さつき会ブログ

さつき会イベント委員の有志が会員の皆さんと一緒に様々な情報をお伝えしていきます。           (※ブログ内の関連情報は、興味をお持ちの方にさらに深く知って頂くためのものです。さつき会として販売促進するものではありませんのでご了解ください。)

柳宗悦がこだわり抜いた日本民藝館

博物館めぐりCM(0)

今回は、さつき会会員haoさんから、懐かしい駒場東大前にある日本民藝館の情報をお寄せいただきました。

駒場東大前駅から歩いて10分弱の日本民藝館に行ってきました。
駅から住宅街の舗装道路を道なりに歩いていくと、斜め右に曲がった先に、日本民藝館の建物が忽然と現れます。
訪れた日は天気もよく、日本家屋のたたずまいと青空のコントラストがとてもきれいで、印象に残りました。
民芸館 入口

『日本民藝館は、「民藝」という新しい美の概念の普及と「美の生活化」を目指す民藝運動の本拠として、1926年に思想家の柳宗悦(1889-1961)らにより企画され、実業家で社会事業家の大原孫三郎をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、1936年に開設された。』
(HPより抜粋)
日本民藝館では、美術館というよりは大きな家のような場所に、自然と物を置いたような手法で品物が置かれていました。
品物は、免震のためにテグスで物を固定したり、免震台を使うこともなく、また展示ケースもなく、ガラス張りの棚に整然と、調和を考えて配置されていました。
また、品物の説明書き(キャプション)は漆塗りの板に朱書きで物の名前と時代、素材しか書かれていません。
これは「知識で物を見るのではなく、直観の力で見ることが何よりも肝要であるという、柳の見識によるものです。」とパンフレットに紹介されていました。
木の引き戸2
本館の入口

長屋門
西館(柳の旧自宅)

民藝館本館、西館(柳の自宅)ともに柳の設計によるもので、細部までこだわり抜いて建てられたそうです。
展示の手法の独特さ、館内の品物の良さとともに、建物の内部をあれこれ見るのも楽しかったです。
入館料は大人1,200円ですが一生に一度くらいは見ておいて損はないかもしれません。
ご興味のある方はぜひ。

日本民藝館

さつき会会員hao

(担当:ゆっちょむ)

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二度童子

エッセイCM(2)

先月に引き続き、さつき会員の松村幸子さん(1958医・衛生看護)の作品をお届けします。
今月は、幼い頃から力強い助人(すけっと)であり、頼りになる存在、そして今はアルツハイマー型認知症を患うお姉さまへの思いを綴った作品を選んでいただきました。

                             
「おふくろが12月20日にKホームに入ります。昼前にHが丘の家を出発して昼食を食べてからホームに向かう予定です」
姉京子の長男太郎からのメールを受信した私はすぐに返信した。
「わかりました。当日は姉に同行しますのでよろしくお願いします」
その日、私は姉の処女詩集「教室の手帳」を本棚から取り出して読んだ。赤い表紙の詩集をめくると「運動靴の配給」という詩が目にとまった。
運動靴の配給

 姉は、「こんな教師にはならないぞ」という決意を胸に秘め、都下の小学校を歴任し、定年の時はHが丘第1小学校の校長だった。定年後も区立教育センターの教育指導員として更に8年働いた。2歳下の私はいつも姉の後ろについて歩き、お下がりの服を着て、姉の読む本を読み、困ったことがあるとなんでも姉に相談した。
 中学時代、何のために生きているのかわからなくなり、うつ状態に陥った時、チャップリンの「ライムライト」と「女一人大地を行く」という三池炭鉱の闘争を描いた山田五十鈴主演の映画に誘ってくれたのは姉だった。定収のない新劇俳優との結婚に踏み切れずに迷っていた時、背中を押してくれたのも姉だった。
 「家ではなんでも話すのに、外では一言も口をきかないので誰も友達がいない」という孫の男子中学生について知人から相談された時も、すぐに姉に電話をかけた。「それは場面緘黙症という病気かもしれない。関連した本を送るから読んで、相談機関を紹介してあげたらどうかしら」
 一事が万事、姉に相談することで絡まった糸が解れていくように物事がよい方向に動いていく体験をした。

