと思います。
IOT佐伯祐三2 

IOT佐伯祐三庭

IOT佐伯祐三アトリエ

アトリエ内には、佐伯祐三が描いた下落合の風景画作品のパネル展示があります。

この他に、佐伯祐三アトリエ記念館から徒歩10分の新宿区立中村彜(つね)アトリエ記念館もお勧めです。

関連情報
豊島区立トキワ荘マンガミュージアム
新宿区立林芙美子記念館、新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館、新宿区立中村村彜(つね)アトリエ記念館

☆豊島区役所、豊島区立トキワ荘マンガミュージアム、新宿未来創造財団、各関係者の皆様のご協力に感謝いたします。
(担当:アレクサンドリア)

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「みぽりん 山形ツアー'23」 ~さつき会の出会いから実現した私の願い~

会員の活動CM(0)

今回は、さつき会ブログレポーターのKuminさん(1985工院)が送ってくださった記事をご紹介します。
Kuminさんはさつき会で出会ったジャズシンガーの藤林三穂子さん(2004文)に山形でライブをしてもらいたいと願い、今月遂にその夢を実現なさったそうです。

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『みぽりんモンロー』という印象的な名前をご存知でしょうか?
さつき会の藤林三穂子さんのジャズボーカルとしてのお名前です。
世がコロナになり、さつき会のZoomの集まりが増える中で私は藤林さんと知り合いました。みぽりんモンローの名前を持ちJAZZをされていることを知り、高校や学部の頃ジャズ喫茶に入り浸った青春時代を思い出した私は、私の地元山形でもライブをやってくださったら素敵だなと思いました。そしてそのことを何かの拍子に大胆にも水を向けた時、みぽりんさんは率直に「是非に。山形にはジャズを演奏する素敵なお店があるので」とおっしゃってくださって、この件はペンディングになっていたのです。
その後何回か配信でステージを聞くたびに、その思いが高まっていきました。
そしてこの度、みぽりんモンローこと藤林三穂子さんを山形ツアーにお招きすることができました。
5月13日、ジャズボーカリストであるさつき会の歌姫みぽりんと、ベテランのピアニスト納谷嘉彦さん、新進気鋭のトランペッター鈴木雄太郎さんとともに、山形市内のジャズスポット「ノイジーダック」にてのトリオ。
ごきげんな山形の夜となりました。

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ゆったりとした客席で皆さん楽しまれましたが、お客様から寄せられた生の声をご紹介します。

・素敵なトランペットとのデュオから始まったライブ。 みぽりんの歌はセクシーな甘い声とともにまるでモンローが憑依したようでした。 一足先にブルージー 7な夏を頂きました。 ありがとう!M.A.
・曲想に応じた声のトーンや表情 仕草が豊かで 視覚的にも 聴覚的にも引き込まれた
・サマータイム の出だしの 高音、お熱いのがお好きのマリリンモンローを真似た セクシーな声色も印象的だった。
・ピアノとトランペットとの掛け合いでは4ビートに乗ったスキャット (ボーカルのアドリブ)がとても魅力的だった。
・一番感じたのはヴォーカルの魅力。ただ 歌を歌うのではなく 本人が主人公に入りきっていること 。
Round Midnightでは夜になると一人ぼっちで寝られず落ち込んでいく …最後 顔を伏せていて頭を下げて 目線をフロアに移してピアノの余韻が終わるまで伏せていた。入り込んでいて悲しさ愛おしさが伝わってくる。重々しい雰囲気を全身でやっていた。ただ歌わされているのが日本人の表現かもしれないが 藤林さんは分析されていて ここは踊ったりとか 苦労は見せないけれど 曲の分析された歌声 技術力はすごい。 1曲1曲の異なった思いが分析されている表現力。ジャズミュージカルを演出された藤林さん そのキャリアが英語を持つ武器もあって ミュージッカル的な表現をされていた。
・スキャットがとてもかっこよかった。もっと聞きたかった。ピアノで言えば即興表現。藤林さんの ダバダバダ とした表現がお見事。納谷さんのピアノが途中でルバートしたところをインテンポで入っていた。ヴォーカルのアドリブが素晴らしい
・とにかく音域が広い
ラウンドミッドナイトの低い腹からでる音域からサマータイムへと。普通自分が響く 音域しかやらないのだが。
・作詞 オリジナル曲。
英語が分からないので ちょっと意味の触りをお聞きしたかった。あえてオリジナルの歌詞をつけた意味を知りたい。
・3人で初めて会って この演奏ができるのが ジャズの魅力。トランペットのアドリブがチャーリー・パーカーを標榜するビバップ奏法で、若くて経験も浅いと思うのにこんなにアドリブができるとは。 S.M.

などなど、山形でこのステージを聞くことができる喜びに皆さん満ち溢れておりました。
山形で藤林さんのステージを という事が私の年来の望みでありましたので、それがかない大変嬉しく思います。
(Kumin:山形在住)

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〈当日のセットリスト〉
第1部:
★ Candy
★ I Thought about You
★ If I Were a Bell
★ Summertime
★ I'm Old Fashioned
★ Round Midnight
第2部:
★ I Wanna Be Loved By You
★ There's No Business Like Show Business
★ All Those Days Ago(オリジナル曲-歌詞は藤林さん)
★ Nuvens(オリジナル曲-歌詞は藤林さん)
★ But Not for Me
★ Love is Here to Stay
アンコール:
★ Here's to Life

〈今後のみぽりんさんのステージ〉
5/29 錦糸町 アーリーバード
6/5  神保町 エクスプレッション
    (セッションホスト)  
6/16 都立大学 ジャミン
6/26 納谷さん(pf)
   (ツイキャス配信ゲスト)
6/30 錦糸町 アーリーバード
7/3   神保町 エクスプレッション
    (セッションホスト)
7/7  三鷹 ソ二ド 2
7/12 吉祥寺 音吉!メグ
7/15 四谷 CON TON TON VIVO
    ”怪談ジャズ"
7/19 三鷹 ソ二ド 2
7/31 錦糸町 アーリーバード
8/5  船橋 コクリコットフォルテ

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〈後日、藤林さんから嬉しい便りが届きました!〉
この度は、さつき会の素晴らしい先輩であるKuminさんのご尽力で山形ツアーが初めて実現したこと、心から嬉しく感謝でいっぱいです。数か月も前から企画に際して丁寧にお心遣い頂き、安心して山形に向かうことができました。
今回のメンバーは、巨匠の納谷さんと若手の鈴木くんという初めての組み合わせでしたが、初めてのメンバーでも一瞬で仲良く遊べるというジャズの魅力をシンプルにお届けしたくてスタンダード中心のセットリストにしてみました。それと同時に、クラシック映画好きからジャズの世界に入ったという私のルーツや、オリジナルの英語詞を作っているという独自の活動の一端もお見せできたかと思います。
ジャズボーカルというのは初めてジャズを聴く人に接する機会の一番多い立ち位置にいると思うので、ジャズの楽しさを伝えつつ私のことも知って頂けたら、という名刺代わりのようなライブができたかな、と手前味噌ながら思っております。
1曲1曲を真剣に聴いてくださり、曲が終わると盛大な拍手をくださる山形の皆様の温かさに触れ、私自身もとても楽しく心地良く、まるで家にいるかのようにリラックスして歌うことができました。素敵な景色や美味しい食事、そして何より山形の方々の優しさにたっぷり触れることができ、帰るのが本当に名残惜しかったです。また近いうちに行きたくてたまらないくらい、すっかり山形のファンになってしまいました。
Kuminさんをはじめ、お世話になった全ての方々に深くお礼申し上げます。

