さつき会ブログ

さつき会イベント委員の有志が会員の皆さんと一緒に様々な情報をお伝えしていきます。           (※ブログ内の関連情報は、興味をお持ちの方にさらに深く知って頂くためのものです。さつき会として販売促進するものではありませんのでご了解ください。)

犬をつれた奥さん

エッセイCM(0)

さつき会会員の松村幸子さん(1958年医・衛生看護)からお寄せいただいた作品をご紹介します。


   ぺんぺん草

ペンペン草や猫じゃらしが生い茂っている道端で草を食んでいる雑種犬がいた。夕方の買い物に出かける途中だった亮子は思わず
「ポンタ君?」
と声をかけた。先日新聞配達をしていた時見かけて名前を教えてもらった犬に似ていたので自分の記憶力を確かめたかった。
「いえ、サブです」
飼い主らしい奥さんが答えた。
「あ、ごめんなさい。私、目が悪くなって見分けがつかなくなってしまって」
と言いながら亮子はしゃがみこんで犬の耳の付け根のあたりをゆっくり撫でた。亮子の仕草を見ていた奥さんが小さな声でアッと言いながら亮子に聞いた。
「村野さんではありませんか」
「はいそうですが」
答えながら飼い主の奥さんを見上げた。白のスラックスに濃紺のシャツの襟元には赤のスカーフが覗いていた。
「一郎君はお元気ですか、例子ちゃんも、絵美ちゃんも」
亮子は一瞬焦った。この人は誰だろう?全く分からない。それなのにこの奥さんはうちの子供たちの名前まで知っている。どなたさまで?と聞く訳にはいかない。どのあたりに住んでいるかが分かれば家に帰って町会の名簿を見れば分かるかもしれないとかすかな期待をこめて、亮子は言った。
「お住まいはどちらでしょうか。私はT町会ですが」
奥さんはここから自分の家までの道のりを丁寧に教えてくれたが亮子は帰宅後地図の上で奥さん宅を探し出す自信がなかった。やはり苗字だけでも聞いておかねばと恥を忍んで聞いた。
「私、最近記憶力が駄目になってしまいまして、お名前が思い出せないのです。失礼ですが、お名前を教えて頂けないでしょうか」
「中村文子です。M駅降りてすぐの所に以前レストランがあったのを覚えていらっしゃいますか。今は時計店になってしまっているけれどあそこはうちのレストランだったのです。」
亮子は記憶を辿った。確かに明るくて美しい姉妹が経営しているレストランがあった。まだフアミレス等がない頃、子供の卒業式や入学式の時、家族で食事に行ったことのあるレストランで洋風のスープが美味しかった。
「はい、覚えています。スープが美味しくてすてきなご姉妹が働いていらっしゃいました。あの時の店主さん?」
「いえ、私は妹の文子です。村野さんに頼まれてレストランで働いてもらった人いましたよね」
咄嗟に言われて思い出せなかった亮子は戸惑いながら言った。
「いろいろお世話になりました。すっかりご無沙汰してしまいまして、もうあれから何年くらい経つのでしょうか」
草をまさぐり終えた犬のサブが帰りたそうにリードを引っ張るのに気づいて、またお会いしましょうと亮子は文子と別れた。

   IMG_1767.png

 買い物を済ませて家に着くと亮子は早速町会の名簿と地図を取り出し文子の家を探したがすぐには見つからなかった。番地が並んでいないので家探しが困難な地域だった。名字で索引してやっと探し当てた。亮子の家から五分もかからないで歩いて行ける近さだったが今まで一度も出逢ったことがなかったことが不思議だった。
遅くなってしまった夕食の支度に台所に入ると夫と次女がいたので早速聞いた。
「犬をつれた感じのよい奥さんが家の子三人の名前をみんな知っていたのよ。どうしてなの?」
酵素作りに余念がなかった次女の絵美が答えた。
「駅前のそのレストランであたし達アルバイトしていたの」
「エッいつ?」
「あたしは中学に入ってすぐかな。れー姉は高校時代、兄ちゃんは中学の時だよ」
「エッ知らなかった。今の今まで知らなかった初めて聞くことだわ。なんで親にも黙ってアルバイトなんかしたの」
問いただすと絵美は夏みかんの乱切りと砂糖をかき混ぜる手を休めて言った。
「相談したくてもお母さんはいつも家にいなかったじゃない。朝早くから夜遅くまでお母さんは仕事に夢中だった。あたし達より仕事が大事だったのよ」
「そんなことないわよ。あなたたちのこと何よりも大切に思っていたわ。だけど帰れない事情がお母さんにもあったのよ。聞いてくれる」
今更その時の事を説明してみたところで始まらない、とは思った。時は過ぎ去り何もかも過去のことになった今、何を言っても空しく響くだけかもしれない。しかし、仕事優先の為に子供たちをないがしろにしたと言われてはあまりにも悲しい。色褪せ凋んでいった四十五年も前のことを亮子は手繰り寄せようとして言った。
「私が保健所から精神障害者のリハビリテーション施設に転勤になったのは知っているよね。絵美が生まれる二年前だから昭和四十六年かな。保健所では昼間の勤務が主だったけれど、そこは二十四時間患者さんが生活する場所だったから勤務も三交代制で昼間八時間、夕方四時半から真夜中の十二時迄八時間、十二時から朝まで八時間働くという勤務をしていたのよ。私は係長に任命され入所者だけでなく係全体を見ていかなければならなかったの。毎日やることが山のようにあって、仕事が終わることはなかったから帰りたくても帰れなかったの。いつも考えたことはどうしたら一日も早く患者さんたちが社会復帰できるかということ、社会復帰に向けて病棟は何を大事にしていくかをみんなで討論して決めていたの。看護職だけではなく、社会福祉職、作業療法士、臨床心理職に精神科医など多くの職種がデイケア部門、就労援助部門を作って働いていたから意見の違いがあって喧嘩になって泣くことも沢山あった。国が予算化した新しい社会復帰施設だったから見学者も次次に来て経験してみないとわからない位の忙しさだった時、事故があって」
「もういいよ。そんなのみんな言い訳じゃない。聞きたくないよ」
絵美に遮られて亮子は二の句が継げなくなった。精神障碍者も人として認められ社会復帰の可能な社会を作ることを目指して馬車馬のように働いた日々、その結果手にしたのは、母親のような生き方はしたくないという絵美たちの反旗だった。
気を取り直して亮子は夫に聞いた。
「お父さんは子供たちがアルバイトするのを許したの」
「いや知らなかった。今始めて聞いてびっくりしている」
「お父さんにも相談しなかったの」
矛先がまた自分に返ってきそうなことを察知した絵美は、夏みかんの匂う琺瑯の器を抱えて自分の部屋に退散してしまった。
いづれにしてもレストランの文子たちにお世話になって絵美たちは育ったのだ。遅ればせになってしまったけれどお礼とお詫びに行かなければならないと亮子は夫と話し合った。


