さつき会ブログ

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犬をつれた奥さん

エッセイ

さつき会会員の松村幸子さん(1958年医・衛生看護)からお寄せいただいた作品をご紹介します。


   ぺんぺん草

ペンペン草や猫じゃらしが生い茂っている道端で草を食んでいる雑種犬がいた。夕方の買い物に出かける途中だった亮子は思わず
「ポンタ君?」
と声をかけた。先日新聞配達をしていた時見かけて名前を教えてもらった犬に似ていたので自分の記憶力を確かめたかった。
「いえ、サブです」
飼い主らしい奥さんが答えた。
「あ、ごめんなさい。私、目が悪くなって見分けがつかなくなってしまって」
と言いながら亮子はしゃがみこんで犬の耳の付け根のあたりをゆっくり撫でた。亮子の仕草を見ていた奥さんが小さな声でアッと言いながら亮子に聞いた。
「村野さんではありませんか」
「はいそうですが」
答えながら飼い主の奥さんを見上げた。白のスラックスに濃紺のシャツの襟元には赤のスカーフが覗いていた。
「一郎君はお元気ですか、例子ちゃんも、絵美ちゃんも」
亮子は一瞬焦った。この人は誰だろう?全く分からない。それなのにこの奥さんはうちの子供たちの名前まで知っている。どなたさまで?と聞く訳にはいかない。どのあたりに住んでいるかが分かれば家に帰って町会の名簿を見れば分かるかもしれないとかすかな期待をこめて、亮子は言った。
「お住まいはどちらでしょうか。私はT町会ですが」
奥さんはここから自分の家までの道のりを丁寧に教えてくれたが亮子は帰宅後地図の上で奥さん宅を探し出す自信がなかった。やはり苗字だけでも聞いておかねばと恥を忍んで聞いた。
「私、最近記憶力が駄目になってしまいまして、お名前が思い出せないのです。失礼ですが、お名前を教えて頂けないでしょうか」
「中村文子です。M駅降りてすぐの所に以前レストランがあったのを覚えていらっしゃいますか。今は時計店になってしまっているけれどあそこはうちのレストランだったのです。」
亮子は記憶を辿った。確かに明るくて美しい姉妹が経営しているレストランがあった。まだフアミレス等がない頃、子供の卒業式や入学式の時、家族で食事に行ったことのあるレストランで洋風のスープが美味しかった。
「はい、覚えています。スープが美味しくてすてきなご姉妹が働いていらっしゃいました。あの時の店主さん?」
「いえ、私は妹の文子です。村野さんに頼まれてレストランで働いてもらった人いましたよね」
咄嗟に言われて思い出せなかった亮子は戸惑いながら言った。
「いろいろお世話になりました。すっかりご無沙汰してしまいまして、もうあれから何年くらい経つのでしょうか」
草をまさぐり終えた犬のサブが帰りたそうにリードを引っ張るのに気づいて、またお会いしましょうと亮子は文子と別れた。