▶関連情報: 藤林さんのブログ
ジャズシンガー藤林三穂子によるお色気ジャズレッスン♪

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Kuminさん、藤林さん、素敵な記事をありがとうございました!
(さつき会ブログチーム担当: Mikkie)


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心の豊かさをたどる道のり(1)

会員の活動CM(0)

 ​さつき会会員で臨床心理士の宮下深帆さん(1998年教育学研究科・教育心理学コース)は、夫婦別姓が認められないことを引き金にひとり親となり、3.11では故郷を失うなど、社会的な課題を対岸の火事として遠巻きにしているわけには行かない道のりを進んでこられました。それでも行きがかりに出会う課題に一つひとつ向きあわれ、そのなかには指定を受けられない難病や教育問題、堀木訴訟を上書きする国の法改正も含まれています。
 ​現在は、治験と療養のおかげで体調が​改善し、二人のお子さんの教育もひと段落し、少し​ホッとされています。​「ライフ・ステージが変わると『喉元過ぎれば熱さを忘れる』という言葉のとおり、当事者の大変さを忘れ、情熱も失せてしまいます。でも、『とんでもない道のりを進んでみたら、幸いなことに心の豊かさは増していた』という発見もあったことを伝えたい​と思います​」と宮下さんはおっしゃいます。
​ ​そこで、宮下さんのこれまでのエピソードなど​を​対談形式で​何回かに分けて紹介していき​たいと思います。今回は、ブログチームの「ゆっちょむ」との対談です。

母の日・父の日に寄せて

ゆっちょむ:5月14日は母の日、そして6月18日は父の日ですね。私は、父を病気で10歳の時に亡くし、母が一人で私たち姉弟三人を育ててくれたので、母に対する思いは人一倍強いのではないかと思います。宮下さんも、一人で二人のお子さんを育ててこられて、さぞかし苦労されたでしょうね。

宮下:子育ては、どれだけ手をかけるかによって大変さは違うでしょう。私はあまり手をかけられなかったので、子育てそのものに苦労したという感じはありません。ただ教育学研究科の先輩で「ひとり親は一見元気そうに見えても、沈没寸前の船のようなもの」という名言を伝えた方がおられます。私は 3.11 で帰るところを失くし、難病も電撃的に悪化して寝たきりでしたから、船は沈没してしまって、子どもたちを抱えたまま筏で漂流していたようなものです。

​ ​ひとり親​だったり、女所帯だ​ということで、​世間から​軽く見られたり、意地悪を​されたりはしました。特に長女が小学校6年生の時に​ひどいいじめを受けて、学校に抗議に行ったときは、まったく相手にしてもらえず、組織的な隠ぺい工作と泣き寝入りを強いるような動きに度々出会いました。同級生のお父さんの中には「怒鳴りこみに行ってあげようか」と言ってくれた方などもいらしたのですが、その頃は、相手とは対等に尊重して接するものであって何とかなると思っていたので、断りました。後から思うと、その方の勇気あるご賢察を汲むべきでしたね。

​ゆっちょむ:私の母も「お父さんがいる頃は春風が吹くようだったのに、亡くなった途端、世間から矢が飛んでくるようだった」と​言っています。
 私たち姉弟は、母が今にも倒れるのではないかとハラハラしながら、母を支えていました。私は、家事が元々好きなこともあって、小学生の頃から料理や洗濯、買い物、掃除などをしていました。中学生の頃だったと思いますが、クリスマスに料理本を見てミートローフやクッキーを焼いて仕事から帰る母を待っていたら、母がとても喜んでくれたことを覚えています。
 お嬢さんは、その後どうされたのですか。

情報があれば赤ちゃんだって考える

​宮下:​娘は怪我をさせられたので、それから学校での安全確保ができるまでは学校には行かせませんでした。その後、卒業式に出たいという本人の希望で転校し、地元の中学校から都立高校に進学しました。息子は、オーケストラのある学校に行きたいと言ってトコトコと一校だけ一人で中学受験をしに行き、公立中高一貫校に進学しました。2人とも大学に進むためのスカラーシップを探し続けて、娘は医学生になっています。息子はイギリスに行けば大学に進学できることがわかり、高校を中退してイギリスに渡り、現地で中等教育を終えて、今は経済学で欧州一と言われる大学の2年生です。
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 私は、2010年の 3月初めから連日38度を超す発熱が続いて、サイトカインストームのような症状と筋力低下で、起きていることもできなくなりました。当時、娘が10歳、息子は8歳でした。原因不明の難病で、指定難病ではなかったため、最初は見てくれるお医者さんも見つかりませんでした。生きていくのがやっとの経済状況だったので、子どもたちは塾には行っていません。

ゆっちょむ:​私も、中学、高校ともに公立出身です。自宅から通える国立大学ということもあり、東大を目指すようになりました。
 お子さんたちの学校は、いずれも都立最難関の学校ですね。塾に行かなくても、そういう学校に行けたということは、きっと宮下さんの教育によいところがあったのでしょうね。

​宮下​:どうでしょう…親ができるのは環境や情報を与えることくらい。同じ環境や情報を与えても「どうしたいか」とかやるかやらないかは子ども本人次第なので。本人が考え、がんばったことが一番効いていると思います。ただ、親として、教育で心がけていたことは大きく二つあります。
 一つめは、きちんと説明するということです。必要な情報を与えれば、赤ちゃんでも考えます。例えば、離乳食を始めたばかりの赤ちゃんでも好物のおせんべいを手で割って、「好きなのを取っていいよ」と伝えると、じっと見てちゃんと大きい方のおせんべいを選ぶのです。ベビーカーを押していて前方に縁石があれば、「カタンカタンってします~」と状況が分かるように声かけしていました。段差でガクンと揺れるのは不快でしょう、不意打ちならなおさらです。が、説明を聞きながら揺れる体験を重ねるうちに、一緒に予見するようになったり、体験を共に味わうひとときも生まれます。
 子どもたちが言葉を操るようになる前から、「今日はおばあちゃんの家に行きます。これから電車で行きます」「この電車に何分くらい乗ります」などと一連の説明を試みていました。子どもなりにおとなの伝える真剣な努力を見てとるのか、注意して聞いてくれるのです。子どもが話せるようになったら、さらにお話しを促すような声がけをします。
 話し始めるようになったころ。おむつをつけずにスッポンポンのお尻で居間をうろついているので、「おサルさんみたいよ」と辛口を投げかけると、娘はキッとして「キューピーさんは?!」とすかさず言い返してくるようになりましたが。
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 ひとり親であることも、経済的な力がないことも、隠し立ては一切しませんでした。「このままだと大学には行けないかもしれない。だけど、こういう方法を試みたら、希望をかなえられるかもしれない」とか、おとなにならないとわからない社会の仕組みなどは伝えました。ヒトは、自分がしたいことは言われなくてもしますし、本気で取り組みます。熱中できることがあればすごくいいですよね。きちんと情報が与えられれば何をしたいか自分で判断しますし、親はそれを応援するのみ。じゅうぶんな愛情と生活技術を受け取ったら、あとは自然に羽ばたき出します。
 もう一つは、学習目標を中学修了程度と定めたことです。中学校の履修内容を100%できるようになったら、基本的にどんな進路も開かれているからです。当時は、子どもたちの最終学歴が高校になるかもしれない状況でした。それでも最終学歴が日比谷高校だったら、その子のポテンシャルを察してもらえるだろうと思いました。
 私が元気で働き続けられていたら、託児施設として子どもを塾に入れていたかもしれません。でも、塾に行かせられなかった結果、私たちはどうしたらいいか親子共々一生懸命考えるようになりました。