*続きをお読みになるには、下の「続きを読む>>」をクリックしてください。


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------


菫色の夕暮れ

エッセイCM(2)

今月もさつき会会員の松村幸子さん(1958医・衛生看護)の作品をご紹介します。お寄せ頂いた作品の中から、今月の担当Mikkieが特に選ばせて頂いたものです。

すみれ色の空-5

栗山丸子が木村さん宅を訪問しようと思いましたのは昨夜の会議の結果を受けてのことでした。このところ体調が勝れず、小説を読んでも頭に入らないまま、月に一度の町会主催の「一人暮らし見守り会議」の日が来て出席したのです。会議は老人いこいの家で6時から始まりました。夕方6時、主婦は一番忙しいのよね、こんな時間に会議は困るわ、と言いながらも委員は10人全員出席でした。男女5人ずつ、高齢者ばかりです。丸子が80歳で最高齢、後任を決めてほしいと議題にあげていました。代表のコロは10人の顔ぶれを見まわしながら、丸子に目を留め細い眼を更に細くして言いました。
「丸子さんと同じ班の木村さんですが、同居のお母さんが昨年百歳で亡くなられて、介護していた娘さんが現在一人暮らしのようです。年齢は60代後半でしょうか。丸子さんの後任としてゆっくりサロンの運営にも関わって貰えないかも含めて当たってみて頂けますか。後任が見つかるまで、丸子さんは辞めないで続けて下さい」
自分で後任を決めないと開放されないとは厳しい話だと内心反発しながらも丸子は言いました。
「一寸厳しいですが、やってみます。1人で行くのは不安なのでどなたか一緒に行って頂けますか」
私が行きましょうと誰も手をあげる人がいないまま、とりあえず丸子が様子を伺ってきてその結果でまた考えるということなりました。「ゆっくりサロン」の新年度案内に訪問予定者の氏名を記入した用紙を受け取り散会したのは7時過ぎでした。

「一人暮らしを見守る会」は83歳の独り暮らしの女性が孤独死したことをきっかけにこんな悲しいことがあってはいけない、明日はわが身に起きることではないかと発足し、女性委員の数を増やした方がよいという時に、丸子は町会長より依頼されて引き受けました。瞬く間に五年が経過し、「ゆっくりサロン」発足にも関わることが出来ました。サロンの日には弁当持参で参加し会の企画運営に携わって3年が経過していました。委員を引受けてよかったと思う反面、80代になったら辞めようと考えていました。「60歳を過ぎたら要職から離れるべきだ」という養老猛司の説に従おう。もっと若い人にバトンタッチして若い感性で会を運営してほしいという思いでした。
弥生3月の夕方、気だるい身体を無理やり起こして、町会関係の書類箱から木村様と宛名の入ったチラシを取り出し、それを持って家を出ました。曇り空からは今にも雨が降ってきそうな気配です。見通しのよい路地には人影も人声もありません。茶色のブチ猫が音もなく出てきて通路の真中で立ち止まり丸子を見上げているだけの寂しさです。嘗てこの路地では子供達が缶けりをして賑やかな声が響いていたのに子供たちは塾や部活で忙しいのでしょうか。1人で家の中に居てスマホに夢中になっているのでしょうか。声も姿もありません。
木村さん宅は四季折々にクリーム色の蔓バラが咲き乱れるので通りすがりに立ち止まって匂いを嗅がせてもらった家でした。どんな人が住んでいるのだろうと想像したこともありました。低い門扉の取手を回して玄関に通じる石畳を歩くのは初めてのことで不安を覚えました。沈丁花の匂いに背中を押され玄関のインターホンを押しました。少しの間をおいてはいという女声が聞こえました。鍵が外され扉が外側に開きました。白髪で丸顔、中肉中背の女性が鈍色の服を着て立っていました。丸子は毛糸の帽子を脱いで自己紹介をしながら用件を伝えました。

