さつき会ブログ

さつき会イベント委員の有志が会員の皆さんと一緒に様々な情報をお伝えしていきます。           (※ブログ内の関連情報は、興味をお持ちの方にさらに深く知って頂くためのものです。さつき会として販売促進するものではありませんのでご了解ください。)

愛宕山付近を散策する 

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東京23区で一番高い山は?

東京23区で一番高い山をご存知ですか? 何とわずか標高25.7mの愛宕山が自然の山としては一番高い山だということです。今回はこの愛宕山付近を散策してみたいと思います。
愛宕山に行くには、日比谷線神谷町をはじめ、色々なルートがありますが、都営三田線の御成門から向かうことにしました。
東京慈恵医大の前にある青松寺の山門は花まつりバージョン。境内のお釈迦様の噴水と共に心を和ませてくれます。

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出世の階段を上ってみる

更に進むと、愛宕通り沿いに標識があります。


標識に示されているエレベーターは使わずに、少し先にある石段を上って愛宕神社に向かうことにします。
徳川家光が愛宕山に咲いている梅を見て「誰か、馬にてあの梅を取って参れ」と命じたところ、当時無名だった曲垣(まがき)平九郎が、馬で石段を上り下りして、梅の花を家光に献上した、という話をご存知の方もいらっしゃることでしょう。その後曲垣平九郎は「馬術の名人」としてその名を日本中にとどろかせたということで、それにちなんで「出世の石段」と呼ばれています。
この石段に挑戦してみることにしました。全部で86段。後ろを振り返るとめまいがしそうなので、ひたすら足元を見て登ります。息が切れて途中で休憩すること3回。
振り返ってみると驚くほど急な石段。「上がり切った」という満足感で、運気が上がりそう。ちなみに勾配は40度だということです。

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愛宕神社は徳川家康の命によって防火の神様として建立されたそうです。ところが、江戸時代の火災、関東大震災、東京大空襲などで繰り返し消失し、今の建物は昭和33年に再建されたものだとのこと。東京の身代わりに焼けたのだという説もありますが・・・。
東京23区内で一番高い愛宕山にある神社、昔は、さぞ眺めがよかったのでしょう。今は高層ビルに埋もれています。

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愛宕神社は若者でいっぱい

3月から4月という節目の季節。彼らは何を祈ったのでしょうか。真剣なまなざしで手を合わせて祈る若者たちの姿が印象的でした。
池には錦鯉がたくさん泳いでいてほっとした気分になり、癒されます。

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NHK放送博物館へ

すぐ隣に、NHK放送博物館があります。ここはNHK発祥の地。1925年に愛宕山からラジオの本放送が開始されたとのことです。

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先ず3階へ。さすがにエレベーターを使うことにします。
ヒストリーゾーンではNHK100年の歴史が、たくさんの映像や音を通じてじっくりと見られます。移り変わるラジオやテレビ、昭和のテレビ番組、など記憶の彼方に消えそうな映像を残しておきたいのですが、残念ながら撮影禁止。
階段で2階へ。ここには子どもが喜びそうな放送体験スタジオがあります。小学校4年生くらいの女の子とその両親の仲良し家族と一緒に体験をすることになりました。
上がテレビのバーチャル画面。青い布を通して体が透き通り、その中を魚が泳いでいます! 
アナウンサーになった気分でニュースを読むコーナー、気象予報士になれるコーナーもありましたが、ここの体験は仲良し家族に任せることにしました。
そのほか、テーマ展示ゾーン、愛宕山8Kシアターなどもあり、色々と楽しめます。

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4階には番組公開ライブラリーがあり、1万本を超える番組を視聴できるはずでしたが、この日は公開されていませんでした。ある日ある時の、思い出のビデオが見つかるかもしれません。

近くに増上寺、東京タワーもありますし、小学生くらいのお子様連れでの散策にもおススメ。
都心で味わえる別世界の散策コースです。

(担当:Giglio)