ゆっちょむ:優秀なお母さんがいつも身近にいたことも、よかったのかもしれませんね。それに、宮下さんは、起きているのもままならない身体でも、制度の矛盾を何とかしようと立ち上がられたのですよね。

宮下:優秀どころか、不登校になってからはレールを飛び降りることを学習した確信犯的な落ちこぼれです。難病で高熱などの症状に翻弄されていたときは言語障害もあり、言葉が操れない苦しさも知りました。
 ひとり親としては、子どもたちを育てながら家計も社交も切り盛りするという多忙な日々を送っていました。それが難病の重症患者になって、あっという間に収入の道が閉ざされました。不自由になると医療や介助費用も必要になったので、本当に困りましたね。

法律に埋め込まれていた落とし穴

​ ​ところが、ひとり親が働けなくなると、「障害年金」が支給される代わりに、「児童扶養手当」が支給停止になりました。児童扶養手当は「年金的性質」だとして、「年金の併給禁止」という規定が適用されたためです。けれども、「児童扶養手当」は、現金給付のほかに、ひとり親家庭が福祉サービスを受けるためのパスポートのようなものとして広く使われていました。公共料金の減免・食料支援・行楽行事・学習支援・お祝い金等々です。
 「障害年金」のうち基礎年金だけですと、生活保護よりはるかに少なく、もちろん子どもたちとの暮らしは成り立ちません。厚生年金があればマシですが、女性の受給資格者は男性よりもずっと少なく、日本の男女の給与格差はここにも影響していて受給額もずいぶん低い。ひとり親の九割近くは女性ですから、障がいひとり親になると、家計は兵糧攻めのごとく締めつけあげられるので、子どもたちの進路選択の余地はなくなるほどお先真っ暗でした。
​ 私は、​「障害年金」と「児童扶養手当」の併給禁止は、おかしいと思いました。最初は、優秀な人たちが作っているはずの国の法律に間違いがあるなんて信じられませんでした。しかも、この仕組みの矛盾は、約50年前に最高裁まで行って争われていました。それなのに、困った人が必死の思いでつかんでいる崖っぷちから、さらに蹴落とすような、制度の落とし穴が残っているのはやはりおかしい。
 ただ、「一介の母親が、個人で国に対して何ができるのだろう?」と。たった一人で向き合う相手の大きさに震えていました。
 自分なりの紆余曲折はありましたが、寝たきりで音声入力して論文を発表。そのころ治験のおかげで点滴すると​一日二時間弱の自由が得られる薬に出会ったので、私はその時間を国の法改正の取組みに充てました。国会の議事録を検索したり、官庁勤めの同級生など理解していただけそうな方に協力のお願いをしに行くようになりました。
 自分のことを自分で救えない身でしたが、自分に備わっている知的能力や人的ネットワークを眠らせておかないで人のために使おうと思ったんですね。娘の高校のグラウンドの隣に議員会館がそびえ立っていたのです。私は高熱などのきつい症状でフラフラですから保護者会に行くのも大仕事だったのですが、保護者会に行けるのなら隣も訪ねられるはず!と自らを励まして、議員会館を目指しました。娘が高校を抜け出して、議員への説明の応援にきてくれたこともありました。​
 息子も高校一年生での海外研修(SSH)で、自発的にこの課題を研究して、イギリスの大学で発表してくれていました。翌年引率の先生が、「去年のあの子はどうしているか」と聞かれたそうなので、それなりのインパクトを与えたのではないかと思います。
20230513 Mommy Children

​ゆっちょむ:次男の高校の校長先生から「高校生は、同じところに行く電車でも、わざと違う車両に乗るくらい母親が嫌な時期です」「でも勉強だけはさせてください。字が読めるようになったら本を読めるようになります。本を読めるようになったら、広い知識を得ることができます。今は、字を読むのと同じように、あらゆる学問の基礎となる勉強をしている時です」と言われました。そんなに嫌な母親から勉強をしなさいと言われても、子どもは言うことを聞かないだろうと​思ったら、担任の先生から「今の時期は、親が向上する姿を見せることが大事です。そういう姿を見せたら、子どもは自然に勉強します」と言われて納得しました。宮下さんは、まさに親自身が努力している姿を見せられたのですね。

「児童扶養手当」の併給禁止を解く法改正がついに実現

宮下:自然とそうなりましたでしょうか。最高裁で併給禁止の解消を求めた「堀木訴訟」は今では高校の教科書に載るほど大きな社会運動になりましたが、問題は解決されないままその後の動きはありませんでした。
 重症患者が一人で取り組むのは命を削る覚悟で、かなり無謀でしたが、臨床心理士としての経験から、弱りきって声を上げられない無数の人々が子どもたちとともに落とし穴の底に沈んでいることを察していました。
 十年越しのほとんど個人の孤独な戦いでしたが、2020年についに法改正が実現しました。その結果、障害ひとり親とその子どもたちへの児童扶養手当の併給禁止が解かれ、今後は支援の対象とされるようになりました。
 ふり返ってみると、堀木訴訟で最高裁まで争って大きな運動になっても叶わなかったのに、少人数で解決に導くことができた要因として、当事者である娘や息子が参画したことが微力ながら小さくはないひと押しになった気がします。

ゆっちょむ:50年も続いた法律の中の落とし穴をつぶすことができたのですね。今、困っている方は働きかけをする余裕がない方がほとんどだと思います。宮下さんの努力のおかげで、大勢の方を救うことができますね。

宮下:子どもたちが成人したので自分たちを助けるには間に合いませんでしたが、法改正が実現して本当によかったです。ただ、法改正が適用されるためには、ご住所のある地域での申請手続きが必要です。対象となる方や、周りに該当する方がいらっしゃいましたら、ぜひ申請をされるよう教えてさしあげてください。

ゆっちょむ:はい、そういう方に会ったらぜひ伝えたいと思います。
 私はお見合いで夫と知り合ったのですが、夫の父が「小さいときに苦労した子のほうがいい」と私との結婚を後押ししてくれたと夫から聞きました。ひとり親の家庭で育って、淋しい思いをしたり、心細かったりしたこともありましたが、その言葉で報われたような気がしました。二人とももう他界しましたが、優しかった夫の両親には今も感謝しています。
 宮下さんのお子さんたちも、そういう風に見てくれる方にきっと出会うと思います。これからも前を向いて、大きく羽ばたいていってほしいですね。

宮下さんは、体調がままならない中、ご自分の経験を少しずつ綴り始め、これまでに10万字の原稿を書き上げられました。今は、これをもとにまずは本にまとめたいとの希望をお持ちです。さつき会の会員でその分野の知見のある方、本を出版された経験のある方のお知恵を拝借できれば幸いです。お力添えをいただける方は、さつき会のブログチームまで(joho-hasshin@satsuki-kai.net)ご連絡ください。
​また​、宮下さん自身のブログでも原稿の一部を紹介しています。よろしければご覧ください。
(続く)


【ご参考】
「障害母子世帯の暮らしの現実から制度矛盾を正した堀木訴訟」「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年9月号より

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それほど敷居の高くない着物の楽しみ方

私の愉しみCM(4)