クリーム色のバラ (3)

「はじめまして。木村さんと同じブロックの私、栗山丸子です。今年度の『ゆっくりサロン』のお誘いのチラシが出来ましたので持って参りました。今月は次の日曜日です。ご都合は如何でしょうか」
チラシにちらりと目を走らせた木村さんはさっぱりした口調で言いました。
「私はまだいいです。大丈夫ですから」
木村さんはまだサロンを利用しなければならない程自分は年老いてはいないと主張したかったようでしたので続けて私は言いました。
「木村さんにはボランテイアとしてサロンの運営にも携わって頂けたら、と町会の推薦がありましてお伺いしたのです。私も実は80歳になりまして後任を同じ班の中で見つけなければならないのです」
木村さんはその問いには答えずに丸子の顔を見ながら何かを思い出すような様子で問いかけてきました。
「栗山さんのおうちは公園の前の共産党のポスターが貼ってあるお家ですか。お母さんがいませんでしたか」
とうの昔に96歳で死んだ母を覚えてくれている人に出会えた感動を丸子は抑えきれずに言いました。
「はい、そうです。母にいつ頃どこで会ったのですか」
「いいえ、私ではなく、百歳で昨年亡くなった私の母が、可哀想なおばあちゃんがいるのよと話していたのが栗山さんのお母さんだったのではとふと思ったものですから。あなたが東大を出て大学教授になったという方ですか」
木村さんの問いが不意打ちでしたのでうろたえながら私は言いました。
「そんなこと誰から聞いたのですか。母がそう言ったのですか。過ぎ去った昔の肩書は歳とった今、何の意味もありません」
それには答えずに木村さんはまた聞いてきました。
「弟さん、いらっしゃいますか」
「ええ、3人いましたが1人は食道ガンで死にました。」
「弟さんがいたとすると私の母の話はやっぱり栗山さんのお母さんのことだと今はっきりわかりました。『娘が遠くに行くことになって私はここにいられなくなった。息子の所へ行けと言われているけれど、本当はここから離れたくない。娘と一緒にここに居たい』と涙ながらに訴えたらしいですよ。母も同情したのだと思います。可哀想なお祖母ちゃんがいると私に話してくれましたから」
木村さんの話に丸子は衝撃を受けました。母は一言もそんなことを私には言いませんでしたから。定年後の就職先が決まったことを告げた時、一言私も一緒に連れていっておくれよ、と言ったことは覚えています。丸子は教師になりたかったのです。その機会が定年後にやっと巡って来たのですから、それをやめて母とずっと一緒に住むことにしようなどとは露ほども考えていませんでしたから、一言のもとに答えました。
「だめよ。私の行く浜松には誰もお母さんの知合いはいないでしょ。私も初めての仕事だからきっと朝早くから夜遅くまで家には帰れないと思うの。たった1人で誰も知らない土地で誰とも口をきかずに一日過ごしたら呆けがますます進んじゃうよ。だめだめ」
その時の母の悲しそうな顔が浮かび、どっと涙が溢れそうになるのを堪えました。
丸子は60歳定年退職直後に地方の大学に単身赴任したのですから、多分その前後に木村さんのお母さんに出会い、胸の内を話さずにはいられなかったのでしょう。その時木村さんのお母さんは実の娘にも言えない別れの悲しみをじっと聞いて下さったのです。どんなに有り難かったでしょうか。母は弟の所へも事情があって行くことが出来ないまま、遠い埼玉の老人介護施設に入所しその6年後に肺炎で亡くなりました。丸子の母はどんなにさびしい思いを抱えてこの地から離れて行ったことでしょうか。その時の母の年齢に近づいた今、母の心境に思いを馳せる時、申し訳なかったと謝りたい気持ちで一杯になりました。
木村さんに対しては母がお世話になっていた事すら知らずに、丸子は浜松に5年、新潟に4年の単身赴任を終えてこの地に戻ってきてからもそのことを何も知らずに何十年も過ごして来て、昨年木村和江さまの訃報を回覧で見た時も付き合いのない人としてお悔やみもしていませんでした。恥ずかしい思いと母への申し訳なさで涙をこらえながら失礼を詫び、早々に木村さん宅を辞しました。

数日後木村さんが丸子の家を訪ねて来ました。「栗山さんの後任は引き受け兼ねます」と先日の半年間の予定表を返却に見えたのです。返された予定表を受け取りながら、私は先日来考えていたことを口にしてみました。
「木村さん、お願いがあるのですが、いつかご都合のよい時に、お母様のご仏前にお線香をあげさせていただけませんか」
木村さんは即答しました。
「はい、いいですよ。母も喜ぶと思いますので私からもお願いします。ただ仏壇を掃除しなければならないので少し時間を下さい」
恐縮しながら丸子は言いました。
「我が家も掃除出来なくてめちゃくちゃですから気にしませんから、そのままでよいのですがすみません。何時頃伺ったらよいでしょうか」
木村さんは丸顔を綻ばせて言いました。
「2日後ということにしましょうか。時間は電話でやりとりしましょう。町会名簿に載っている電話番号は替えましたから、4×××にお願いします」
番号が覚えられなくて私は急いで言いました。
「あ、電話番号をもう一度、メモしておかないとすぐ忘れてしまうものですから」
80歳を超えてから頓に物忘れが酷くなったのを自覚していました。今聞いたことをメモしておかないと大変です。すぐに何だったか思い出せなくなってしまうのです。玄関のメモ用紙に電話番号を記入し、木村さまと名前も入れました。数字だけ書いておくとそれが何の数字だか分からなくなるのです。困ったものです。夜になって連絡を取り合い2日後の3時に伺うことになりました。(続く)