   IMG_1767.png

 買い物を済ませて家に着くと亮子は早速町会の名簿と地図を取り出し文子の家を探したがすぐには見つからなかった。番地が並んでいないので家探しが困難な地域だった。名字で索引してやっと探し当てた。亮子の家から五分もかからないで歩いて行ける近さだったが今まで一度も出逢ったことがなかったことが不思議だった。
遅くなってしまった夕食の支度に台所に入ると夫と次女がいたので早速聞いた。
「犬をつれた感じのよい奥さんが家の子三人の名前をみんな知っていたのよ。どうしてなの?」
酵素作りに余念がなかった次女の絵美が答えた。
「駅前のそのレストランであたし達アルバイトしていたの」
「エッいつ?」
「あたしは中学に入ってすぐかな。れー姉は高校時代、兄ちゃんは中学の時だよ」
「エッ知らなかった。今の今まで知らなかった初めて聞くことだわ。なんで親にも黙ってアルバイトなんかしたの」
問いただすと絵美は夏みかんの乱切りと砂糖をかき混ぜる手を休めて言った。
「相談したくてもお母さんはいつも家にいなかったじゃない。朝早くから夜遅くまでお母さんは仕事に夢中だった。あたし達より仕事が大事だったのよ」
「そんなことないわよ。あなたたちのこと何よりも大切に思っていたわ。だけど帰れない事情がお母さんにもあったのよ。聞いてくれる」
今更その時の事を説明してみたところで始まらない、とは思った。時は過ぎ去り何もかも過去のことになった今、何を言っても空しく響くだけかもしれない。しかし、仕事優先の為に子供たちをないがしろにしたと言われてはあまりにも悲しい。色褪せ凋んでいった四十五年も前のことを亮子は手繰り寄せようとして言った。
「私が保健所から精神障害者のリハビリテーション施設に転勤になったのは知っているよね。絵美が生まれる二年前だから昭和四十六年かな。保健所では昼間の勤務が主だったけれど、そこは二十四時間患者さんが生活する場所だったから勤務も三交代制で昼間八時間、夕方四時半から真夜中の十二時迄八時間、十二時から朝まで八時間働くという勤務をしていたのよ。私は係長に任命され入所者だけでなく係全体を見ていかなければならなかったの。毎日やることが山のようにあって、仕事が終わることはなかったから帰りたくても帰れなかったの。いつも考えたことはどうしたら一日も早く患者さんたちが社会復帰できるかということ、社会復帰に向けて病棟は何を大事にしていくかをみんなで討論して決めていたの。看護職だけではなく、社会福祉職、作業療法士、臨床心理職に精神科医など多くの職種がデイケア部門、就労援助部門を作って働いていたから意見の違いがあって喧嘩になって泣くことも沢山あった。国が予算化した新しい社会復帰施設だったから見学者も次次に来て経験してみないとわからない位の忙しさだった時、事故があって」
「もういいよ。そんなのみんな言い訳じゃない。聞きたくないよ」
絵美に遮られて亮子は二の句が継げなくなった。精神障碍者も人として認められ社会復帰の可能な社会を作ることを目指して馬車馬のように働いた日々、その結果手にしたのは、母親のような生き方はしたくないという絵美たちの反旗だった。
気を取り直して亮子は夫に聞いた。
「お父さんは子供たちがアルバイトするのを許したの」
「いや知らなかった。今始めて聞いてびっくりしている」
「お父さんにも相談しなかったの」
矛先がまた自分に返ってきそうなことを察知した絵美は、夏みかんの匂う琺瑯の器を抱えて自分の部屋に退散してしまった。
いづれにしてもレストランの文子たちにお世話になって絵美たちは育ったのだ。遅ればせになってしまったけれどお礼とお詫びに行かなければならないと亮子は夫と話し合った。


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数日後、犬を連れた奥さん宅を訪ねた。積もる話を聞きたいと思った。親の知らない子供たちの様子など、知りたいことはたくさんあった。産地直送の果物と絵美が用意してくれた酵素の詰め合わせを持った。雨が降っていたので犬の散歩には出ていないと予測して出掛けたのだったが留守であった。

玄関

一度家に戻った亮子は落ち着けなかった。子供たちがお世話になっていることも知らずに長い年月を重ねていた。その上レストランの文子たちには仕事上でもお世話になっていたことが蘇ってきたのだ。先日出会った時、文子が話していた「村野さんに頼まれて働いてもらった人」というのは亮子が嘗て担当したことのあるT氏だった。
T氏は入所後数年を経ていたが、その間何回も働くことに挑戦しながら就労中断をくりかえしていた。駅前で通いやすく、理解があり、人当たりのよいレストランで働くことは食事の確保もできることを考え合わせ、T氏に絶好の職場ではないかと亮子は考えた。自分が担当した人を少しでも早く社会復帰させたいという「めくら蛇に怖じず。猪突猛進」で突き進む心意気だけは旺盛であったが精神障害者についての偏見は根強い時代であった。職員の中にも偏見があった。家族会が市に要求していた保護工場建設が国の理解を経て予算と土地が決まり周辺の自治会に理解を求める説明会を開催したのがきっかけで反対運動が起き、三年間開設が出来なかった。そういう時代であったが、T氏を働かせて貰えないかを相談した時、
「いいですよ。どんなこともやってみなければわかりませんから」
と店主と文子が快諾してくれた。T氏もここなら働いてみてもよいと言ったので試験就労の手続きを進めることが出来た。その時のうれしかったことが蘇った。
 