今回は、さつき会会員のN.M.さん(1980養)にお願いして、自分流に着物を気軽に楽しむ工夫などについて書いて頂きました。

 着物について語るのは、本来なら茶道や邦楽などのたしなみがあって、きちんと着こなしている方にお任せしたいところですが、そうした心得や着物を着る必然性がなくても誰でも楽しめる点を、いわば異端者としてお伝えしたいと思います。

 着物を着るようになったのは、母の着物を受け継いだのが一番の理由です。私の親の世代では盛装はまだ和服で、日常に着る機会も多く、普段着からよそ行きまで一通り揃えていました。物が捨てられない昭和人の習いで、せっかくあるんだから着なければ、と母親に促されて着付け教室に通ったものの、続いた動機は教室が終わって仲間とおしゃべりしながら飲む一杯のビール・・・という不純さでした。習うにしても着るにしても、仲間がいるとぐっとモチベーションが上がります。


①お稽古着-2
同窓会で30年ぶりに着用した着付け教室用の稽古着

 身長が近ければ他人の着物でも何とか着られるので、リサイクルに適した衣料と言えます。洋服ではあまり意識しなかったのですが、自分の色の趣味がかなり母と似ているとわかったのも思わぬ発見でした。
 若いころの着物も帯を変えればそのまま着られますし、裏地だけ地味な色に変えるという手もあり、年を重ねてもさして違和感なく着られるのもいいところです。何といっても、洋服と違って体形が変化しても着続けられますし!
 そういえば、着物の市場を「たとえて言えば自動車に似ている」との文章を目にしたことがあります。リサイクル品の流通が充実していること、新品中古を問わず価格帯が非常に幅広いこと、手入れの仕方によって長持ちもすれば痛みもすることなど、確かにうまく共通点をとらえたものだと感心しました。


組写真2-9-2
(左) 世田谷ボロ市でゲットした羽織
(右) 同じ羽織と辻が花(絞り染めの技法)の着物

組写真3-4
(左) リサイクルショップで購入した紬
(右) 同じ紬に母の羽織と帯を合わせました。

 着物には洋装のようなデザインのバリエーションはありませんが、使われる織や染の種類、色、柄、帯や小物との取り合わせで幾通りもの着こなしができ、同じ着物であたかも異なるストーリーを語るようにアレンジできるのも楽しみの一つです。織物の種類や描かれた柄だけでなく、半襟(着物の襟元から見える部分)、帯揚げ(帯の上にちょっとだけ見えている布)、帯締め(帯の上からベルトのように締める紐)、帯留め(帯締めに通してつかう飾り)といった小物は、昨今はスカーフやベルト、ブローチなどのアクセサリーで代用しているのを見て、新鮮な印象を受けました。新幹線のホームで、短めで活動的に着こなした着物にブーツ、ベレー帽とポシェットを合わせたモダンガールさながらの旅装を拝見して、胸がときめいたこともあります。

組写真5-6
(左)コーディネートのシミュレーション。木彫りに見える帯留めは実はプラスチックのボタン。
(右)同窓会当日がハロウィーンでした。カボチャ柄の半襟は実は手拭。帯留めは黒猫のブローチ。着物は既出の紬のアンサンブル。

 柄や染や織の名前を知るうちに、お気に入りの柄にこめられた由来にはじまり、繊細な伝統技術 と現代の技法のマッチング、日本人が肌で感じていた季節感まで、興味が広がっていくことと思います。幸田文の作品でその名も「きもの」という小説に、「柔らかい織物かしゃきっとした織物か、来ている着物で挙措動作も変わってくる」という一節があり、理屈ではなく織物のTPO を暮らしの中で感じ取っている世代の表現だと腑に落ちました。

組写真7-8
お気に入りの着物に母の帯や自分で買った帯を合わせて。化繊なので悪天候でも心配なく、ヘビーローテーションに なりがちです。

 今は便利な着付け道具や洗濯機で洗える着物もたくさんあり、明治大正期さながらに洋服との コーディネートも取り入れられています。もちろん伝統を踏まえたうえでアレンジに挑戦するのが理想ですが、初めから敬遠せず「面白そうだからのぞいてみようかな」と試してみてはいかがでしょう。何世代も前に生きた人々の感覚を追体験できる、ちょっとしたタイムトラベル気分が味わえますよ。


N.M.さん、ご寄稿ありがとうございました。
(担当:Mikkie)


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春の植物園散策

イベントだよりCM(0)

さつき会イベント委員会主催の目黒自然教育園(正式名称は、国立科学博物館附属自然教育園)の散策を実施しました。
昨年は、新型コロナの感染拡大により中止となり、今年は当初予定日が雨のため延期となりましたが、4月28日に輝くような新緑の中を少人数でゆったりとした散策を楽しむことができました。

AO-園内風景

目黒自然教育園は、旧武蔵野の自然景観を保つことをその目的の一つとしていることから、最近では庭や一般の公園では見ることの少ない植物が多くあります。今回は、チョウジソウ、フタリシズカ、ヒトリシズカ、ノイバラ、ホウノキの花等を見ることができました。

AO-チョウジソウとモンシロチョウ

AO-フタリシズカ

AO-ヒトリシズカの実

AO-ノイバラ

AO-ホウノキ


 植物の世界の季節の移り変わりは驚くほどで、10日前の下見の時に咲き誇っていたエビネ、ニリンソウは残り花となっており、キンランは他の植物の中に埋もれて見つけることもできなくなっていました。

AO-エビネ

AO-ニリンソウ

AO-キンラン


 いつものように、さつき会会員のC. I. さんのお話を伺いながらの散策でしたが、今回見たいくつかの植物の雌雄について、詳しいお話を書いていただきました。

<アオキ>
アオキは庭にもよく植えられる日本人には親しい木です。郊外の低山に入ると下生えの大部分がアオキという場合も珍しくありません。ただし鹿の好物なので、最近は食べられてアオキさえない山もあります。
アオキは雌雄異株(雄花と雌花が別々の木につく)です。雄株も雌株も春の初めにあずき色の小さな花を咲かせます。よく見ると雄花と雌花は少し違いますので、観察してみてください。前年の実がついていればそれは雌株ですから、雌花ということがわかります。晩秋から実が赤く熟しますが、一部分だけが赤いものやいびつな形のものをみたことはありませんか? これはアオキミタマバエという虫の幼虫の仕業です。要するに虫こぶなのです。虫こぶは都会や人家に近いところに多く、自然環境の良いところではつやつやの赤い実が見られるように私は思っています。都会ではほとんどの実が虫こぶということも珍しくありません。
1690年に来日したドイツ人のケンペルは赤い実に感動し、帰国後にヨーロッパに紹介しました。その後1783年にイギリスからやってきたジョン・グレファーは、やはり赤い実と緑の葉のアオキに魅せられ、本国へ持ち帰りました。美しい緑の葉はたちまち評判となりましたが、結実することはありませんでした。持ち帰った株は雌株だけだったのです。イギリスで見事な赤い実が見られるようになったのはそれから80年余り後、1860年にプラント・ハンター、ロバート・フォーチュンが雄株を持ち帰ってからでした。
斑入りの品種も作られ、冬に常緑樹のほとんどない英国では緑の葉に赤い実のアオキは今でも大変に人気があり、英国庭園でも多く使われています。