 力強い助人であった姉がアルツハイマー型認知症になったという連絡を受けた時は晴天の霹靂だった。一体認知症とは何者で、いつ頃から始まったのだろうか。
 「私は小さい弟たちを兵児帯で負ぶって育てたので背が伸びなくて小さいの」
 150センチに満たない身長を嘆いて繰り返し話すようになったのは下から二番目の弟が59歳の時食道がんで亡くなった(2001年)頃からであったろうか。同じことを繰り返し話すようになるのが認知症の始まりということを聞いていたが、まさか自分たちの姉が認知症になるとは、誰も想像出来ないことだった。親戚で集まる時は、いつも進行役を務めてくれたし、私たちは姉に頼り切っていた。
 弟が亡くなった時を同じくして姉の夫和男が喉頭がんの手術を受け、一命をとりとめて退院した。年子で生まれた息子の太郎と次郎は伴侶を得て独立し、Hヶ丘の家は姉夫婦のみとなった。姉は退院後の夫のリハビリと介護に精を出していたようだ。
 私は1995年3月、K市役所を定年退職後、N県の私立大学に特任教授として単身赴任をしていた。姉の詩集の出版祝いを最寄りの温泉地で企画した2005年3月、癌から生還した和男と共に参加した姉は、口数が少なく、物静かであった。和男も不機嫌に黙り込み、姉が会の進行を務めた時のように宴は盛り上がらなかった。
 この時の写真を今回手にとって眺めた。姉は不安を押し殺したような表情で作り笑いをしている事に気付いた。当時全く気付かなかったのは迂闊であった。この頃から内部で誰にも分らないまま人格の崩壊が始まっていたのだろうか。

 2016年12月20日、街にはクリスマスソングが鳴り響き、年末の買い物客で賑わう中、太郎夫婦と待ち合わせ、一緒に食事をした。彼は手慣れたように「おふくろ何食べる」と問いかけながらオムレツを注文した。食欲は旺盛でほぼ全量摂取したが、姉はこれから50年住み慣れた家を離れホームに入ることを理解しているとは思えなかった。一人で子供のようにはしゃいでいた。
 私は姉から貰ったグレイのオーバーを着て、姉の詩集と認知症治療に有効と言われる回想法に使えそうな昔の写真をアルバムから抜いて数枚を用意していた。
「このオーバー、お姉ちゃんにもらったオーバーよ。とっても温かいわ。有難う」
と話しかけた。姉は“そうだったかしら”というような表情をして私を見た。私が妹ということを認識しているのかどうか覚束ない表情だった。私は姉と腕を組み、太郎のワゴン車の後部座席に並んで座り、青春時代に姉に教えてもらったゴンドラの歌をハミングした。「命短し、恋せよ乙女・・・」黒沢明の「生きる」という映画も姉と一緒に池袋の人生座で観た。しかし姉の記憶からは全く消えて
しまっていた。はっきりしない言葉をしゃべり続けるが、意味不明である。それは録音テープを異なる周波数で再生した時のようだった。歌を諦めて、両親と祖母と姉が雛壇をバックにした写真を見せた。着物にお被布の愛らしい女児が自分であることを認知出来なかった。関心も示さない。回想法は使えなかった。どこまで崩れてしまったのか。しっかりした姉はどこへ行ってしまったのか。指を絡ませて指相撲を試みた。姉の手は白く柔らかで幼児の手を思わせた。
 Kホームの玄関は総ガラス張りのホテルのような構えだった。姉にはグループホームのようなこじんまりした家庭的なところがよいと思って私は提案をしていたがやはりこういう大型の施設に決まってしまったのは残念だったが、太郎が介護保険担当のケアマネージャーと相談して決めたのだから尊重しなければ、と自分に言い聞かせた。天井が高い明るいフロアの応接セットに腰を下ろして太郎が母の入所手続きを終えるのを待っている私たちに担当の介護福祉担当者と看護師長が近づき名刺を姉にもきちんと渡して言った。