愛宕神社の詳しい情報はこちら
NHK放送博物館の詳しい情報はこちら


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斎藤茂吉~歌碑で辿る東京の軌跡~

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先月、ブログレポーターのkuminさんが山形県上山市にある斎藤茂吉記念館の記事を投稿してくださいましたが(そのときの記事は→こちら)、それに触発されて、東京のゆかりの地を訪ね歩いてみました。

〈浅草区東三筋町54番地(現:台東区三筋一丁目付近)〉
1891~1907年
◆浅草の三筋町なるおもいでもうたかたの如や過ぎゆく光の如や

(台東区立「三筋保育園」庭の歌碑)

1891年(明治15)8月、14歳の茂吉は浅草で医院を営む斎藤紀一の世話になるため父に連れられて上京しました。ここから学校に通い、医者になりました。
上京の様子や浅草での思い出を綴った『三筋町界隈』はとても面白いエッセイです。当時の東京では吉原などよく火事が起こり、茂吉はいつも屋根に上って鎮火するまで一晩中でも見ていたとか、浅草寺の境内にいた「砂がき婆さん」のことや当時評判だった名妓初代ぽん太の話などなど。
ご興味のある方は是非お読みください。

〈青山脳病院(現:港区南青山4-17-43)〉
1907~1945年
◆あかあかと一本の道通りたり霊剋(たまきは)る我が命なりけり

(王子グリーンヒルアパーツメンツ入口の歌碑)
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青山脳病院は1907年南青山の広大な敷地に建てられた洋風の瀟洒な建物でした。茂吉は1914年に紀一の次女輝子と結婚し斎藤家の婿養子となり、1921年から欧州に留学。1924年に病院が火災で全焼したとの報せは帰国の船上で受け取ったそうです。その後、小さな診療所と茂吉一家の居宅のみがここに再建され、1945年に米軍の空襲で全焼するまで茂吉が約40年間住んだところです。

〈青山脳病院松沢本院(現:世田谷区松原6-37-1)〉
1925~1945年
◆茂吉われ院長となりいそしむを世のもろびとよ知りてくだされよ

(東京リハビリテーションセンター世田谷構内の歌碑)
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南青山の青山脳病院が1924年に全焼した後、1925年に松澤村松原への移転が決まり、1926年に診療を開始しました。この再建では茂吉が資金繰りに大変苦労したようです。
1927年には義父から院長を引き継ぎ、1945年まで務めました。
1945年に東京都に譲渡された病院は「東京都立松沢病院分院」となり、1952年に「東京都立梅が丘病院」と名前を変えて診療を続けましたが、2010年に閉鎖。現在は、「東京リハビリテーションセンター世田谷」となっています。

〈世田谷区代田〉
1947~1950年
◆代田川のほとりにわれをいこはしむ柳の花もほほけそめつつ

(鶴が岡橋下流の歌碑)
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茂吉は1945年に郷里の山形県金瓶(かなかめ)に疎開します。翌年の1946年には大石田町に移転。そして1947年11月に東京に戻り世田谷区代田に居を構えました。
茂吉の住まいは代田3丁目の北沢川(代田川)沿いにあったようで、よく川沿いの道を散歩したそうです。この大きな岩の歌碑は、少し下流の鶴が岡橋の脇に2013年に建てられたものです。

〈新宿区大京町〉
1950~1953年
◆新宿の大京町といふとほりわが足よわり住みつかむとす

(新宿区大京町22-2 PJビルの歌碑)
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1950年、斎藤家は代田から新宿区大京町に移転しました。それから2年余り、茂吉は70歳でこの世を去りました。
この地には、ビル入口脇の壁に茂吉の長男 斎藤茂太が1988年(平成元年)に掲げた歌碑(銘板)がある他、外苑西通りに面した外壁に2013年に新宿区教育委員会による新宿区指定史跡「斎藤茂吉終焉の地」の石板がはめ込まれています。
そこに「当時の家屋は1988年に解体されたが、書斎は上山市の斎藤茂吉記念館内に復元展示されている」とありますので、上山市の記念館にある「斎藤茂吉晩年の居室」はここから移されたもののようです。