AO-アオキの雌株の花後の若い実

<シダ(ゼンマイとベニシダ)>
多くの方はシダにはあまり興味がないと思います。でもゼンマイはおなじみでしょう。食べるのは新芽です。ゼンマイは、葉緑素を持ち炭酸同化作用を受け持つ栄養葉と、繁殖のため胞子をつける胞子葉がまったく別の形をしています。(写真の茶色の部分が胞子葉です。)同じ株から二種類の若芽が出るのですが、食べるのは女ゼンマイとも呼ばれる栄養葉の若芽です。胞子葉の若芽は男ゼンマイともいわれ、食べられないことはありませんが、おいしくありません。胞子葉は胞子を飛ばすと枯れてしまいます。
ワラビは栄養葉と胞子葉の区別がなく、葉の縁に胞子がつき、みな同じ形ですから、すべての若芽が食用になります。

AO-ゼンマイ

シダの中でもベニシダは一番ありふれているかもしれません。普段は目立ちませんが、春先だけは新芽が展開すると赤い色を帯びた葉が鮮やかです。葉だけでなく葉柄や、鱗片と呼ばれる茎につく小さい毛のようなものも赤みを帯びます。葉の裏をみると、赤い丸い点々が並んでいます。これは胞子が入った胞子嚢を覆う苞膜というものです。葉の赤みはすぐに消えますが、苞膜の赤い色は夏まで残ります。赤い新葉と赤い苞膜でベニシダの名に納得です。ところが形や性質はベニシダそっくりなのに、新葉が赤みを帯びず、苞膜も白緑色の変わり者がたまにあって、ミドリベニシダと呼ばれます。言葉だけを聞くと、あなたは青いの?赤いの?と突っ込みをいれたくなりますね。

AO-ベニシダ2

<ウラシマソウ・ムサシアブミ>
ウラシマソウはサトイモ科の植物で、ユニークな花をつけます。花径の先の棒状の部分の周囲に雌花あるいは雄花をつけます。株が若くて未熟なうちは雄花だけをつける雄株で、株が充実してくると雌花をつける雌株となり、性転換をします。花のついた部分は仏炎苞と呼ばれる筒状の衣に包まれていて、外からは見えません。仏炎苞の縁は襟のように外にはりだし、後ろ側は頭巾のように高く持ち上がり、先は三角形上に前にかぶさります。花がついている棒の先はだんだん細くなり60cmにもなる長い糸状になり、仏炎苞の外へ飛び出ています。この糸状の部分を浦島太郎の釣り糸にたとえて「ウラシマソウ」という名がついたといわれています。

AOーウラシマソウ (1)

受粉はキノコバエによりますが、一度仏炎苞に入ったキノコバエは、仏炎苞の壁がつるつるしているので、上へはのぼれません。上の出口付近は狭く飛び出すことも困難です。雄株に入ったキノコバエは出口を求めて仏炎苞の底を歩き回り花粉まみれになります。底近くの仏炎苞の合わせ目にわずかなふくらみがあり、そこから出ることができます。ほかの株の花粉をつけて雌株に飛び込んできたキノコバエは歩き回って雌花を受粉させますが、雌株の仏炎苞には出口がないので出られず、内部で死んでしまいます。

雄株の仏炎苞の合わせ目、出口の穴があいている
雄株の仏炎苞の合わせ目、出口の穴があいている

雌株の仏炎苞の合わせ目、出口がない
雌株の仏炎苞の合わせ目 出口がない

受粉した雌株はトウモロコシのような実をつけます。晩春に仏炎苞の中をのぞくと棒の周りにびっしりと緑色の実がついています。秋には真っ赤に熟し、その頃は仏炎苞も枯れますので、野山で真っ赤なトウモロコシ状の実が目を引きます。

ムサシアブミもこの仲間です。とても変わった形の仏炎苞をしているので、すぐにわかります。葉も大きな三枚の葉が一つになったものが2枚ついていて、目立ちます。花をさかさまに見ると鐙の形に似ている、さらに、武蔵は良質な鐙の産地として知られていた、ということで、ムサシアブミという名になったようです。元々暖地の海岸付近に生育し、関東では自生していませんでしたが、温暖化のためか、東京でもよく育って増えてきました。ウラシマソウと同じように株の充実度によって性転換します。赤いトウモロコシ状の実はウラシマソウより大きく、迫力があります。

AO-ムサシアブミ

ムサシアブミ
2020年12月撮影


C. I. さん有難うございました。
散策イベントにご参加いただいた皆様有難うございました。

(担当 Aozora)


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市街地で安心なハチミツ作り

私の愉しみCM(0)

今回は、市街地で二ホンミツバチを飼っていらっしゃる会員のY.M.さんが、ミツバチの飼い方や安心できるハチミツの作り方などについて寄稿してくださいました。

市街地で安心な国産百花蜜を手作りできます!

 さつき会MLに「蜂蜜については種類が豊富で戸惑っています。」との投稿がありました。安価な外国産は人工糖分が混ぜられている事があります。国産もネオニコチノイド系の殺虫剤が含まれている場合があるので、農地が少ない市街地に住んでいるのでしたら、自分でニホンミツバチを飼うのが一番です。

 私は犬、ツノガエル、ニホンミツバチを飼っていますが、二ホンミツバチが一番手間いらず。その次が3週間に一度、餌をあげなければならないツノガエルです。

ツノガエル

犬は朝晩の散歩に糞の始末、餌もあげなくてはなりません。人類が最初に家畜にしたのは犬だそうですが、現代の犬は手をかけすぎる存在ではと思うこともあります。

 ニホンミツバチは自分で餌を採ってくるし、巣箱の掃除も自分でやります。年に1~2回ハチミツを分捕っても、居続けてくれます(逃げられることもあります ^^;)。
 二ホンミツバチは家畜に分類されますが、野生昆虫と思った方がよいです。自宅の庭にアリが住んでいる、みたいな感じです。実際、うちの庭木にも巣を作るべく集結したことがありました。

二ホンミツバチ1

 この状態で巣を作られてもハチミツ回収が困難なので、回収しやすい巣箱に入ってもらうことがスタートになります。巣箱は自作でもよいですが、面倒でしたらネットで購入できます。

 ミツバチの気を引くために、時期になるとキンリョウヘンという蜂を誘引する蘭を置きます。

二ホンミツバチ2

 そのまま置くと受粉してすぐにダメになるので、ネットで囲って巣箱の入り口近くに置きます。

二ホンミツバチ3

 キンリョウヘンはシンビジウムを育てられる方なら簡単に増やせますが、植物栽培は苦手という方もいます。そんな方向けにキンリョウヘンのミツバチ誘引物質を抽出したグッズも販売されています。

 桜の開花から1ヶ月くらいが、巣箱にお誘いする期間です。それから半年もしないうちに、巣は箱の中でどんどん下に伸びて、一番上の巣箱のハチミツはミツバチが利用しない状態になります。さぁ、採蜜です!念のため防護服を着て作業開始。


二ホンミツバチ4

 たっぷりハチミツが入った巣を採って、テキトーに割ってザルに入れます。ハチミツが勝手に滴ってくれます。

二ホンミツバチ5

 セイヨウミツバチは本当に「家畜」で、人が特定の花から花へ巣箱を持って移動します。ニホンミツバチは野生種なので、その地域の季節の旬の花から、自ら蜜を集めます。なので百花蜜になり、色も味も毎回異なります。うちでは大体、1年に10kgくらいのハチミツを頂いています。
 