「今日からここを自分のおうちと思って過ごして下さいね。困ったことがあったら何でも遠慮なく言って下さい。私たちはKホームに入所して下さった方が気持ちよく安心して暮らせるように一生懸命お手伝いいたしますから」
白衣の胸元のポケットには花柄のハンカチが覗いていた。ひらがなの大きな字で書かれたネームプレートも手づくりのようだった。
優しそうな師長に出会えて安堵した。自己紹介後、居室に案内してくれた。迷路のような通路を通り別棟の2階一番奥の部屋に大きな字で「新井京子」の表札がかけてあった。姉は表札を指し「ああうう」と言った。自分の名前はわかるのだ。私は嬉しかった。居室のオリエンテーション後、体温、脈拍、血圧測定を済ませた師長は、「わからないことがありましたら、遠慮なさらないでこのブザーを押して呼んで下さいね」、と言って部屋を出ていった。
 ベッドに腰かけた姉と向きあわせの椅子に腰かけた私は姉の手をとりお互いの手をしみじみ眺めた。手の甲には青い血管が浮き出し曲がりくねって走るさまが二人ともそっくりだった。爪の形も似ていた。「あら同じね」と顔を見合わせて笑った。姉の手は皺だらけで柔らかだったが私の手は炊事、洗濯、掃除、庭仕事で荒れていた。「危ないから」という理由で和男は姉に家事一切をやらせなかった。姉はやりたがった。姉の家を訪ねた時、茶菓の準備をしようとする姉を叱り飛ばす義兄に、私は「やらせた方が姉の為になる」と言った。アルツハイマー型認知症の診断を受けたとしても、残された能力を引き出し、少しでも人の役に立つ体験をさせることが大切ではないかと話した。しかし義兄は頑固に「駄目だ」と突き放した。姉は悲しそうな顔をして言った。「この人、怒ってばかりいるの」
 私の家に連れて帰りたい衝動にかられたこともあった。義兄もそれを察したのか「人のうちのことに口をだすな。もう来なくていい」と私を遠ざけた。
 5月に義兄が先に亡くなり姉が一人残された。太郎家族が車で片道一時間のところに住んでいたが同居は学校と職場の関係で無理だった。ケァマネージャーと相談して月曜日から金曜日まで短期宿泊制度を利用した。金曜日夜に太郎が施設から連れて帰り、姉の家で三泊した後、月曜日朝、施設に送り届けるという生活を半年続けていた。太郎には大学受験を控えた娘と共働きの妻がいた。土日は全部京子の為に時間を費やし家庭サービスには手が回らなくなっていたようだ。
 私は義兄亡き後、姉を家にひきとり、一緒に暮らせないかと考えたが、86歳の夫が体調不良をきたしその介護があった。速足でどこまでも歩いていってしまう姉と共に暮らすのは80を過ぎた私には体力的に無理であった。もう少し若ければ!と願っても歳には勝てない。「お姉ちゃんごめんね」と謝るのみであった。
 Kホームの殺風景なこの部屋に姉一人を残して帰るのは忍びなかった。
 太郎の妻文美は姉の持ち物すべてに名前を記し、備え付けのタンスの引き出しに分類しながら収める作業をしていた。
「ブンちゃん、姉のこと、いろいろ有難う。大変だったでしょう」
と労わると彼女は肉付きの良い体をゆすって笑いながら言った。
「お義母さん、いっぱい生徒さんから来た手紙、みんな大事にしているから、どうしていいかわからないで困っています。捨てられないしそれが一番大変。ベッドの下はお義母さんの詩集で一杯、これもどうしたらいいかわからない」
北京出身の彼女は日本語が覚束ないところはあるが、コミュニケーションには事欠かない。話していると憂鬱な時も気が晴れてくる雰囲気を持っていた。
「姉の詩集、ブンちゃん読んだ?」
「はい。大好き。読んでいて涙が出るのもあったよ」
「涙が出たという詩、“みかん”という詩ではないかしら。実は今日一冊持ってきたのよ」
私はバッグから姉の詩集を取り出した。
「ミカンという詩、読ませてもらっていいかしら」
文美が頷いたので私は「みかん」という詩を姉にも聞こえるように読んだ。
みかん

