さつき会ブログ

さつき会イベント委員の有志が会員の皆さんと一緒に様々な情報をお伝えしていきます。           (※ブログ内の関連情報は、興味をお持ちの方にさらに深く知って頂くためのものです。さつき会として販売促進するものではありませんのでご了解ください。)

出光美術館(東京)

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国宝「見努世友」とは?

新型コロナで閉館していた出光美術館が4月23日からようやく再開しました。
再開後の最初の展示は、「国宝『見努世友』と古筆の美」です。

古筆とは、一般的には平安時代・鎌倉時代の和歌を書いた筆跡を指しますが、広くは古人の優れた筆跡や絵画を意味し、歌書だけではなく、写経、物語、日記等その内容は様々なものがあります。これらは、時代が下るにつれ、切り分けられて、掛軸としたり、台紙に貼られアルバムのようなコレクション(手鑑=てかがみ)として鑑賞されていました。(出光美術館の説明より要約)

カタログ

今回、国宝の手鑑「見努世友=みぬよのとも」が2018年からの修復後初めて公開されています。中には、様々な古筆(「伝聖武天皇(大和切)」、「伝源実朝(中院切)」、「伝菅原道真(河内切)」、「伝紀貫之(荒野切)」等々)があり、きれいに修復されています。残念ながら私には読めませんが、筆者の性格や美意識がそこはかとなく伝わってきます。こうした古いものが長い間大切にされてきたことを考えると、私の親の世代には当然であった変体仮名や漢文の知識などが特別なものとなり、古いものが理解できなくなってきていることが残念な気がします。

ところで、私は出光美術館がとても好きなのですが、その理由はいくつかあります。
まず、アクセスがとてもよいことです。JR有楽町駅からも、多くの地下鉄の日比谷駅からもすぐのところにあります。(帝国劇場と同じビルといった方がわかりやすいでしょうか。)
また、小さな美術館で混雑していないので、ゆっくり鑑賞できることです。私は、全体をざっと見て、その後気に入った展示に戻りゆっくり見ることが多いのですが、戻るのが億劫になるほど広くはなく、また、並んで順番待ちをする必要もなく、好きなだけ見ていられます。
さらに、館内を30分ほど回りながら学芸員さんが見どころなどを説明してくれる「列品説明」というのがあります。展示を企画した学芸員さんだからなのだと思いますが、企画の狙いや展示物の面白いエピソードのほか、学芸員さんの個人的な思いや興味のポイントなども話してくださることがあります。

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最後にロビーです。皇居を望む大きな窓があり、自由に緑茶やほうじ茶をいただきながら、ゆったりと余韻にひたることができます。今回は小雨にけぶる新緑と遠くのビル群をながめることができました。

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 なお、現在は新型コロナの感染防止のため、「列品説明」と「給茶サービス」はやっていません。また、入館には事前予約が必要です。


 出光美術館

          (担当 Aozora)

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足裏の記憶

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さつき会員の松村幸子さん(1958医・衛生看護)が、回想録やご自身の体験を基にした作品を寄稿してくださいましたので、さつき会ブログに順次掲載する予定です。
今月は、ご自身の9歳から10歳にかけての学童集団疎開の回想録「足裏の記憶」です。ウクライナの戦争が一刻も早く終わってほしいとの願いを込めて、初回の掲載に選んでいただきました。



 1945年1月10日、学童集団疎開に出発した日、私は9歳、東京第三師範学校(現東京学芸大学)付属国民学校3年生だった。姉同5年、弟同1年、未就学の5歳、3歳、0歳の弟妹と教員の父と母8人で板橋区(現練馬区)大泉の借家に住んでいた。雑木林と麦畑の広がる武蔵野の一隅で、朝は納豆売りの歌と太鼓で目が覚め、井戸水で顔を洗い、父が蠟燭を灯した神棚に全員で柏手を打って、神の国日本が永遠に栄えますようにと祈り、鶏、兎、山羊の世話をしてから全員で食卓を囲む平穏な生活は、第二次世界大戦により壊されていった。