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ところで茂吉の墓は、分骨埋葬されて東京青山墓地と郷里の宝仙寺にあります。

〈斎藤病院〉
茂吉の長男 斎藤茂太は、代田を引き払った1950年、府中市浅間町4-1に「斎藤神経科」を開業しました。この病院は現在も精神科・神経科専門の「医療財団法人赤光会斎藤病院」として運営されており、ホームページには青山脳病院から今日までの「斎藤病院のあゆみ」が記載されています。

(担当 Mikkie)

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アンティークストールに魅せられて17年 

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☆会員の長谷川峰子さんに、ストール専門店がちょうど17周年目を迎えた2022年3月3日に寄稿していただいた記事です。☆

2022年3月3日でストール専門店インドリームは設立17周年を迎えました。この17年間に3万枚以上のストールに出会いました。すでに子育ても終わっていたので、ストールのことだけ考え続けて17年、そろそろ私もストールのプロといえる段階に入ったでしょうか。

アンティークストールとの出会い

私は東京表参道でストール専門店を営んでおります。予備知識なしで、ひとめぼれして始めたインドの高級ストールの販売。そのストールは、なんと500年以上の伝統があり、ナポレオンのジョゼフィーヌ皇后も愛したインドのカシミールショールでした。知れば知るほど奥が深いストールで、本当に素晴らしい商材に出会えたのは幸運でした。
この17年間で出会ったストールのうち、一番印象深いのは、100年以上前に作られたというアンティークの手刺繍ストールです。それまでにアンティークストールの切れ端は見たことがあったのですが、一枚完全な形というのは初めてでした。
私も最初は見るだけのつもりだったのですが、大好きな色の組み合わせ、またストールの放つ素朴な刺繍の美しさに魅了され、予定外に入手してしまいました。カシミールショールの知識が深まった時期でもあったので、どうしても持ち帰りたくなってしまったのです。

それがこちらのストールです。この写真はあるイベントでご紹介した時のものです。

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アンティークショールは、生地が弱っているので、ストールのサイドの部分は布テープで補強されています。また、フリンジ部分は損傷が激しかったので、新しく作り直されていますが、はぎ合わせの技術は素晴らしく全くわかりません。ただ生地の色が変化していることで、時代の違いがわかります。

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高級ストールは絹糸で刺繍するのですが、買えなかったため、ウールの細い糸で刺繍されています。それゆえにマットな風合いと、なんとも言えない素朴な美しさがあります。そして、カラフルでとても可愛らしい配色です。

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このストールへの愛は日に日に深まり、結局インドリームの宝物とすることになりました。インドリームという会社名はインドとドリームをくっつけた造語です。まさにインドリームにふさわしい宝物です。
とは言え、このストールを秘蔵しておくだけでは、ストールを作った職人さんにも申し訳ないと考え、このストールをご紹介するために、「ストール美人ランチ会」というイベントを始めました。青山のレストランでストールの歴史の話をしながら、ランチして、その後、このアンティークストールをご覧に入れて、お土産のストールを選んでいただくという楽しいイベントです。
2016年以来、60回以上開催、400人以上の方にこのストールをご覧に入れました。さつき会の先輩や後輩もたくさん参加してくださいました。コロナ禍のなか、積極的な募集は控えておりますが、現在でも、ご希望があれば少人数開催をしております。

もし、実際にご覧になりたい方がありましたら、ぜひご連絡ください。
このストールをお見せして、たくさんの方に楽しんでいただくことが、私の何よりの喜びです。

ストール専門店「インドリーム」はこちらです。
長谷川峰子さんはFacebookINSTAGRAMも利用されています。


(担当:Giglio)


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介護 ~私の場合②~

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「介護」の経験は人それぞれ。私の場合は、仕事を続ける中、大勢の方たちに助けられながら伯母(母の姉)と母の在宅介護をしていたのですが、ついに限界の日が訪れ、高齢者施設で二人を看取った、という経験です。

