さつき会ブログ

さつき会イベント委員の有志が会員の皆さんと一緒に様々な情報をお伝えしていきます。           (※ブログ内の関連情報は、興味をお持ちの方にさらに深く知って頂くためのものです。さつき会として販売促進するものではありませんのでご了解ください。)

菫色の夕暮れ

エッセイCM(2)

今月もさつき会会員の松村幸子さん(1958医・衛生看護)の作品をご紹介します。お寄せ頂いた作品の中から、今月の担当Mikkieが特に選ばせて頂いたものです。

すみれ色の空-5

栗山丸子が木村さん宅を訪問しようと思いましたのは昨夜の会議の結果を受けてのことでした。このところ体調が勝れず、小説を読んでも頭に入らないまま、月に一度の町会主催の「一人暮らし見守り会議」の日が来て出席したのです。会議は老人いこいの家で6時から始まりました。夕方6時、主婦は一番忙しいのよね、こんな時間に会議は困るわ、と言いながらも委員は10人全員出席でした。男女5人ずつ、高齢者ばかりです。丸子が80歳で最高齢、後任を決めてほしいと議題にあげていました。代表のコロは10人の顔ぶれを見まわしながら、丸子に目を留め細い眼を更に細くして言いました。
「丸子さんと同じ班の木村さんですが、同居のお母さんが昨年百歳で亡くなられて、介護していた娘さんが現在一人暮らしのようです。年齢は60代後半でしょうか。丸子さんの後任としてゆっくりサロンの運営にも関わって貰えないかも含めて当たってみて頂けますか。後任が見つかるまで、丸子さんは辞めないで続けて下さい」
自分で後任を決めないと開放されないとは厳しい話だと内心反発しながらも丸子は言いました。
「一寸厳しいですが、やってみます。1人で行くのは不安なのでどなたか一緒に行って頂けますか」
私が行きましょうと誰も手をあげる人がいないまま、とりあえず丸子が様子を伺ってきてその結果でまた考えるということなりました。「ゆっくりサロン」の新年度案内に訪問予定者の氏名を記入した用紙を受け取り散会したのは7時過ぎでした。

「一人暮らしを見守る会」は83歳の独り暮らしの女性が孤独死したことをきっかけにこんな悲しいことがあってはいけない、明日はわが身に起きることではないかと発足し、女性委員の数を増やした方がよいという時に、丸子は町会長より依頼されて引き受けました。瞬く間に五年が経過し、「ゆっくりサロン」発足にも関わることが出来ました。サロンの日には弁当持参で参加し会の企画運営に携わって3年が経過していました。委員を引受けてよかったと思う反面、80代になったら辞めようと考えていました。「60歳を過ぎたら要職から離れるべきだ」という養老猛司の説に従おう。もっと若い人にバトンタッチして若い感性で会を運営してほしいという思いでした。
弥生3月の夕方、気だるい身体を無理やり起こして、町会関係の書類箱から木村様と宛名の入ったチラシを取り出し、それを持って家を出ました。曇り空からは今にも雨が降ってきそうな気配です。見通しのよい路地には人影も人声もありません。茶色のブチ猫が音もなく出てきて通路の真中で立ち止まり丸子を見上げているだけの寂しさです。嘗てこの路地では子供達が缶けりをして賑やかな声が響いていたのに子供たちは塾や部活で忙しいのでしょうか。1人で家の中に居てスマホに夢中になっているのでしょうか。声も姿もありません。
木村さん宅は四季折々にクリーム色の蔓バラが咲き乱れるので通りすがりに立ち止まって匂いを嗅がせてもらった家でした。どんな人が住んでいるのだろうと想像したこともありました。低い門扉の取手を回して玄関に通じる石畳を歩くのは初めてのことで不安を覚えました。沈丁花の匂いに背中を押され玄関のインターホンを押しました。少しの間をおいてはいという女声が聞こえました。鍵が外され扉が外側に開きました。白髪で丸顔、中肉中背の女性が鈍色の服を着て立っていました。丸子は毛糸の帽子を脱いで自己紹介をしながら用件を伝えました。

クリーム色のバラ (3)