※続きをお読みになるには、下の「続きを読む >>」をクリックしてください。

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

二度童子

エッセイCM(2)

先月に引き続き、さつき会員の松村幸子さん(1958医・衛生看護)の作品をお届けします。
今月は、幼い頃から力強い助人(すけっと)であり、頼りになる存在、そして今はアルツハイマー型認知症を患うお姉さまへの思いを綴った作品を選んでいただきました。

                             
「おふくろが12月20日にKホームに入ります。昼前にHが丘の家を出発して昼食を食べてからホームに向かう予定です」
姉京子の長男太郎からのメールを受信した私はすぐに返信した。
「わかりました。当日は姉に同行しますのでよろしくお願いします」
その日、私は姉の処女詩集「教室の手帳」を本棚から取り出して読んだ。赤い表紙の詩集をめくると「運動靴の配給」という詩が目にとまった。
運動靴の配給

 姉は、「こんな教師にはならないぞ」という決意を胸に秘め、都下の小学校を歴任し、定年の時はHが丘第1小学校の校長だった。定年後も区立教育センターの教育指導員として更に8年働いた。2歳下の私はいつも姉の後ろについて歩き、お下がりの服を着て、姉の読む本を読み、困ったことがあるとなんでも姉に相談した。
 中学時代、何のために生きているのかわからなくなり、うつ状態に陥った時、チャップリンの「ライムライト」と「女一人大地を行く」という三池炭鉱の闘争を描いた山田五十鈴主演の映画に誘ってくれたのは姉だった。定収のない新劇俳優との結婚に踏み切れずに迷っていた時、背中を押してくれたのも姉だった。
 「家ではなんでも話すのに、外では一言も口をきかないので誰も友達がいない」という孫の男子中学生について知人から相談された時も、すぐに姉に電話をかけた。「それは場面緘黙症という病気かもしれない。関連した本を送るから読んで、相談機関を紹介してあげたらどうかしら」
 一事が万事、姉に相談することで絡まった糸が解れていくように物事がよい方向に動いていく体験をした。

 力強い助人であった姉がアルツハイマー型認知症になったという連絡を受けた時は晴天の霹靂だった。一体認知症とは何者で、いつ頃から始まったのだろうか。
 「私は小さい弟たちを兵児帯で負ぶって育てたので背が伸びなくて小さいの」
 150センチに満たない身長を嘆いて繰り返し話すようになったのは下から二番目の弟が59歳の時食道がんで亡くなった(2001年)頃からであったろうか。同じことを繰り返し話すようになるのが認知症の始まりということを聞いていたが、まさか自分たちの姉が認知症になるとは、誰も想像出来ないことだった。親戚で集まる時は、いつも進行役を務めてくれたし、私たちは姉に頼り切っていた。
 弟が亡くなった時を同じくして姉の夫和男が喉頭がんの手術を受け、一命をとりとめて退院した。年子で生まれた息子の太郎と次郎は伴侶を得て独立し、Hヶ丘の家は姉夫婦のみとなった。姉は退院後の夫のリハビリと介護に精を出していたようだ。
 私は1995年3月、K市役所を定年退職後、N県の私立大学に特任教授として単身赴任をしていた。姉の詩集の出版祝いを最寄りの温泉地で企画した2005年3月、癌から生還した和男と共に参加した姉は、口数が少なく、物静かであった。和男も不機嫌に黙り込み、姉が会の進行を務めた時のように宴は盛り上がらなかった。
 この時の写真を今回手にとって眺めた。姉は不安を押し殺したような表情で作り笑いをしている事に気付いた。当時全く気付かなかったのは迂闊であった。この頃から内部で誰にも分らないまま人格の崩壊が始まっていたのだろうか。