私はみかんの詩を読みながら、姉が集団疎開したZ寺と1キロ離れたA寺で私も一人で大雪を見ていた日の事が思い出された。この詩を二人でもっと話したかった思いが胸に迫ったが、ベッドに腰かけていた姉は途中で靴のまま横になってしまっていた。
「疲れたのよ、お義母さんを少し寝かせましょう。」
文美は靴を脱がせて、戸棚から毛布を出し義母に掛けてからしみじみした口調で言った。
「校長先生までやったお義母さんでしょう。生徒さんから卒業したあとでも“先生結婚しました”とか“恋人に振られました”とか山のように手紙が届くやさしい先生だったお義母さんがどうして認知症なんかになってしまったのか不思議でたまらないわ」
「わからないのは私も同じよ。アルツハイマー病の原因はアミロイドベータという特殊なたんぱく質が脳の中にシミを作りながら神経細胞を傷つけてしまって記憶障害が起きると言われているの。けれど何が原因でシミが出来てしまうのか、それはまだわからないらしいわ」
私はまごつきながら答えたが、もしかしたら脳の変化を起こすのは長年のストレスではないかと推測していた。姉の詩集に、わたしのなつやすみ その(一)という短い詩があった。
草もち 目次

三泊四日の
臨海学校から帰る
へとへとに 疲れ果てて
わたしを待っていたものは
  わんぱく息子どもの こしらえた
せんたくものの山
一学期間 放っておいた
台所のレンジの汚れ
冬物の整理に ふとんの綿入れ
そして――
うんざりしたような 夫の顔
読みかけの本と
書きかけのノートを
横目でにらみながら
やおら立ち上がって 働き出す
毎年のことながら
こうして
わたしの夏やすみが はじまる

 夏やすみの詩は その(九)迄あったが私が注目したのは、2連目の最後のうんざりしたような夫の顔、というところであった。
私は義兄の笑顔をここ何十年見たことがなかった。姉と同じ大学の1年先輩で歴史研究会サークルで知り合い、姉の卒業を待って結婚した二人だった。
 義兄は坂口安吾の「白痴」で卒業論文を書き、中学校の国語教師として定年まで働いた。共働き夫婦だったが家事育児は姉に任せきりだった。私が義兄に初めて会った時、色白で哲学者を思わせる風貌だった。そして明るい人だった。いつの頃から笑顔のない人に変化してしまったのか。坂口安吾を読み込んでいた和男はどんな思いでこの時期を生き抜いたのであろうか。もっと話を聞いておけばよかった、という後悔の念に苛まれたが、義兄はもうこの世にいない。
 毎日精一杯働き帰宅後、夫のうんざりしたような顔と付き合い、何十年かの歳月を経た時、人の脳はどんな風に変化するのだろうか。文美はどう考えるだろうか。
 みかんと同じように文美に夏休みの詩を聞いてもらった後で私は聞いた。
 「私がこの詩を読んだのは二連目のうんざりしたような夫の顔、というところについてブンちゃんの感想を聞きたかったからなの。
 毎日精一杯働いて家に帰ると一番身近で頼りにしたい夫がうんざりした顔をしていて、それが365日、何十年かの歳月を経た時、人の脳はどんな風に変化するのだろうかと考えた事はありませんか」
文美は首を傾けながら言った。
 「そうすると、瑠璃子さんはお義父さんがお義母さんの認知症の原因になったと言いたいのですか。それは酷い。亡くなったお義父さんは本当に優しくてよい人でした」
 文美の反撃にあい、私は言葉を失った。人間の内面と外面の話をしてもなんになろうか。認知症の原因はまだわからない。原因の決め手のない中でさまざまな認知症予防のための栄養、運動、休養の普及活動は目覚ましい昨今である。しかし認知症になってしまった人が地域で生活していくのは大丈夫なのだろうか。
 北京出身の文美は国境を越え、認知症の義母と腕を組んで歩きトイレの世話も厭わない。
 「お義母さんの詩、私大好きですから大丈夫です。お義母さんのお世話苦にはなりません。毎日だと困りましたけど、これからは車で30分の距離なので、花見に連れていったりできます。瑠璃子さんも自分のお体、大切にしてください」
 私は、立ち上がって文美の豊かな胸に顔を埋め、背中に手を回し「ありがとう」と心を込めて言った。

 姉と夕食まで付き合ってから帰るという甥夫婦を残して私は一足先に帰ることにした。姉も起きたので、一緒に迷路の通路を通って玄関へ出た。太郎と施設職員との入所面談がちょうど終わったところだったので、一緒に写真を撮ることになった。黒のスーツに身を包み、ホテルのフロントマンのような青年がシャッターを押してくれた。姉は笑顔だった。人を信じて疑わない澄んだ目をしていた。
「さよなら、またくるね」
と言いながら姉を抱きしめた。脆く崩れていくような感触だった。姉の意見を聞きたいことが沢山ある。相談したいのに答えは返ってこない。 
 「我思う。故に我あり」デカルトの言葉が今、姉と共に味わえないことを思うと悲しみに襲われる。80年余りこの荒涼たる光景を見るために生きてきたのかと思うと何ともやるせない思いに打ちひしがれた。長い道を重荷を負って誠実に、精一杯生きてきて疲れ果て、今すべての事から解放されて子供に返って私の前に存在している姉新井京子はどんな世界をさまよっているのだろうか。認知症の人を「二度童子」とは、言い得て妙であると思う。

 バスはなかなか来なかった。夕焼けが消え、薄墨色に覆われた街に一人で立ち竦んでバスを待っていると姉の声が背中の方から聞こえてきたような気がした。
「瑠璃子ちゃん、あなたは私より2歳も若いのよ。元気を出してね」
 振り返ると着崩れした姉が一人小股で歩いて芒原の中へ消えて行った。私は丸くなった背筋を伸ばし姉が消えて行った方向に目を凝らした。(了)

(担当:ゆっちょむ)

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