「はじめまして。木村さんと同じブロックの私、栗山丸子です。今年度の『ゆっくりサロン』のお誘いのチラシが出来ましたので持って参りました。今月は次の日曜日です。ご都合は如何でしょうか」
チラシにちらりと目を走らせた木村さんはさっぱりした口調で言いました。
「私はまだいいです。大丈夫ですから」
木村さんはまだサロンを利用しなければならない程自分は年老いてはいないと主張したかったようでしたので続けて私は言いました。
「木村さんにはボランテイアとしてサロンの運営にも携わって頂けたら、と町会の推薦がありましてお伺いしたのです。私も実は80歳になりまして後任を同じ班の中で見つけなければならないのです」
木村さんはその問いには答えずに丸子の顔を見ながら何かを思い出すような様子で問いかけてきました。
「栗山さんのおうちは公園の前の共産党のポスターが貼ってあるお家ですか。お母さんがいませんでしたか」
とうの昔に96歳で死んだ母を覚えてくれている人に出会えた感動を丸子は抑えきれずに言いました。
「はい、そうです。母にいつ頃どこで会ったのですか」
「いいえ、私ではなく、百歳で昨年亡くなった私の母が、可哀想なおばあちゃんがいるのよと話していたのが栗山さんのお母さんだったのではとふと思ったものですから。あなたが東大を出て大学教授になったという方ですか」
木村さんの問いが不意打ちでしたのでうろたえながら私は言いました。
「そんなこと誰から聞いたのですか。母がそう言ったのですか。過ぎ去った昔の肩書は歳とった今、何の意味もありません」
それには答えずに木村さんはまた聞いてきました。
「弟さん、いらっしゃいますか」
「ええ、3人いましたが1人は食道ガンで死にました。」
「弟さんがいたとすると私の母の話はやっぱり栗山さんのお母さんのことだと今はっきりわかりました。『娘が遠くに行くことになって私はここにいられなくなった。息子の所へ行けと言われているけれど、本当はここから離れたくない。娘と一緒にここに居たい』と涙ながらに訴えたらしいですよ。母も同情したのだと思います。可哀想なお祖母ちゃんがいると私に話してくれましたから」
木村さんの話に丸子は衝撃を受けました。母は一言もそんなことを私には言いませんでしたから。定年後の就職先が決まったことを告げた時、一言私も一緒に連れていっておくれよ、と言ったことは覚えています。丸子は教師になりたかったのです。その機会が定年後にやっと巡って来たのですから、それをやめて母とずっと一緒に住むことにしようなどとは露ほども考えていませんでしたから、一言のもとに答えました。
「だめよ。私の行く浜松には誰もお母さんの知合いはいないでしょ。私も初めての仕事だからきっと朝早くから夜遅くまで家には帰れないと思うの。たった1人で誰も知らない土地で誰とも口をきかずに一日過ごしたら呆けがますます進んじゃうよ。だめだめ」
その時の母の悲しそうな顔が浮かび、どっと涙が溢れそうになるのを堪えました。
丸子は60歳定年退職直後に地方の大学に単身赴任したのですから、多分その前後に木村さんのお母さんに出会い、胸の内を話さずにはいられなかったのでしょう。その時木村さんのお母さんは実の娘にも言えない別れの悲しみをじっと聞いて下さったのです。どんなに有り難かったでしょうか。母は弟の所へも事情があって行くことが出来ないまま、遠い埼玉の老人介護施設に入所しその6年後に肺炎で亡くなりました。丸子の母はどんなにさびしい思いを抱えてこの地から離れて行ったことでしょうか。その時の母の年齢に近づいた今、母の心境に思いを馳せる時、申し訳なかったと謝りたい気持ちで一杯になりました。
木村さんに対しては母がお世話になっていた事すら知らずに、丸子は浜松に5年、新潟に4年の単身赴任を終えてこの地に戻ってきてからもそのことを何も知らずに何十年も過ごして来て、昨年木村和江さまの訃報を回覧で見た時も付き合いのない人としてお悔やみもしていませんでした。恥ずかしい思いと母への申し訳なさで涙をこらえながら失礼を詫び、早々に木村さん宅を辞しました。