 2016年12月20日、街にはクリスマスソングが鳴り響き、年末の買い物客で賑わう中、太郎夫婦と待ち合わせ、一緒に食事をした。彼は手慣れたように「おふくろ何食べる」と問いかけながらオムレツを注文した。食欲は旺盛でほぼ全量摂取したが、姉はこれから50年住み慣れた家を離れホームに入ることを理解しているとは思えなかった。一人で子供のようにはしゃいでいた。
 私は姉から貰ったグレイのオーバーを着て、姉の詩集と認知症治療に有効と言われる回想法に使えそうな昔の写真をアルバムから抜いて数枚を用意していた。
「このオーバー、お姉ちゃんにもらったオーバーよ。とっても温かいわ。有難う」
と話しかけた。姉は“そうだったかしら”というような表情をして私を見た。私が妹ということを認識しているのかどうか覚束ない表情だった。私は姉と腕を組み、太郎のワゴン車の後部座席に並んで座り、青春時代に姉に教えてもらったゴンドラの歌をハミングした。「命短し、恋せよ乙女・・・」黒沢明の「生きる」という映画も姉と一緒に池袋の人生座で観た。しかし姉の記憶からは全く消えて
しまっていた。はっきりしない言葉をしゃべり続けるが、意味不明である。それは録音テープを異なる周波数で再生した時のようだった。歌を諦めて、両親と祖母と姉が雛壇をバックにした写真を見せた。着物にお被布の愛らしい女児が自分であることを認知出来なかった。関心も示さない。回想法は使えなかった。どこまで崩れてしまったのか。しっかりした姉はどこへ行ってしまったのか。指を絡ませて指相撲を試みた。姉の手は白く柔らかで幼児の手を思わせた。
 Kホームの玄関は総ガラス張りのホテルのような構えだった。姉にはグループホームのようなこじんまりした家庭的なところがよいと思って私は提案をしていたがやはりこういう大型の施設に決まってしまったのは残念だったが、太郎が介護保険担当のケアマネージャーと相談して決めたのだから尊重しなければ、と自分に言い聞かせた。天井が高い明るいフロアの応接セットに腰を下ろして太郎が母の入所手続きを終えるのを待っている私たちに担当の介護福祉担当者と看護師長が近づき名刺を姉にもきちんと渡して言った。
「今日からここを自分のおうちと思って過ごして下さいね。困ったことがあったら何でも遠慮なく言って下さい。私たちはKホームに入所して下さった方が気持ちよく安心して暮らせるように一生懸命お手伝いいたしますから」
白衣の胸元のポケットには花柄のハンカチが覗いていた。ひらがなの大きな字で書かれたネームプレートも手づくりのようだった。
優しそうな師長に出会えて安堵した。自己紹介後、居室に案内してくれた。迷路のような通路を通り別棟の2階一番奥の部屋に大きな字で「新井京子」の表札がかけてあった。姉は表札を指し「ああうう」と言った。自分の名前はわかるのだ。私は嬉しかった。居室のオリエンテーション後、体温、脈拍、血圧測定を済ませた師長は、「わからないことがありましたら、遠慮なさらないでこのブザーを押して呼んで下さいね」、と言って部屋を出ていった。
 ベッドに腰かけた姉と向きあわせの椅子に腰かけた私は姉の手をとりお互いの手をしみじみ眺めた。手の甲には青い血管が浮き出し曲がりくねって走るさまが二人ともそっくりだった。爪の形も似ていた。「あら同じね」と顔を見合わせて笑った。姉の手は皺だらけで柔らかだったが私の手は炊事、洗濯、掃除、庭仕事で荒れていた。「危ないから」という理由で和男は姉に家事一切をやらせなかった。姉はやりたがった。姉の家を訪ねた時、茶菓の準備をしようとする姉を叱り飛ばす義兄に、私は「やらせた方が姉の為になる」と言った。アルツハイマー型認知症の診断を受けたとしても、残された能力を引き出し、少しでも人の役に立つ体験をさせることが大切ではないかと話した。しかし義兄は頑固に「駄目だ」と突き放した。姉は悲しそうな顔をして言った。「この人、怒ってばかりいるの」
 私の家に連れて帰りたい衝動にかられたこともあった。義兄もそれを察したのか「人のうちのことに口をだすな。もう来なくていい」と私を遠ざけた。
 5月に義兄が先に亡くなり姉が一人残された。太郎家族が車で片道一時間のところに住んでいたが同居は学校と職場の関係で無理だった。ケァマネージャーと相談して月曜日から金曜日まで短期宿泊制度を利用した。金曜日夜に太郎が施設から連れて帰り、姉の家で三泊した後、月曜日朝、施設に送り届けるという生活を半年続けていた。太郎には大学受験を控えた娘と共働きの妻がいた。土日は全部京子の為に時間を費やし家庭サービスには手が回らなくなっていたようだ。
 私は義兄亡き後、姉を家にひきとり、一緒に暮らせないかと考えたが、86歳の夫が体調不良をきたしその介護があった。速足でどこまでも歩いていってしまう姉と共に暮らすのは80を過ぎた私には体力的に無理であった。もう少し若ければ!と願っても歳には勝てない。「お姉ちゃんごめんね」と謝るのみであった。
 Kホームの殺風景なこの部屋に姉一人を残して帰るのは忍びなかった。
 太郎の妻文美は姉の持ち物すべてに名前を記し、備え付けのタンスの引き出しに分類しながら収める作業をしていた。
「ブンちゃん、姉のこと、いろいろ有難う。大変だったでしょう」
と労わると彼女は肉付きの良い体をゆすって笑いながら言った。
「お義母さん、いっぱい生徒さんから来た手紙、みんな大事にしているから、どうしていいかわからないで困っています。捨てられないしそれが一番大変。ベッドの下はお義母さんの詩集で一杯、これもどうしたらいいかわからない」
北京出身の彼女は日本語が覚束ないところはあるが、コミュニケーションには事欠かない。話していると憂鬱な時も気が晴れてくる雰囲気を持っていた。
「姉の詩集、ブンちゃん読んだ?」
「はい。大好き。読んでいて涙が出るのもあったよ」
「涙が出たという詩、“みかん”という詩ではないかしら。実は今日一冊持ってきたのよ」
私はバッグから姉の詩集を取り出した。
「ミカンという詩、読ませてもらっていいかしら」
文美が頷いたので私は「みかん」という詩を姉にも聞こえるように読んだ。
みかん