昼過ぎに電話を入れ、在宅を確かめてから訪問した。雨は止んでいた。一戸建ての庭付き住宅の玄関に立ち、ブザーを押した。サブの啼き声がしてしばらく経ってから鍵を開ける音がしてドアが内側から外へ少しだけ開いた。外来者を招じ入れるのを躊躇している様子が伝わって来た。亮子は持参した品を渡してお礼を言いたいと中へ入れてもらおうとしたが、玄関には新聞、雑誌類が散乱し、足の踏み場がなかった。昔のきれいだった明るいレストランと、目の前の散乱したゴミの山の玄関との格差に呆然となりかけたが気を取り直して亮子は言った。
「ごめんなさい。ちっとも知らなくて中へ入ってしまい申訳ありません」
謝りながら亮子はT氏を受け入れてくれたことと子供達がアルバイトをさせてもらった礼を言った。足元で啼くサブを抱き上げながら文子は言った。
「夫を三年前に亡くしてから整理整頓ができなくなりいつの間にかゴミが溜まり、こんな風になってしまって。今は友人とも外で会うようにしているのです」
文子の声には張りがなかった。何と声をかけたらよいか、昔の亮子だったらすぐに一緒に片づけましょう。手伝わせて下さい、と言わずにはいられなかっただろう。しかし今は亮子自身が八十歳を過ぎ、腰痛とひざ痛でしゃがんで片付けができなくなっていた。自分が手伝えなくてもヘルパーに依頼するとか社会資源を使って片づける方法はさまざまあるだろう。提案しながら目の前の状況を改善して心地よく生活できるようにするにはどうしたらよいかを文子の気持ちに沿いながら考えることが求められているのかもしれない。亮子はお礼を言いたい人がもう存在しないことに頭を垂れて言った。
「そうでしたか。ご主人さま亡くされたのでしたか。三年も前だったのですね。知りませんでした。失礼をお許し下さい。ご命日はいつでしょうか。ご命日にはぜひお線香をあげさせて下さい。障害をかかえて苦労していた人とうちの子供たちにも働く機会を与えて下さったことのお礼を申し上げたいのです」
文子は申訳なさそうに言った。
「うちの中も散らかっていて人様に上がっていただくことはできないのですよ。誰も家には上げないでどんな人とも外で会うようにしているのです」
亮子は頷きながら言った。
「我が家も似たり寄ったりです。働いているときは特にひどかったですよ。新聞や雑誌をかき分けないと布団が敷けなかったのです。ゴミの山の中で布団を敷いて寝ました。将にブルーシート族でした」
サブをなでていた文子の唇が微かにほほ笑んだように思えた。亮子はいつも片付けが下手な自分にコンプレックスを抱いていた。どこの家もドアを開けるとピカピカに磨き上げられ、塵ひとつない玄関だった。どうしてこんなにきれいにしておけるのだろうと不思議だった。自分の家よりひどい状況の玄関に出会って、ほっとする気持ちを隠すことはできなかった。気持ちが和らいでいく自分があった。肩の力を抜いて、
「これから どうしたら」
と解決の道を一緒に考えていけそうな希望が微かに見えた気がして玄関の外へ出ると雨が止んだ空に虹がかかっていた。 了  
          

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