数日後木村さんが丸子の家を訪ねて来ました。「栗山さんの後任は引き受け兼ねます」と先日の半年間の予定表を返却に見えたのです。返された予定表を受け取りながら、私は先日来考えていたことを口にしてみました。
「木村さん、お願いがあるのですが、いつかご都合のよい時に、お母様のご仏前にお線香をあげさせていただけませんか」
木村さんは即答しました。
「はい、いいですよ。母も喜ぶと思いますので私からもお願いします。ただ仏壇を掃除しなければならないので少し時間を下さい」
恐縮しながら丸子は言いました。
「我が家も掃除出来なくてめちゃくちゃですから気にしませんから、そのままでよいのですがすみません。何時頃伺ったらよいでしょうか」
木村さんは丸顔を綻ばせて言いました。
「2日後ということにしましょうか。時間は電話でやりとりしましょう。町会名簿に載っている電話番号は替えましたから、4×××にお願いします」
番号が覚えられなくて私は急いで言いました。
「あ、電話番号をもう一度、メモしておかないとすぐ忘れてしまうものですから」
80歳を超えてから頓に物忘れが酷くなったのを自覚していました。今聞いたことをメモしておかないと大変です。すぐに何だったか思い出せなくなってしまうのです。玄関のメモ用紙に電話番号を記入し、木村さまと名前も入れました。数字だけ書いておくとそれが何の数字だか分からなくなるのです。困ったものです。夜になって連絡を取り合い2日後の3時に伺うことになりました。(続く)

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さつき会総会2022 「性差(ジェンダー)の日本史」

さつき会CM(0)

こんにちは、リポーターの若山です。
いつもは「つくばの良いところ発信」として好きに記事を書かせていただいているのですが、
このたび2022年さつき会総会に参加させていただきました。
自身の備忘録を兼ねて、記事を書かせていただきます。

さつき総会2022式次第-2

今回の総会のゲストは横山百合子さん。演題は「展示を創る~文化のジェンダーギャップを越えて~」です。
2020年秋、国立歴史民俗博物館で開催された「性差(ジェンダー)の日本史」について講演を伺いました。

この展示会、現地でも拝見したのですが、博物館の展示で泣くという、生まれて初めての経験をしました。
実物があること。その実物の展示の仕方から伝わってくる人間の真摯さ。実物の「在ること」の圧倒的な説得力。
そのため、このたびお話を聴けることを大変楽しみにするとともに、こんなに貴重なお話を伺えるさつき会というコミュニティが在ることのつよさを感じていました。

私は、ブログのリポーターをしているほどなので、もともと書くことが好きです。
ただ、社会人になってから、子育てをはじめてから、書きたいことが山ほどあるのに書く時間が取れないことに悩んでいました。

書きたい思いが在ります。
働きながら、子育てをしながら、「人間とは?」と疑問に思うことばかりの日々です。
それは、自身の思いを客観化したい、という願いだけではなく、書き残すことで、2022年の日本という島国の片隅にこういう歴史が在ったのだということ、在ったという証拠を残したい。
そういう願いです。
しかし、働きながら子育てしながら資格の勉強をしながら、なにはともあれ時間がとれない。

「書く」ためにはふたつの余裕が必要です。
まず、思考のための時間的余裕、精神的余裕。そしてその思考を書き記すための時間的余裕。
現代日本社会では、「母親」にとっても「会社員」にとっても、「余裕」はぜいたく品です。
書く時間がない。
それは自分という人間が歴史に残れない。という空恐ろしさに繋がります。

書く時間がない。
私は大学までの教育課程で書くための訓練を受けてきた人間なので、きっと人類史で考えたらものすごく恵まれている方です。
きっと歴史上、紀元前からずっと、残したい思いがあるのにそのための時間や能力がない、という歯がゆい葛藤をしてきた人間は、数えきれないほどでしょう。
それは性別や人種を超えた共通のくやしさかもしれません。

スクリーンショット (39)

そういう葛藤について最近もやもやと考えていたわけですが。
今回、横山さんのお話を伺っていて、「歴史」とは「歴」と「史」である。
つまり、「史」が文字資料の世界、「歴」が文字資料以外の人類の足跡、という風なお話がちらりと資料に載っていました。
(きちんとメモができなかったのでうろ覚えです。私の記憶と解釈です)

「史」が文字として残っている史料であるならば、「歴」はたとえば、はにわや衣類、遺跡などから出土するような、多種多様な史料です。
「史」だけではなく、「歴」も含んで、歴史を紐解くこと。
横山さんをはじめとして、名探偵のように、諦めずに、人が生きてきた足跡を辿ってくれる人たちがいること。
それは、「史」に入れなかった人にとってはどれだけ嬉しいことだろう、と泣きそうになりました。