 敵機襲来が頻発し、空襲警報が鳴り響き、登校してもすぐ下校になり、父が庭に掘削した防空壕へ逃げこむ日が続いていた。近くの東宝撮影所が狙われ、2トン爆弾が落ちて爆風にさらされた我が家の東窓ガラスは粉々になり、防空壕に入れず、座敷に寝かされていた末弟の上に降り注いだ。
 東京が危ない‼ 3年生以上の生徒と先生総勢200人余は、「学童疎開促進要綱」(1944年6月30日付極秘裏に閣議決定)により決まった学童集団疎開先、群馬県勢多郡新里村(現桐生市新里村)へ出発した。8時半に武蔵野線(現西武池袋線)、池袋駅東口広場集合、親と別れ、電車を乗り継ぎ新里村に到着したのは周囲が薄墨色に染まる頃だった。上毛電鉄武井駅前の広場で宿泊先のお寺の住職さんはじめ、寮母さんたちに出迎えられた生徒達は各寺院に分散して向かった。私の行く先は安養寺、姉は善昌寺、弟は3か月後に出発し、1、2年生は男女共、常廣寺だった。

 この日から敗戦8月15日を経て10月20日迄の9ヶ月10日間に体験したことは9歳の私にとって、二度と繰り返したくない体験であった。しかし、記録が残っていない。親からもらったハガキや手紙、日記、絵などは私が東京大学に入学し親元から離れた時、無断で処分されてしまった。この原稿を書くにあたって探し、1枚だけ見つかったのは、住職さんに召集令状が来て、出征の日の朝、生徒、先生、寮母さん全員で記念撮影した写真である。住職さんは幼い長男と、お腹に赤ちゃんを宿した妻に留守を託して出征した。赴任先は広島であったが、原爆投下の日が出産と重なり、里帰りしていて助かった。ということは後日わかった事である。両脇の担任教師はゲートル、詰襟の国防服、3、4年女子はモンペ姿で暗い顔をして並んでいる。寮母さんは、地元出身の献身的な方々で、親元を離れた疎開っ子の面倒を本当によくみて下さった。今考えると24時間勤務である。どこで休息をとっておられたのであろうか。
 この1枚を手掛かりに当時の記憶を辿ってみたい。戦後76年を経て記憶は覚束なくなっているがセピア色の写真と自分の足の裏が記憶していることを、まずは記して恒久平和への希求の一歩としたい。

学童集団疎開

 一つ目の記憶は勤労奉仕の時の足裏の熱さである。農家の働き手は次々に出征し、農作業の担い手がいなくなっていた。疎開っ子は農家から働き手として求められた。草むしり、トマト胡瓜などの収穫、桑の皮ひき、馬糞拾い、頼まれた事は何でもした。当時、畑仕事は裸足か草履だった。裸足の足裏は火傷しそうに熱かったのでサツマイモの葉などで日陰になっている土に足が着くようにして移動した。
 馬糞拾いは4人でカマスの4隅を持ち、農道を歩く牛や馬を見つけると、一目散に走って追いかけた。尻尾を振り上げて排泄してくれた時は、「ありがとう!」と叫んだ。探しても落ちていなくて、乾き切った農道にへばりついて居る便をシャベルでほじくりだす時は、情けなかったが泣かなかった。馬糞は畑の肥料として使われた。

 二つ目は冬の凍った道の冷たさである。村の国民学校へ全員で登校する日が時々あったが、登校日の朝、雨が雪に変わっていた。ゴム長靴はないし、運動靴には穴があいていた。母が縫ってくれた帯芯の足袋は穴がある運動靴より優れていると自分で考え、一足しかない新しい足袋をおろした。雪道を歩き出した時、帯芯はすぐに濡れてしまい、霙の冷たさが足裏を通して、体中に沁みこんできた。学校まで約3キロ、霙道を裸足で歩くに等しかったが、私は泣かなかった。兵隊さんはもっとつらい思いをしている。こんなことで泣いてたまるかと自分を鼓舞した。