私はみかんの詩を読みながら、姉が集団疎開したZ寺と1キロ離れたA寺で私も一人で大雪を見ていた日の事が思い出された。この詩を二人でもっと話したかった思いが胸に迫ったが、ベッドに腰かけていた姉は途中で靴のまま横になってしまっていた。
「疲れたのよ、お義母さんを少し寝かせましょう。」
文美は靴を脱がせて、戸棚から毛布を出し義母に掛けてからしみじみした口調で言った。
「校長先生までやったお義母さんでしょう。生徒さんから卒業したあとでも“先生結婚しました”とか“恋人に振られました”とか山のように手紙が届くやさしい先生だったお義母さんがどうして認知症なんかになってしまったのか不思議でたまらないわ」
「わからないのは私も同じよ。アルツハイマー病の原因はアミロイドベータという特殊なたんぱく質が脳の中にシミを作りながら神経細胞を傷つけてしまって記憶障害が起きると言われているの。けれど何が原因でシミが出来てしまうのか、それはまだわからないらしいわ」
私はまごつきながら答えたが、もしかしたら脳の変化を起こすのは長年のストレスではないかと推測していた。姉の詩集に、わたしのなつやすみ その(一)という短い詩があった。
草もち 目次

三泊四日の
臨海学校から帰る
へとへとに 疲れ果てて
わたしを待っていたものは
  わんぱく息子どもの こしらえた
せんたくものの山
一学期間 放っておいた
台所のレンジの汚れ
冬物の整理に ふとんの綿入れ
そして――
うんざりしたような 夫の顔
読みかけの本と
書きかけのノートを
横目でにらみながら
やおら立ち上がって 働き出す
毎年のことながら
こうして
わたしの夏やすみが はじまる

 夏やすみの詩は その(九)迄あったが私が注目したのは、2連目の最後のうんざりしたような夫の顔、というところであった。
私は義兄の笑顔をここ何十年見たことがなかった。姉と同じ大学の1年先輩で歴史研究会サークルで知り合い、姉の卒業を待って結婚した二人だった。
 義兄は坂口安吾の「白痴」で卒業論文を書き、中学校の国語教師として定年まで働いた。共働き夫婦だったが家事育児は姉に任せきりだった。私が義兄に初めて会った時、色白で哲学者を思わせる風貌だった。そして明るい人だった。いつの頃から笑顔のない人に変化してしまったのか。坂口安吾を読み込んでいた和男はどんな思いでこの時期を生き抜いたのであろうか。もっと話を聞いておけばよかった、という後悔の念に苛まれたが、義兄はもうこの世にいない。
 毎日精一杯働き帰宅後、夫のうんざりしたような顔と付き合い、何十年かの歳月を経た時、人の脳はどんな風に変化するのだろうか。文美はどう考えるだろうか。
 みかんと同じように文美に夏休みの詩を聞いてもらった後で私は聞いた。
 「私がこの詩を読んだのは二連目のうんざりしたような夫の顔、というところについてブンちゃんの感想を聞きたかったからなの。
 毎日精一杯働いて家に帰ると一番身近で頼りにしたい夫がうんざりした顔をしていて、それが365日、何十年かの歳月を経た時、人の脳はどんな風に変化するのだろうかと考えた事はありませんか」
文美は首を傾けながら言った。
 「そうすると、瑠璃子さんはお義父さんがお義母さんの認知症の原因になったと言いたいのですか。それは酷い。亡くなったお義父さんは本当に優しくてよい人でした」
 文美の反撃にあい、私は言葉を失った。人間の内面と外面の話をしてもなんになろうか。認知症の原因はまだわからない。原因の決め手のない中でさまざまな認知症予防のための栄養、運動、休養の普及活動は目覚ましい昨今である。しかし認知症になってしまった人が地域で生活していくのは大丈夫なのだろうか。
 北京出身の文美は国境を越え、認知症の義母と腕を組んで歩きトイレの世話も厭わない。
 「お義母さんの詩、私大好きですから大丈夫です。お義母さんのお世話苦にはなりません。毎日だと困りましたけど、これからは車で30分の距離なので、花見に連れていったりできます。瑠璃子さんも自分のお体、大切にしてください」
 私は、立ち上がって文美の豊かな胸に顔を埋め、背中に手を回し「ありがとう」と心を込めて言った。

 姉と夕食まで付き合ってから帰るという甥夫婦を残して私は一足先に帰ることにした。姉も起きたので、一緒に迷路の通路を通って玄関へ出た。太郎と施設職員との入所面談がちょうど終わったところだったので、一緒に写真を撮ることになった。黒のスーツに身を包み、ホテルのフロントマンのような青年がシャッターを押してくれた。姉は笑顔だった。人を信じて疑わない澄んだ目をしていた。
「さよなら、またくるね」
と言いながら姉を抱きしめた。脆く崩れていくような感触だった。姉の意見を聞きたいことが沢山ある。相談したいのに答えは返ってこない。 
 「我思う。故に我あり」デカルトの言葉が今、姉と共に味わえないことを思うと悲しみに襲われる。80年余りこの荒涼たる光景を見るために生きてきたのかと思うと何ともやるせない思いに打ちひしがれた。長い道を重荷を負って誠実に、精一杯生きてきて疲れ果て、今すべての事から解放されて子供に返って私の前に存在している姉新井京子はどんな世界をさまよっているのだろうか。認知症の人を「二度童子」とは、言い得て妙であると思う。