現代社会で生きていると、ときどき泣きそうになります。
さつき会みたいに言葉を話せば通じる場所が在れば、
家庭でも会社でも、そして国会のような政治的な公の場所でも、言葉が通じない場所があるのも又、生きている者としての実感です。
粘土層みたいに、いくら言葉を尽くして語っても通じない空間があります。

そういうときに、私などは、もういいかと思考を放り出して、無力感に身を投げ出したくなることもあるのですが、
今回の総会で、もうすこし思考を投げ出さずに歩いてみようかと思いました。

スクリーンショット (50)

茨の道を歩いてきた先人たちが、さつき会をはじめとして、目を凝らせば社会のあちらこちらに砂金のなかの宝石のように光っていらっしゃるので、
マイクロアグレッションに押しつぶされず、
自分の限られたリソースを、善き方向に、善き方向に手向けていきたいと感じた一日でした。

※関連情報:さつき会ホームページ/総会

※掲載の写真は、さつき会イベント委員会総会チームが提供したものです。
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ニュートンのりんごの木

東京都CM(3)

我が家の近くにある電気通信大学には、正門を入ったところに「ニュートンのりんごの木」が2本あります。
今、小さな実が4つも生っているのです。

ブ-電通大2

ニュートンは庭にあったりんごの木から実が落ちるのを見たのがきっかけで万有引力の法則を発見したと言われています。
元の木は今では枯れてしまったそうですが、1964年に英国物理学研究所所長サザーランド卿から、日本学士院長 柴田雄次博士に1本の苗木が贈られました。
ところが、この苗木はウイルスを持っていたため焼却処分も検討されましたが、東京大学理学部附属小石川植物園で隔離され、努力の末にウイルスの無毒化に成功しました。
※この間の経緯は東京大学のホームページ に書かれています。興味のある方はご覧ください。

ブ-電通大

この電気通信大学の「ニュートンのりんごの木」は、1982年小石川植物園から東京農工大学に穂木が譲られ、1999年に同大工学部で根付いた株から接ぎ木した穂木を、2014年に東京農工大学から分けてもらったものです。

私は、この木が植えられたときから知っています。
初めて見たとき、「えっ、これって本当に「ニュートンのりんごの木」なの!?」ととても驚きました。
それから4年。2018年に初めて花が咲き、小さな青い実が2つ付きました。大きくなって赤く色づくのを楽しみにしていたのに、残念ながら2つとも大きくなる前に落ちてしまいました。
それからまた4年が過ぎ、今、小さな実が4つ付いているのです。
今度こそ、赤い実になって欲しいものです。

ところで、調布には神代植物公園にもう1本「ニュートンのりんごの木」があります。
こちらは、2010年に小石川植物園から寄贈されたものです。

ブ-神代植物公園

「巨大地震が甚大な被害をもたらしたこの年、人類が生み出した科学や技術について考えさせる機会になりました。このような年を意味づけるうえで、ニュートンのリンゴを記念樹として植えることにしたものです。」
平成23年(2011年)10月20日に神代植物公園サービスセンターが設置した説明板には、そう記されています。

英国にあった元の木は枯れてしまったそうですが、今でもケンブリッジ大学トリニティ・カレッジには「ニュートンのりんごの木」が植えられているそうです。
一方、日本に渡ってきた苗木は小石川植物園でウイルスの無毒化に成功した後、接ぎ木で増やされ、日本各地に広がりました。
小石川植物園では、1981年から一般公開されています。
もしかしたら、皆さんのお近くにも「ニュートンのりんごの木」があるかもしれませんね。

そうそう、この「ニュートンのりんごの木」は“ケントの花”という西洋りんごの品種だそうです。一体どんな味がするのでしょうか?生食には向かないと言いますが、一度食べてみたいものです。

1814年に伐採された原木で作られた椅子と余った木材が、現在英国王立協会と天文台に保存されています。
2010年には、この原木の10cmほどの木片とニュートンの肖像画がスペースシャトル・アトランティスで宇宙を旅しました。ミッション終了後には、もちろん英国王立協会に戻されました。

(担当 Mikkie)


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