 ハチミツを採った後の巣は、ちょっと手を加えるとミツロウになります。サイトにもよりますが、100g1000円くらいで売られているようです。ミツロウ数グラムとオイルで手作りクリームを作れるので、自然派の知人に差し上げると喜ばれます。
 が、1年で100gも採れるので、最初に採った巣は湯煎にしてミツロウにしましたが、以後は全然減らないので、巣のままコンポスターに入れて堆肥にしています。息子からはメルカリとかで売ればいいのにと言われます。下中央にあるのが、そのミツロウです(上はハチミツ)。

二ホンミツバチ6

 ハチミツは砂糖の3倍相当の甘さがあるというネット情報に従い、ウチでは砂糖は使わず、自家製ハチミツで全ての糖分を賄っています。
 私は現役教員で、それほどヒマではありません。かつ自宅はつくば市の中心地にあります。私が市街地でできていることは、ちょっとしたコツをつかめば人口希薄な農地がない市街地でこそ、ネオニコチノイド系殺虫剤が少ないハチミツを自給できる好適地になると思います。

 そういった観点から下記YouTubeで報道されたように、異常なほどこの国で使われているネオニコチノイド系殺虫剤によるヒトへの被害を減らせればと思っています。

https://www.youtube.com/watch?v=0J1T-MO3t5U


Y.M.さん、ご寄稿ありがとうございました。
(ブログチームより)
※ネオニコチノイド系殺虫剤については、下記のサイトでもわかりやすく説明されています。ご参考まで。
https://www.pref.saitama.lg.jp/cess/cess-kokosiri/cess-koko23.html


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オペラへのいざない

私の愉しみCM(2)

今回は、会員の「アビガイッレ」さんがオペラについて投稿してくださいました。

 4月21日の金曜日に、新国立劇場のジュゼッペ・ヴェルディ(G.Verdi)のオペラ《アイーダ》に行ってきました。オペラに詳しくない方でも、凱旋の場の行進曲は、サッカーの応援歌として聞いたことがある方も多いのではないかと思います。新国立劇場の《アイーダ》は、フランコ・ゼフィレッリの演出です。ゼフィレッリは、もう亡くなっていますが、イタリアの演出家、映画監督です。ある年代以上の方々には、オリヴィア・ハッセ―がジュリエットを演じた映画《ロミオとジュリエット》の監督としておなじみなのではと思います。
 この《アイーダ》は、新国立劇場の杮落しのために、ゼフィレッリに演出、舞台装置そして衣装を依頼したものです。オペラは、最近は、時代や設定を置き換えたりする演出が少なくありませんが、この《アイーダ》は、台本に忠実に、ファラオが生きていたエジプトを舞台にしています。彼の作ったオペラの舞台は、《アイーダ》のポスターにある舞台写真をご覧いただければわかると思いますが、豪華絢爛の一言に尽きます。そして、新国立劇場の舞台の底が抜けないかと思うくらい、非常にたくさんの人たちが舞台に登場します。なんと、本物の馬も登場します。なんでも、舞台上の神殿の柱1本が1億円くらいと、財政事情の厳しい今日からすると、製作費は想像を絶する金額だそうです。この舞台を見ていて、日本も、かつては、豊かだったんだなと思ったりしてしまいました。
20230428opera poster

 さて、オペラといえば、我々の同窓生の中に、オペラ・カンパニーの指揮者兼主宰者がいることを皆さんはご存知ですか。名前を山島達夫さんといいます。
 山島さん、本業は、なんと現役バリバリの弁護士です。2002年、教養学部卒業、2004年、法学政治学研究科修了でいらっしゃいます。彼は、《アイーダ》を作曲したイタリアの偉大なオペラ作曲家であるジュゼッペ・ヴェルディ(G.Verdi)の作品上演に特化したアーリドラーテ歌劇団の指揮者兼主宰者です。アーリドラーテ(ali dorate)は「黄金の翼」の意味のイタリア語で、同じく、ヴェルディ作曲のオペラ《ナブッコ》にある有名な合唱曲「行け わが想い 黄金の翼に乗って」に由来します。
 同歌劇団は、今までに、この《ナブッコ》や《椿姫》をはじめとして、ほぼ、一年一作のペースで、8回、ヴェルディのオペラを上演してきました。今年は、9月に《ルイザ・ミラー》を上演します。あまり知られていない演目だと思いますが、聞きごたえのあるアリアもたくさんでてきます。もし、ご興味がある方は、ぜひ、足を運んでいただけたらと思います。詳細は、アーリドラーテ歌劇団のHPをご覧ください。

新国立劇場 オペラ《アイーダ》
アーリドラーテ歌劇団

「アビガイッレ」さん、ご投稿ありがとうございました。(ブログチームより)


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猿島とアサギマダラ

神奈川県CM(0)

猿島遠景
猿島は東京湾内唯一の人工ではない自然島で、横須賀からわずか10分の舩旅で着くことができます。広さは横浜スタジアム4つ分。
ペリーが黒船でやってきたとき、自らの名前を冠してペリーアイランドと命名したほど東京湾の重要な喉元のため、長年、日本軍が要塞としており、誰でも入れるようになったのは戦後です。
猿島1
軍の施設であった宿舎や弾薬庫(外から隠すために島の中央部に露天掘りで切り通しの道が作られ、その両側の岸壁を掘って作られている)、トンネルなどがそのままの姿で残っています。
猿島2
弾薬庫の正面のフランス積レンガ

しかも明治初期に作られたため、これらの施設の多くのレンガの積み方が、その後普通となったイギリス積(長いレンガばかりの段と短いレンガばかりの段を繰り返す)ではなく、おしゃれなフランス積(どの段も長いレンガと短いレンガを順に並べる)で、これは猿島を含めて日本には4例しか残っていないそうです。

タブの原生林に囲まれた島内はシダなどが多く、要塞施設と相まって幻想的な雰囲気を醸し出しています。一番下でご紹介する各サイトで素敵な写真をご覧になってください。
猿島3
ここでは、サイトなどにあまり掲載されていない島内の動植物を少しご紹介します。
私が訪れたのは4月中旬ですが、ウグイスがとても大きな美しい声でず~っと鳴き続けてくれました。
そして、アサギマダラという蝶の繁殖地で、この日も3回、目にすることができました。この蝶を見るために猿島に来る人もいるそうです。アサギマダラは生態が未解明なところも多い蝶ですが、羽化後4~5か月も生きると言われ、その間に海を渡ったりし、和歌山から香港まで2,500㎞もの旅が確認されたこともあります。
幼虫は鬼女蘭(キジョラン)という毒のある葉を食べることにより鳥などに捕食されにくくなるのですが、猿島にはそのキジョランがたくさん生えています。
猿島4
キジョランをバックにアサギマダラの説明

なお、猿島ではガイドツアーが30分のものからありますが、時間が許せば、横須賀市が養成したボランティアガイドの皆さんが行なっている1時間半のものがお薦めです。鍵のかけられている宿舎や弾薬庫内にも入りますし、とても丁寧で楽しく1時間半が短く感じるツアーでした。

また、同じ横須賀には45分で港を巡る船のツアーがあり、海上自衛隊と米軍の多くの船が間近で見られます。私が猿島から戻って乗船した日は、南極観測船しらせ(海上自衛隊が管理)、日本の潜水艦、アメリカの空母ロナルドレーガン(乗員約6千人!)も停泊していました。
しらせ
南極観測船しらせ
ロナルドレーガン
空母ロナルドレーガン

横須賀市観光情報
猿島公式HP
猿島専門ガイド協会

<担当:NAO>

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大山崎山荘美術館見学会に寄せて

イベントだよりCM(0)