 三つ目はよく歩いた道路の感触である。先生にお使いを頼まれて姉のいる善昌寺や5,6年生の男子学寮へ届け物をした。舗装されていない道は荷車の轍が続いていたり、牛馬の肥爪の跡が残っていたりするでこぼこ道であったが、ちびた下駄、藁草履で歩く感触は今も鮮やかに蘇る。預かったバターが溶け出して困ったこともあったが、役目を果たして帰れた時は嬉しかった。姉とはすれ違いで滅多に会えなかった。

 「お使いや勤労奉仕よりも私は勉強がしたい」と先生に申し出た時、先生から大声で怒鳴りつけられたことは忘れない。戦時下で勉強がしたい。というのは贅沢なことだった。「欲しがりません。勝つまでは」「鬼畜米英撃滅」と黒板に白墨で書き、がんばろうと疎開っ子たちは誓い合って布団に入った。
 布団に入ると蚤にやられた。蚤は布団を本堂わきの布団部屋から出して本堂に敷き詰める時、ぴょん、捕まえようとするとまたぴょんと跳んですぐ逃げられてしまうので、捕まえられなかった。運よく捕まえて指先で潰すと血を一杯吸っていた。気持ち悪くなり、虱とりは諦めた。いつも痒くて耐えられなかった。DDTもそんなに沢山あったようには思えなかった。みんな我慢強い疎開っ子であった。親元に早く帰りたいと泣き寝入りした。おねしょしてしまう友もいた。悲しい夜であった。四つ目の想い出である。

 五つ目はお寺の本堂の床の感触である。お寺の庫裡で朝、昼、夕食事をした。主食は高粱ご飯の時が多かったが、必ず寮母さんたちの手づくりの副菜が一皿あった。大根、かぼちゃの煮付け等だった。勤労奉仕に行った農家から野菜の差し入れがあり、大助かりだと寮母さんは云った。毎日の当番が決まっていて食器洗いと片付け、長細い食卓と、床を拭き掃除した。当番フリーの日は、食事が終わり、全員でご馳走様と挨拶した後、脱兎の如く、庫裡の渡り廊下を駆け抜けて本堂に向かう。目当ては本堂の壁側に設置された本棚の本であった。読みかけた本の続きが早く読みたいのである。「ジャンバルジャン」「家なき子」、「母をたずねて3千里」、「小公子」、「小公女」など貪るように読んだ。黒光りする本堂の床に足を投げ出して読書する時、本堂の床の感触はひんやりしていた。

 六つ目は、二歳年下の弟がパラチブスにかかり、常廣寺から大間々の避病院に入院した時のことである。弟は本堂の前の広間で鬼ごっこをしていた時、足の裏についた高粱の飯粒を食べたのが原因でパラチブスにかかった。父が見舞いに駆けつけた時は高熱が続き、意識朦朧状態で、どうしたら助けられるか。父は熟慮の末、弟が可愛がっていた山羊を絞めてその肉を近医に届けて、ブドウ糖アンプルと交換し、それを持って、避病院にとんぼ返りし医師に注射してもらったお陰で、一命をとりとめた。足裏についた飯粒を拾って食べしまうくらい、弟は腹がへっていたのである。私はこの弟の体験をもとに75歳の時「ぼくの仔山羊」という短編を書いたが、民主文学横浜支部誌23号合評会で本部誌推薦に一票差で敗れた。

 七つ目は虱である。洗濯の時、下着の縫い目にびっしり隙間なく並んで蠢いているのを見つけた時、寒気が来て、思わず下着を地面に放り投げて逃げた。寮母さんが熱湯で消毒して洗ってくれた。「二枚しかない下着でしょ。大切にしなければ」と諭された。お寺の脇の地面にしゃがんで洗面器に井戸水を汲んで一緒に洗濯していた同級生の一人が童話作家になった佐藤和貴子である。さとうわきこの「洗濯母ちゃんシリーズ」はS40年代生まれの子供たちとその母たちの人気をさらった。彼女は飯田市に絵本の美術館を作り、今も健在である。