 バスはなかなか来なかった。夕焼けが消え、薄墨色に覆われた街に一人で立ち竦んでバスを待っていると姉の声が背中の方から聞こえてきたような気がした。
「瑠璃子ちゃん、あなたは私より2歳も若いのよ。元気を出してね」
 振り返ると着崩れした姉が一人小股で歩いて芒原の中へ消えて行った。私は丸くなった背筋を伸ばし姉が消えて行った方向に目を凝らした。(了)

(担当:ゆっちょむ)

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------


足裏の記憶

エッセイCM(0)

さつき会員の松村幸子さん(1958医・衛生看護)が、回想録やご自身の体験を基にした作品を寄稿してくださいましたので、さつき会ブログに順次掲載する予定です。
今月は、ご自身の9歳から10歳にかけての学童集団疎開の回想録「足裏の記憶」です。ウクライナの戦争が一刻も早く終わってほしいとの願いを込めて、初回の掲載に選んでいただきました。



 1945年1月10日、学童集団疎開に出発した日、私は9歳、東京第三師範学校(現東京学芸大学)付属国民学校3年生だった。姉同5年、弟同1年、未就学の5歳、3歳、0歳の弟妹と教員の父と母8人で板橋区(現練馬区)大泉の借家に住んでいた。雑木林と麦畑の広がる武蔵野の一隅で、朝は納豆売りの歌と太鼓で目が覚め、井戸水で顔を洗い、父が蠟燭を灯した神棚に全員で柏手を打って、神の国日本が永遠に栄えますようにと祈り、鶏、兎、山羊の世話をしてから全員で食卓を囲む平穏な生活は、第二次世界大戦により壊されていった。

 敵機襲来が頻発し、空襲警報が鳴り響き、登校してもすぐ下校になり、父が庭に掘削した防空壕へ逃げこむ日が続いていた。近くの東宝撮影所が狙われ、2トン爆弾が落ちて爆風にさらされた我が家の東窓ガラスは粉々になり、防空壕に入れず、座敷に寝かされていた末弟の上に降り注いだ。
 東京が危ない‼ 3年生以上の生徒と先生総勢200人余は、「学童疎開促進要綱」(1944年6月30日付極秘裏に閣議決定)により決まった学童集団疎開先、群馬県勢多郡新里村(現桐生市新里村)へ出発した。8時半に武蔵野線(現西武池袋線)、池袋駅東口広場集合、親と別れ、電車を乗り継ぎ新里村に到着したのは周囲が薄墨色に染まる頃だった。上毛電鉄武井駅前の広場で宿泊先のお寺の住職さんはじめ、寮母さんたちに出迎えられた生徒達は各寺院に分散して向かった。私の行く先は安養寺、姉は善昌寺、弟は3か月後に出発し、1、2年生は男女共、常廣寺だった。

 この日から敗戦8月15日を経て10月20日迄の9ヶ月10日間に体験したことは9歳の私にとって、二度と繰り返したくない体験であった。しかし、記録が残っていない。親からもらったハガキや手紙、日記、絵などは私が東京大学に入学し親元から離れた時、無断で処分されてしまった。この原稿を書くにあたって探し、1枚だけ見つかったのは、住職さんに召集令状が来て、出征の日の朝、生徒、先生、寮母さん全員で記念撮影した写真である。住職さんは幼い長男と、お腹に赤ちゃんを宿した妻に留守を託して出征した。赴任先は広島であったが、原爆投下の日が出産と重なり、里帰りしていて助かった。ということは後日わかった事である。両脇の担任教師はゲートル、詰襟の国防服、3、4年女子はモンペ姿で暗い顔をして並んでいる。寮母さんは、地元出身の献身的な方々で、親元を離れた疎開っ子の面倒を本当によくみて下さった。今考えると24時間勤務である。どこで休息をとっておられたのであろうか。
 この1枚を手掛かりに当時の記憶を辿ってみたい。戦後76年を経て記憶は覚束なくなっているがセピア色の写真と自分の足の裏が記憶していることを、まずは記して恒久平和への希求の一歩としたい。

学童集団疎開

 一つ目の記憶は勤労奉仕の時の足裏の熱さである。農家の働き手は次々に出征し、農作業の担い手がいなくなっていた。疎開っ子は農家から働き手として求められた。草むしり、トマト胡瓜などの収穫、桑の皮ひき、馬糞拾い、頼まれた事は何でもした。当時、畑仕事は裸足か草履だった。裸足の足裏は火傷しそうに熱かったのでサツマイモの葉などで日陰になっている土に足が着くようにして移動した。
 馬糞拾いは4人でカマスの4隅を持ち、農道を歩く牛や馬を見つけると、一目散に走って追いかけた。尻尾を振り上げて排泄してくれた時は、「ありがとう!」と叫んだ。探しても落ちていなくて、乾き切った農道にへばりついて居る便をシャベルでほじくりだす時は、情けなかったが泣かなかった。馬糞は畑の肥料として使われた。

 二つ目は冬の凍った道の冷たさである。村の国民学校へ全員で登校する日が時々あったが、登校日の朝、雨が雪に変わっていた。ゴム長靴はないし、運動靴には穴があいていた。母が縫ってくれた帯芯の足袋は穴がある運動靴より優れていると自分で考え、一足しかない新しい足袋をおろした。雪道を歩き出した時、帯芯はすぐに濡れてしまい、霙の冷たさが足裏を通して、体中に沁みこんできた。学校まで約3キロ、霙道を裸足で歩くに等しかったが、私は泣かなかった。兵隊さんはもっとつらい思いをしている。こんなことで泣いてたまるかと自分を鼓舞した。