さつき会のイベント「アサヒビール大山崎山荘美術館見学会」に参加された会員の「ようちゃん」さんが、当日の模様を報告してくださいました。

 4月4日、初夏のように暖かく、晴れ上がった青空のもと、総勢12名で京都の南、大山崎町の大山崎山荘美術館を見学しました。これは関西の資産家だった加賀正太郎さんが建てたもので、今はアサヒビールが所有しています。
 傾斜のきつい山腹に急勾配の屋根を持つヨーロッパ風の木造の山荘ですが、ドイツ風の木造建築に特徴的な斜めのはすかいが見えず、フランス窓もない、さてどこの国風なのかと思いましたら、講師の岩田恵さんのご説明で、この山荘を建てられた加賀さんが、イギリス留学の折に見られたイギリスの炭鉱夫の家がモチーフと聞き納得。この山荘は1911年に土地を購入、はじめ玄関ホールの木造建築の部分ができ、1932年まで長年かかって、地下一階、地上3階の建物が完成したのだそうです。チューダー様式を取り入れたものだそうですが、処々にご自分の好みでいろいろな様式、装飾を取り入れた独特のスタイルになっています。温室には蘭が一万株も栽培されていたのでも有名なのだそうです。
 Ooyamazaki No1

 二階のテラスに上りますと、素晴らしい景観が開けていました。ここは、桂川、宇治川、木津川の合流点に位置しますが、それがイギリスのウィンザー城からテムズ川を臨む景色に似ているからと加賀さんが選んだのだそうです。京都駅から電車で四駅のところとは思えない緑豊かな景色が広がり、遠くの川岸には素晴らしい桜並木も臨め、心も晴れ晴れするような自然が広がっており、皆しばし見入って解放感に浸りました。
 まずは、テラスで素敵なカップでコーヒーや紅茶を頂きながら、簡単な自己紹介。講師の岩田さんは平成3年工学部建築学科を御卒業後、安藤忠雄設計事務所に入られ、安藤さんが大山崎山荘の改築を引き受けられた時以来、改築プロジェクトにかかわってこられたのだそうです。おかげで、現場でのご経験にまつわる興味深いお話をたっぷり伺えました。例えば、どの部屋にも梁材、垂木、柱などに幅50-60センチはあろうかという程の材が使われていますが、なんと、じつは、構造材は鉄筋コンクリ―トで、化粧材で覆われているというのには皆びっくり。とはいえ、化粧材といえども見事なもので、木材がふんだんに使われていて、山荘に重厚な外観を与えていました。
Ooyamazaki No3
Ooyamazaki No5

 内装も凝っていて、元は居間で今は美術品の展示室になっている部屋の暖炉にさりげなくはめ込まれているレリーフは、なんと後漢時代の墓石で、両側の壁に貼り付けてあるのはそのレプリカとか。それに続くサンルーム(応接間)は、柱が流紋岩質溶結凝灰岩(竜山石)で、一見大理石のような肌色の濃淡が美しいもの、豪華なシャンデリアがいくつも下がって、舞踏会の様子が思い浮かぶような素敵な空間でした。一階はお客様用で洋風の作り、洋館の裏手に居住用の和館があったのだそうです。
 二階への階段の手すりは緩いカーブを描いた、木製の凝った作りで、映画によく出てくる明治村の家の手すりを思わせます。あちこちに見られる濃淡の色付けされた色ガラスや、ステンドグラス等はヨーロッパから取り寄せたものとか。「山荘」と言っても当時の加賀氏の好みで工夫をこらし、贅を尽くしてあるのです。しかも、それらがむき出しの梁や板の見える天井などとしっくり調和して、これ見よがしの豪華さでない建物の風格を感じさせていました。
 一階では丁度、黒田辰秋展が催されていました。黒田辰秋は1904年生まれで、柳宗悦らと民芸運動の活動をし、無形文化財になった木漆工芸作家ですが、大山崎山荘が所蔵する彼の作品の中から、家具什器の名品の数々が展示されていました。代表作の欅材のテーブルセット(1928年作)など華美ではないのに漆の輝きと細部まで行き届いた仕上げが美しく、日本の、工芸の粋といえるものでした。面白いのはそれらの家具の座面が低いこと。小柄だった当時の日本人の体格に合わせた家具だったのかと思われたのでした。

 本館から地下へ延びる長い階段が円形の展示室(「地中の宝石箱」)へ導いてくれます。安藤さんの設計らしい打ちっぱなしのコンクリートの階段室は明るい灰白色で、高い位置に配された大きなガラス窓からは明るい陽光が降り注ぎ、そんなに幅が広くないのに、まったく圧迫感がないのに驚きました。展示室では大きなモネのスイレンの絵などを間近に鑑賞できました。
 Ooyamazaki No4

 自然の美しさに囲まれた庭には、人工の滝が配され、池では飛び石の間を悠然と錦鯉が泳いでいます。池の周りは広い遊歩道になっていて、周辺にはこの山荘の茶室などの建物以外見えず、音も聞こえない別天地でした。自然の地形を生かした高低差のある庭園はまだ桜の季節、花吹雪の舞う中で、楓も、葉の下に赤い細い花柄がたくさんぶら下がって、小さな可愛い花がびっしりと咲いています。なんと、その花の周りには大きな黒い蜂が多数飛び回っていました。楓の蜜は甘いからかと見とれました。
Ooyamazaki No6
 
 山荘見学後立ち寄った離宮八幡宮は、平安時代の初め清和天皇の命によって清水が湧くこの地に建立された神社。ここは神官が荏胡麻の油の製造を始め「油祖」の名と、荏胡麻油の独占販売権を下賜されたので、栄華を極め、壮大な社殿を構えていたそうです。ところが、信長が油座を廃止し、菜種油の大量生産が始まったために廃れ、さらに幕末に広大な神領を焼失したうえ、明治になると鉄道が通るために召し上げられて小さな神社になってしまったそうです。清和天皇ゆかりの神社の有為転変に、大山崎の歴史の長さを実感させられたのでした。

 Ooyamazaki No2
 そこからこじんまりとしたイタリアンレストランに向かい、ほとんど貸し切りの状態で、歓談しながらお昼を頂きました。パスタと白身魚のソテーはなかなかのお味で、デザート、お茶付。その間、思い思いに歓談しました。東京など遠方から参加された方や、仕事を休んで来た方もいらして、いろいろな体験談が飛び交いましたが、ことに近くの方とは女子学生の就職問題について話が弾みました。80年代卒の方が、卒業前に男子学生にはパンフレットが山と送られてくるのに、女子学生には一冊もこなかったとおっしゃるのを聞き、60年代卒の私達の時代と変わらないではないかと、愕然としたのでした。その方はそれにもめげず、国連関係や世界銀行に就職し、世界に羽ばたいて活躍していらっしゃるのだそうです。こういう方々が、女性の未来への道を拓いていって下さるのだろうと希望が湧いてきたのでした。
 また、間もなく88歳になるという方が、5時起きで東京から参加され、日帰りされると知り、そのお元気さにはびっくりしました。そればかりか、いつも半歩前を見て歩いてこられた姿勢が魅力的でした。ご主人の転勤で地方住まいしていらした時のこと、新しい仕事探しの面談で日帰り上京、ご本人曰く、「戦利品宜しく課題を頂いてイソイソ自宅に帰りついた途端」、東京の家族からの電話でお身内が危篤の報を受けられたとのこと。そこで、「一発奮起、徹夜でメチャクチャ粗っぽいヤッツケ仕事で下書き原稿を作って推敲もしないまま」、郵便局(本局)からファックス送信(家庭ファックス・インフラのない時代)、その足で今度は弔いのため上京されたそうです。思いがけず、それが次の仕事につながったと伺い、諦めたくなるような状況でも投げ出さず挑戦なさる姿勢に一驚。これは、「常日頃、眩く見ていたさつき会の皆さまの後ろ姿が背中を押す力となったのだ」とのことでした。 
 さらに、「高齢者は片手から両手になったところで脱落する」といって渋る先生に頼み込むようにして初歩の初歩からピアノを習い始められたところ、やがて先生の方が、それまで諦めていらした声楽のレッスンを再開されて、何と84歳の今もミニコンサートをなさっているという話も聞きました。高齢になってもこの先輩の気概は人に伝わり、連鎖反応が起きることがあると思いました。昨年末に79歳になった私は、この先輩にお会いして、まだまだこれから!と励まされたのでした。

 好天に恵まれ、同窓の誼で、大山崎山荘の改築事業に携わられた岩田さんの貴重な体験談も交えた専門的なお話は興味深く、とても密度の高い見学ができました。そして、昼食会では先輩後輩ならではの遠慮ないお話が弾んで、パワフルに生きておいでの方々のお話しには元気を頂き、楽しい一日を過ごせました。コロナ禍が始まって以来の「蟄居」の日々を抜け出して、やっと、こんな日が来たという喜びも手伝って、心も軽く帰途についたのでした。
 講師の岩田恵さん、そして、この見学会を企画して、お世話下さった「ゆっちょむ」さん、本当に有難うございました。

アサヒビール大山崎山荘美術館
岩田恵さんご紹介
離宮八幡宮
レストランタガミ

「ようちゃん」さん、ご報告いただき有難うございました。
(ブログチームより)


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ステビアを育てる

ガーデニングCM(0)

さつき会ブログチームのメンバーでもある会員のアレクサンドリアさんから、これからがシーズンのステビアについて投稿をいただきました。

ステビアをご存知でしょうか。市販の飴や飲料水、練り物、お漬物などの成分表に記載がみられる植物由来の甘味料です。
私はここ数年ほどステビアを育て、その抽出液を楽しんでいます。ステビアは庭先でもベランダのプランターでも簡単に育ち、害虫がつきにくい印象として丈夫な植物です。
IOTステビア花横

ステビアとは
南米パラグアイに自生するキク科の多年草の俗名で、学名はステビア・レバウデイアナ。丈は50センチから100センチほどで、夏に白い小花を咲かせます。
チチカカ湖畔にプレ・インカ文明の都ティワナを築いたパラグアイの先住民族、グァラニ族の人たちは、ステビアを「聖なる草」として崇め、と同時に甘味草や薬草として大切にしていました。16世紀に入植したスペイン人はそれを知り、広く伝播したそうです。
私は知りませんでしたが、日本ではだいぶ以前にダイエット食品として人気を呼んだようです。
ステビアの甘味成分はステビオサイドやレバウシサイドAという物質で、ステビオサイドの化学式はⅭ38H6O18。砂糖の250倍から300倍の甘さがあり、逆にカロリーは砂糖の90分の1、ほとんどノンカロリーですね。
IOTステビア草縦
IOTステビア花縦


ステビアを楽しむ
① ハーブティーとして
葉を乾燥させて使用する場合と、生葉として使用する場合があります。
IOTステビア葉

② 抽出液として
作り方
葉を20枚から30枚くらい摘み、水200ccの中に一晩浸し、翌日お鍋に入れて煮つめ、茶こしで濾し、保存します。
IOTステビア小瓶

利用方法
ヨーグルトなどにかけていただくこともありますし、煮物を作るときに味りんなどの代わりに使います。熱を加える料理に入れた方が青臭いような匂いがほぼ消え、味りんなどより照りが出て良いと思います。
IOTヨーグルトと
ステビア抽出液をヨーグルトにかけましたが、ほのかな緑色のため写真には反映されにくくなっています。ご了承ください。

育てやすく個人的にはおススメのハーブです。
アレクサンドリア

参考文献
「ステビアパワー革命」   佐藤直彦、宮崎隆典著  ダイアモンド社
「日本食糧革命」 竹内昌昭、佐藤直彦著  プレジデント社

アレクサンドリアさん、投稿有難うございました。
(ブログチームより)

刺繍画の世界に魅せられて

私のおススメCM(1)

さつき会会員のA. K. さんから、「刺繡画の世界に魅せられて」の投稿をいただきました。

 2007年、岡田美佳さんの刺繍画に初めて出会ったとき、布と糸で表現される自然の風景の中に水の音、流れる雲、そよぐ風を感じ、食卓の風景の中の美味しそうなご馳走と温かなしつらえに驚き、しばらく立ち尽くしていました。言葉によるコミュニケーションが難しい美佳さんは、その豊かな情感や溢れる思いを布と糸による圧倒的な表現で生み出しているのでしょうか。

AO-光る海2
光る海

AO-ハーブの庭3
ハーブの庭

 翌年さいたま市で作品展を開催し、そこに足を運んでくれた学生時代の友人の美術史家を中心に、岡田美佳後援会を発足させ、ボランティアで作品の整理・紹介、展覧会開催、絵葉書販売などを始めました。さつき会員のY. S. さんも強力な応援団で、美佳さんの作品をメディア等で紹介してくれます。画集「岡田美佳 刺繍画の世界 スケッチ日和」を富山房インターナショナルから出版できることになったとき、適切な英訳に協力してくださったのはさつき会員のM. O. さん。毎回のように作品展に足を運んでくださる友人も増えました。
 美佳さんの作品は、絵葉書や写真もいいけれど、本物の作品に対面すると作品の持つエネルギーが見る人に伝わり、作品の世界が生き生きと迫ってくる感じがします。作品を見るたびに元気をもらっているのです。


 このたび、『暮しの手帖』23号(2023年3月発行)で岡田美佳さんの刺繍画を紹介する記事が掲載され、5月には展覧会を開催することになりましたので、ご案内させていただきます。

1997年、雑誌『暮しの手帖』が、岡田美佳とその刺繍画を紹介する記事を掲載。誌面を作ったのは、NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」のモデルとなった『暮しの手帖』創業者大橋姉妹でした。この出会いが、美佳さんの作家活動の出発点となりました。
そして25年後、新刊『暮しの手帖』23号で、作家のその後の歩みが特集されています。大橋姉妹が魅かれた作品が、現代の人々にも、新たな感動を引き起こしています。
本展では、『暮しの手帖』掲載作品を中心に60点余りの秀作を出品し、4半世紀に及ぶ時を超えた独自の刺繍画の世界をご紹介いたします。
それは、女性の暮しの中から生まれた刺繍が、アートとして認められるまでの長い道のりをたどることでもあります。
どうぞご高覧ください。

『暮しの手帖』 特集記事掲載記念
心、解き放たれて 岡田美佳の刺繍画展


会期: 2023年5月14日[日]~5月20日[土]
時間: 11時から16時まで      
   初日 14日(日) 12時〜18時
       15日(月) 11時〜18時    
会場: 東京交通会館2Fギャラリー  


AO-ラベンダー5
ラベンダー

AO-ねこのティーコーゼー 4
ねこのティーコーゼー

AO-川の流れ6
川の流れ


AO-海辺の街
海辺の街

岡田美佳プロフィール

         
A. K. さん、投稿有難うございました。
(ブログチームより)



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