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(母が高齢者施設で迎えた誕生日にいただいたカードと供花)

介護が必要だと思った日
介護が必要だとはっきり思ったのは、伯母93歳、母89歳の時でした。深夜に鳴った電話のベルの音。走って5分ほどの実家に着くと、伯母がベットから落ちていて、動くことすらできませんでした。
「元気なときを大いに楽しみましょう!」「姉妹二人で助け合うから大丈夫!」の言葉に甘え、民間のヘルパーさんを週2日頼むことで安心して、会社経営と今後の継承問題に追われていた一人っ子の私が、このままではいけないと思った日でした。
出来る限り在宅で過ごしてほしい。しかし、仕事を辞める訳にいかず、私自身、70歳を目前に体力的にも精一杯。

あらゆる在宅介護サービスの手配
先ず、今までお願いしていた信頼できるケアマネージャーに相談しました。そこで紹介してもらった在宅医療の女性の先生との出会いが私の心を支えてくれたような気がします。そしてその後も大きな関わりを持つことになったのですが・・・。
在宅看護の会社とも契約をし、民間のヘルパー会社の日数、時間を増やし、何とか週5日間、誰かが二人を見守ってくださる体制を作りました。家中に転倒防止の介護用の器具を取り付けて、緊急の際はいずれかのサービスに連絡すれば、すぐにとんで来てくれるようにして、鍵の管理についても安全を期した対策を講じて・・・・これで一安心。

在宅介護サービスの難しさ
と思ったのも束の間。在宅介護サービスを利用することの難しさと直面することになります。
二人とも、自宅に第三者が出入ることに抵抗があったのを説得し、納得してもらったはずなのですが、「どうしても受け入れられない」人ができてしまうのです。在宅看護の会社は変えざるを得ませんでした。半面気に入ったヘルパーさん以外はいや、という希望もあります。在宅医療の先生、ケアマネージャーとの打ち合わせは、介護する側の悩みを相談できる有意義な時間でした。
週5日誰かに来ていただいても、いつ何が起きているか分からない・・・という状況の中、毎回30分程度1日に数回行う巡回訪問サービス、というものも採り入れました。しかし、老々介護の中、母からの連絡で真夜中、明け方など、実家に走る日もだんだん増えていきました。

在宅介護の終った日
転倒は、状況を一変させるものです。うなぎやお寿司を元気に食べていた二人でしたが、伯母が転倒を機に誤嚥。在宅医療の先生がすぐに来てくださり、「私の経営している高齢者施設に入れましょう!」という決定が一晩にしてなされたのです。

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(高齢者施設の室内で)

在宅で看取る、ということの限界を実感しました。高齢者施設に入った伯母は環境の変化を受け入れ、「食べたいものは全部食べたのでもういい。」と言い、入所後約1年経った日に安らかに老衰で旅立ちました。
付き添いで施設に入ったはずの母は、施設で転倒して大腿骨骨折。術後は順調に快復したのですが、元気すぎてまたもや施設で転倒。伯母が他界した1か月後、脳梗塞で意識が亡くなり、姉を追うように旅立っていきました。享年97歳と93歳でした。
「幸せねえ」が口癖だった老姉妹、「ぽっくり行きたいわ。」という願いはほぼかなえられたのかと、墓の前で手を合わせています。

遠からず介護される側になるかもしれない私はこのように思っています。
元気なうちに幸せな体験を思い切りしたい。急激な老いが訪れたら、第三者の手を借りながら、自然に旅立てる日を待ちたい・・・と。
(担当:Giglio)

※「介護」の経験は人それぞれで、本当に違います。
様々な経験談は、これから介護を経験する方たちの参考になるかもしれません。
そんな思いから、『さつき会ブログ』では介護経験のある会員の皆さんから「介護~私の場合~」の原稿を募集致します。
あなたの経験を是非 お聞かせください。
原稿は joho-hasshin@satsuki-kai.net までお願いします。


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