 八つ目は童謡や創作した歌をよく歌ったことである。劇も作って配役を決めてお世話になっている村の人たちに披露した。私の創作の一つに、「バッタ見つけた」という短い童謡がある。「バッタ見つけた草の中、静かにそっとねらってみたが、ああとんだ、バッタとんで行っちゃった」という他愛ないものに動作をつけた。バッタも蚤も捕まえられないスロモーションの私をよく表現していると云われて、所望されると恥ずかしげもなく披露した。疎開地の寂しさを紛らせてくれた歌は86歳の現在も生きている。平和を願う合唱団に所属して歌うことは二度と戦争は嫌だという内に籠めた願いである。(了)


    (担当 Aozora)

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映画「ぼけますから、」

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2020年10月のホームカミングデーにさつき会が上映した映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」(信友直子さん(84文)監督)をご記憶の方も多いと思います。
信友監督のご両親のその後を記録した映画「ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~」が3月25日から全国で順次公開されています。
さっそくご覧になったさつき会員のF.Aさんから、感想が寄せられました。


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入学時の文Ⅲのクラスのオリター(一つ先輩)の信友直子さんが監督・語りをされたドキュメンタリー映画の第二作、『ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~』を観てきました! 念願かなって夫と一緒に。同級生の夫は前作公開の時には韓国に駐在中で、ホームカミングデーのさつき会主催のオンライン講演会で第一作を観ました。(上映後の歓談タイムになってみたら、Zoomギャラリーに女性ばかりで恥ずかしかった、と言っていました。)

いや、もう、ほんとうに・・・・・。涙覚悟で行きましたが、何度もうるっとしつつも号泣には至らず。第三者として泣くには、信友家のお暮しが深刻過ぎて真実すぎて明るすぎて。

全編に、愛の「かたち」と「言葉」があふれています。
「ありがとう
「・・・してあげたい
「ごめんね
「いてくれて嬉しい
「よろしく〜
家族にこそ、ちゃんと感謝と思いを伝えたい!

折しも最近、葬儀屋さんから「その時のための心構え」を聞いた時に、「しっかり家族会議をしておいてください」とお話があったことを思い出しました。生きることも死ぬことも、自分の意思をはっきりと伝えてこそ、周りの人も迷うことなく、お互いが満足のできる生活を送ることができるはずですね。
でも、夫婦のコミュニケーションは意外に難しい。我が家だけでしょうか?

「私にとって、介護の日々は親が命懸けでしてくれる最後の子育てだと思えました。」という監督の言葉(『しんぶん赤旗日曜版』インタビューより)が印象的でした。
信友さん、ご両親様、ありがとうございました。

 映画 「ぼけますから よろしくお願いします。~おかえり お母さん~



       (担当 Aozora)


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魚沼生活52年

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☆ さつき会員の黒岩秩子さん(1963理)が投稿してくださった記事です。☆

 1963年、理学部数学科を卒業して、高校の数学の教員を6年、その後保育園で保母を1年終わったところで、夫の仕事の都合でここ新潟県南魚沼市浦佐に3人の子どもを連れて引っ越してきました。ここで保育園に19年務めたのち退職して、1990年家で、不登校や、障がいを持った方々も含めた塾を8年間運営していました。その間、参議院議員に立候補を促されて1995年に新党さきがけから全国区で立候補し落選したのですが、2001年に堂本暁子さんが、千葉知事になられた後、繰り上げ当選で、5か月間参議院議員をしました。

 浦佐の地元では、町立保育園の保母をしているときに受け持った知的障がい児のまあちゃんとさっちゃんにより価値観を180度転換させられました。まあちゃんさっちゃんが、保育園卒業後、上越にある養護学校に入って親元を離れて寄宿舎生活を始めました。6歳で親元を放せられることに疑問を感じながら、どんな障がいがあっても地域の中で生活できる地域を、と考える仲間が集まって、誰いうともなく「ともに育つ会」ができてしまいました。

 1996年春、夫が町長選に立候補して落選した時に、町長にならなくてもできることをしようということになって、「ともに育つ会」の仲間が、450坪の土地と5000万円を提供するから、何かを作ろう、と提案してくれ、1999年に社会福祉法人桐鈴会(桐が立っている畑を鈴木さんが寄付してくださりこの名前が付いた)が設立され、ケアハウス「鈴懸」が開設されました。「終の棲家」を詠ったケアハウスで、認知症になってしまう入居者のために、隣に認知症高齢者のグループホーム「桐の花」を立てました。その時に夫が古物商から100万で購入してあったお寺を移築して、グループホームと廊下で繋げました。そのお寺は夢草堂と名付けられ、講演会に音楽会(寄付されたグランドピアノあり)に展覧会に葬式場に集会場にと使われます。

桐の花

 「ともに育つ会」の仲間から障がい者の施設も、と言われ、2005年に障害者自立支援法ができて、知的、身体、精神、という縦割りが解消されて、「障がい者」にまとめられたので、障がい者の昼間生活する場「工房とんとん」とグループホームを2011年から作り始めました。今では、障がい者グループホームが3つ、相談支援事業所、障がい者日中活動の場などができて、高齢者施設と合わせて職員が全部で80人ぐらいになっています。

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 2019年には、20周年記念行事が行われ、20周年記念誌が出来上がりました。この記念誌の名前は「迷惑をかけあえる関係を目指して」というもので、このタイトルを考えたのは、職員の一人です。職員全員が文章を寄せてくれ、すべてがあいうえお順で並んでいます。
 桐鈴会の理念の中に「迷惑をかけあえる関係」を目指す、というのがあるためです。利用者さんたちの家族さんは、たびたび「ご迷惑をおかけして」という言葉を使います。そのたびに職員たちが「ここは迷惑をかけあえるところですから」と応じているそうです。
 そんなこともあってか、どこの施設に行っても続かない人が工房とんとんにだけは喜んで通ってくださったり、警察に入ったり出たりしていた人が、桐鈴会のGHに入居したら、1週間ぐらいで「俺の人生、やり直す」と宣言してくれたりしています。詳しくは、桐鈴会のHPをご覧ください。

グループホームでの食事風景

すずカフェ

作品販売

パン売り場

テイクアウトの惣菜

 私がこちらに移住してきたのが、1971年、その翌年、上越新幹線が浦佐駅に止まることが決まりました。そのため、東京から7時間かかってきていたのに、いきなり1時間半で来られるようになってしまいました。
 夫が診療所に勤めていたのですが、町立病院を立てて、ここで往診もするような地域医療を支える病院「ゆきぐに大和総合病院」ができたので、毎年2,000人ぐらいの見学者が来られるようになりました。夫は行政を握って医療福祉の街にしたいということで、町長選挙に出たのですが、落選したので、浦佐に在宅医療を行う診療所「萌気園」を立てました。そして、在宅ケアの全国組織の会長を17年間やることになったのでした。
 桐鈴会も夫の診療所のおかげで、住んでいるお部屋で亡くなることが可能で、病院で亡くなる方はほとんどいない状態です。高齢者の皆さんは、「終の棲家」として桐鈴会のケアハウスや、グループホームを選んできてくださっています。
 夫は1970年に移住してきて、1年後に私と3人の子ども、そして夫の母が移住してきました。その後子どもは4人生まれて、今では孫が18人になっています。18歳で全国にちりぢりになっていた子どもたち、今では南魚沼市内に4家族が住み、新潟県には5家族が住んでいます。
 魚沼生活52年、82歳になり、そろそろ終活にとりかかっているところです。


☆ 黒岩さん、投稿有難うございました。☆
                 
               (担当 Aozora)


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