 三つ目はよく歩いた道路の感触である。先生にお使いを頼まれて姉のいる善昌寺や5,6年生の男子学寮へ届け物をした。舗装されていない道は荷車の轍が続いていたり、牛馬の肥爪の跡が残っていたりするでこぼこ道であったが、ちびた下駄、藁草履で歩く感触は今も鮮やかに蘇る。預かったバターが溶け出して困ったこともあったが、役目を果たして帰れた時は嬉しかった。姉とはすれ違いで滅多に会えなかった。

 「お使いや勤労奉仕よりも私は勉強がしたい」と先生に申し出た時、先生から大声で怒鳴りつけられたことは忘れない。戦時下で勉強がしたい。というのは贅沢なことだった。「欲しがりません。勝つまでは」「鬼畜米英撃滅」と黒板に白墨で書き、がんばろうと疎開っ子たちは誓い合って布団に入った。
 布団に入ると蚤にやられた。蚤は布団を本堂わきの布団部屋から出して本堂に敷き詰める時、ぴょん、捕まえようとするとまたぴょんと跳んですぐ逃げられてしまうので、捕まえられなかった。運よく捕まえて指先で潰すと血を一杯吸っていた。気持ち悪くなり、虱とりは諦めた。いつも痒くて耐えられなかった。DDTもそんなに沢山あったようには思えなかった。みんな我慢強い疎開っ子であった。親元に早く帰りたいと泣き寝入りした。おねしょしてしまう友もいた。悲しい夜であった。四つ目の想い出である。

 五つ目はお寺の本堂の床の感触である。お寺の庫裡で朝、昼、夕食事をした。主食は高粱ご飯の時が多かったが、必ず寮母さんたちの手づくりの副菜が一皿あった。大根、かぼちゃの煮付け等だった。勤労奉仕に行った農家から野菜の差し入れがあり、大助かりだと寮母さんは云った。毎日の当番が決まっていて食器洗いと片付け、長細い食卓と、床を拭き掃除した。当番フリーの日は、食事が終わり、全員でご馳走様と挨拶した後、脱兎の如く、庫裡の渡り廊下を駆け抜けて本堂に向かう。目当ては本堂の壁側に設置された本棚の本であった。読みかけた本の続きが早く読みたいのである。「ジャンバルジャン」「家なき子」、「母をたずねて3千里」、「小公子」、「小公女」など貪るように読んだ。黒光りする本堂の床に足を投げ出して読書する時、本堂の床の感触はひんやりしていた。

 六つ目は、二歳年下の弟がパラチブスにかかり、常廣寺から大間々の避病院に入院した時のことである。弟は本堂の前の広間で鬼ごっこをしていた時、足の裏についた高粱の飯粒を食べたのが原因でパラチブスにかかった。父が見舞いに駆けつけた時は高熱が続き、意識朦朧状態で、どうしたら助けられるか。父は熟慮の末、弟が可愛がっていた山羊を絞めてその肉を近医に届けて、ブドウ糖アンプルと交換し、それを持って、避病院にとんぼ返りし医師に注射してもらったお陰で、一命をとりとめた。足裏についた飯粒を拾って食べしまうくらい、弟は腹がへっていたのである。私はこの弟の体験をもとに75歳の時「ぼくの仔山羊」という短編を書いたが、民主文学横浜支部誌23号合評会で本部誌推薦に一票差で敗れた。

 七つ目は虱である。洗濯の時、下着の縫い目にびっしり隙間なく並んで蠢いているのを見つけた時、寒気が来て、思わず下着を地面に放り投げて逃げた。寮母さんが熱湯で消毒して洗ってくれた。「二枚しかない下着でしょ。大切にしなければ」と諭された。お寺の脇の地面にしゃがんで洗面器に井戸水を汲んで一緒に洗濯していた同級生の一人が童話作家になった佐藤和貴子である。さとうわきこの「洗濯母ちゃんシリーズ」はS40年代生まれの子供たちとその母たちの人気をさらった。彼女は飯田市に絵本の美術館を作り、今も健在である。

 八つ目は童謡や創作した歌をよく歌ったことである。劇も作って配役を決めてお世話になっている村の人たちに披露した。私の創作の一つに、「バッタ見つけた」という短い童謡がある。「バッタ見つけた草の中、静かにそっとねらってみたが、ああとんだ、バッタとんで行っちゃった」という他愛ないものに動作をつけた。バッタも蚤も捕まえられないスロモーションの私をよく表現していると云われて、所望されると恥ずかしげもなく披露した。疎開地の寂しさを紛らせてくれた歌は86歳の現在も生きている。平和を願う合唱団に所属して歌うことは二度と戦争は嫌だという内に籠めた願いである。(了)


    (担当 Aozora)

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------


さつき会イベント委員の有志が会員の皆さんと一緒に様々な情報をお伝えしていきます。           (※ブログ内の関連情報は、興味をお持ちの方にさらに深く知って頂くためのものです。さつき会として販売促進するものではありませんのでご了解ください。)

プロフィール

johohasshin2020

Author:johohasshin2020
さつき会
(東大女子ネットワーク・コミュニティ)

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
 

Copyright ©さつき会ブログ. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha.