さつき会ブログ

さつき会イベント委員の有志が会員の皆さんと一緒に様々な情報をお伝えしていきます。           (※ブログ内の関連情報は、興味をお持ちの方にさらに深く知って頂くためのものです。さつき会として販売促進するものではありませんのでご了解ください。)

ローマンカモミールをお花から楽しむ

ガーデニングCM(0)

カモマイル横

 数多いハーブの中で、「カマイメロン~大地のりんご~」の由来をもつカモミールは甘いリンゴのような香り、初夏から夏にかけて咲く白く可憐な花、鳥の羽のような葉を持つ植物として親しまれています。
 ひとくちにカモミールといっても一年草のジャーマンカモミール、多年草のローマンカモミールなどの分類が異なる複数の種類があります。一般に日本では一年草のジャーマンカモミールの方がハーブとして普及しその利用方法がいろいろな場所で紹介されていますが、どちらのカモミールも「鎮静」「消化作用」など似たような薬効があります。(菊アレルギーの方は要注意です)
 元々はローマンカモミールの方が古いという説があり、英語圏の人々はこのローマンカモミールを、またゲルマン民族はジャーマンカモミールを、カモミールと思っていたようです。
 二種類の見分け方は、花の中心部が盛り上がって葉が匂わないのがジャーマンカモミール、花の中心部分が平たく葉っぱまで匂うのがローマンカモミールです。

 我が家では、ここ数年、イギリス、チェダー朝時代から「香る芝生」「踏めば踏むほど良く育つ」と言われているローマンカモミールを咲く花を愛でながら育てています。
 イギリスではローマンカモミールもお茶にします。そういえば、ピーターラビットの以下の場面は有名ですね。たとえば WEDGWOOD社の食器にも引用されています。

ピーターラビットお皿JPG

(いたずら好きのウサギ・ピーターはウサギを食べてしまう恐ろしい人間がいるにも関わらず、農場へ忍び込みお野菜をぱくぱく食べてしまいます。食べることに夢中のピーターは人間が近寄ってきたことに気がつかず見つかってしまいます。 ピーターは一生懸命に逃げて無事家に帰りついたものの、お野菜の食べすぎでお腹が痛くなってしまいます、その次の場面です)

Peter was not very well during the evening. His mother put him to bed, and made some camomile tea: “One table-spoonful to be taken at bed-time.”
  ~"PETER RABBIT" WEDGWOOD社の食器より引用~

 日本でも京大名誉教授で歌人永田和宏氏は下記のようにカモミールティーについて短歌を詠んでいます。歌人で病身の妻・河野裕子さんの存在とカモミールの花のはかなげな感じを重ね合わせたのでしょうか。

カモミール淹れようかと言ふ存在のはかなき午後の陽の翳る庭


収穫前2
お花の中央部分が盛り上がってきたら収穫のサインです

 カモミールは花が小さく収穫に手間がかかりますが、香りに癒されます。花の中心の黄色の部分がこんもりしてきたら収穫です。

乾燥中89
お花だけ摘みました

乾燥中3
乾燥後です

 フレッシュのままお茶にして楽しむと書いている本がありますが、私は乾燥させたお花をカップ(ポット)に入れてお湯を注ぎ約三分間蒸らしていただいています。ほのかにうすみどり色でお花の香りが漂うお茶はさっぱりとした味わいで中国の菊茶にくらべはるかに飲みやすいです。一般にジャーマンカモミールより苦みがあると言われるローマンカモミールですが、生育環境の違いのせいか苦みは感じません。
訂正後お茶


 私のハーブ知識はあくまで初心者級で、個人の楽しみのご報告としてこのブログを上梓しましたことをご了承ください。
(担当⁑ アレクサンドリア)


参考文献⁑
『ハーブのプランター・鉢づくり』 津久田和正・北野佐久子著 文化出版局
『おいしいハーブ暮らし12か月』 北村光世著 世界文化社
『たとへば君 四十年の恋歌』 河野裕子・永田和宏著 文芸春秋

関連情報⁑みんなの趣味の園芸


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------



菫色の夕暮れ

エッセイCM(2)

今月もさつき会会員の松村幸子さん(1958医・衛生看護)の作品をご紹介します。お寄せ頂いた作品の中から、今月の担当Mikkieが特に選ばせて頂いたものです。

すみれ色の空-5

栗山丸子が木村さん宅を訪問しようと思いましたのは昨夜の会議の結果を受けてのことでした。このところ体調が勝れず、小説を読んでも頭に入らないまま、月に一度の町会主催の「一人暮らし見守り会議」の日が来て出席したのです。会議は老人いこいの家で6時から始まりました。夕方6時、主婦は一番忙しいのよね、こんな時間に会議は困るわ、と言いながらも委員は10人全員出席でした。男女5人ずつ、高齢者ばかりです。丸子が80歳で最高齢、後任を決めてほしいと議題にあげていました。代表のコロは10人の顔ぶれを見まわしながら、丸子に目を留め細い眼を更に細くして言いました。
「丸子さんと同じ班の木村さんですが、同居のお母さんが昨年百歳で亡くなられて、介護していた娘さんが現在一人暮らしのようです。年齢は60代後半でしょうか。丸子さんの後任としてゆっくりサロンの運営にも関わって貰えないかも含めて当たってみて頂けますか。後任が見つかるまで、丸子さんは辞めないで続けて下さい」
自分で後任を決めないと開放されないとは厳しい話だと内心反発しながらも丸子は言いました。
「一寸厳しいですが、やってみます。1人で行くのは不安なのでどなたか一緒に行って頂けますか」
私が行きましょうと誰も手をあげる人がいないまま、とりあえず丸子が様子を伺ってきてその結果でまた考えるということなりました。「ゆっくりサロン」の新年度案内に訪問予定者の氏名を記入した用紙を受け取り散会したのは7時過ぎでした。

「一人暮らしを見守る会」は83歳の独り暮らしの女性が孤独死したことをきっかけにこんな悲しいことがあってはいけない、明日はわが身に起きることではないかと発足し、女性委員の数を増やした方がよいという時に、丸子は町会長より依頼されて引き受けました。瞬く間に五年が経過し、「ゆっくりサロン」発足にも関わることが出来ました。サロンの日には弁当持参で参加し会の企画運営に携わって3年が経過していました。委員を引受けてよかったと思う反面、80代になったら辞めようと考えていました。「60歳を過ぎたら要職から離れるべきだ」という養老猛司の説に従おう。もっと若い人にバトンタッチして若い感性で会を運営してほしいという思いでした。
弥生3月の夕方、気だるい身体を無理やり起こして、町会関係の書類箱から木村様と宛名の入ったチラシを取り出し、それを持って家を出ました。曇り空からは今にも雨が降ってきそうな気配です。見通しのよい路地には人影も人声もありません。茶色のブチ猫が音もなく出てきて通路の真中で立ち止まり丸子を見上げているだけの寂しさです。嘗てこの路地では子供達が缶けりをして賑やかな声が響いていたのに子供たちは塾や部活で忙しいのでしょうか。1人で家の中に居てスマホに夢中になっているのでしょうか。声も姿もありません。
木村さん宅は四季折々にクリーム色の蔓バラが咲き乱れるので通りすがりに立ち止まって匂いを嗅がせてもらった家でした。どんな人が住んでいるのだろうと想像したこともありました。低い門扉の取手を回して玄関に通じる石畳を歩くのは初めてのことで不安を覚えました。沈丁花の匂いに背中を押され玄関のインターホンを押しました。少しの間をおいてはいという女声が聞こえました。鍵が外され扉が外側に開きました。白髪で丸顔、中肉中背の女性が鈍色の服を着て立っていました。丸子は毛糸の帽子を脱いで自己紹介をしながら用件を伝えました。

クリーム色のバラ (3)

「はじめまして。木村さんと同じブロックの私、栗山丸子です。今年度の『ゆっくりサロン』のお誘いのチラシが出来ましたので持って参りました。今月は次の日曜日です。ご都合は如何でしょうか」
チラシにちらりと目を走らせた木村さんはさっぱりした口調で言いました。
「私はまだいいです。大丈夫ですから」
木村さんはまだサロンを利用しなければならない程自分は年老いてはいないと主張したかったようでしたので続けて私は言いました。
「木村さんにはボランテイアとしてサロンの運営にも携わって頂けたら、と町会の推薦がありましてお伺いしたのです。私も実は80歳になりまして後任を同じ班の中で見つけなければならないのです」
木村さんはその問いには答えずに丸子の顔を見ながら何かを思い出すような様子で問いかけてきました。
「栗山さんのおうちは公園の前の共産党のポスターが貼ってあるお家ですか。お母さんがいませんでしたか」
とうの昔に96歳で死んだ母を覚えてくれている人に出会えた感動を丸子は抑えきれずに言いました。
「はい、そうです。母にいつ頃どこで会ったのですか」
「いいえ、私ではなく、百歳で昨年亡くなった私の母が、可哀想なおばあちゃんがいるのよと話していたのが栗山さんのお母さんだったのではとふと思ったものですから。あなたが東大を出て大学教授になったという方ですか」
木村さんの問いが不意打ちでしたのでうろたえながら私は言いました。
「そんなこと誰から聞いたのですか。母がそう言ったのですか。過ぎ去った昔の肩書は歳とった今、何の意味もありません」
それには答えずに木村さんはまた聞いてきました。
「弟さん、いらっしゃいますか」
「ええ、3人いましたが1人は食道ガンで死にました。」
「弟さんがいたとすると私の母の話はやっぱり栗山さんのお母さんのことだと今はっきりわかりました。『娘が遠くに行くことになって私はここにいられなくなった。息子の所へ行けと言われているけれど、本当はここから離れたくない。娘と一緒にここに居たい』と涙ながらに訴えたらしいですよ。母も同情したのだと思います。可哀想なお祖母ちゃんがいると私に話してくれましたから」
木村さんの話に丸子は衝撃を受けました。母は一言もそんなことを私には言いませんでしたから。定年後の就職先が決まったことを告げた時、一言私も一緒に連れていっておくれよ、と言ったことは覚えています。丸子は教師になりたかったのです。その機会が定年後にやっと巡って来たのですから、それをやめて母とずっと一緒に住むことにしようなどとは露ほども考えていませんでしたから、一言のもとに答えました。
「だめよ。私の行く浜松には誰もお母さんの知合いはいないでしょ。私も初めての仕事だからきっと朝早くから夜遅くまで家には帰れないと思うの。たった1人で誰も知らない土地で誰とも口をきかずに一日過ごしたら呆けがますます進んじゃうよ。だめだめ」
その時の母の悲しそうな顔が浮かび、どっと涙が溢れそうになるのを堪えました。
丸子は60歳定年退職直後に地方の大学に単身赴任したのですから、多分その前後に木村さんのお母さんに出会い、胸の内を話さずにはいられなかったのでしょう。その時木村さんのお母さんは実の娘にも言えない別れの悲しみをじっと聞いて下さったのです。どんなに有り難かったでしょうか。母は弟の所へも事情があって行くことが出来ないまま、遠い埼玉の老人介護施設に入所しその6年後に肺炎で亡くなりました。丸子の母はどんなにさびしい思いを抱えてこの地から離れて行ったことでしょうか。その時の母の年齢に近づいた今、母の心境に思いを馳せる時、申し訳なかったと謝りたい気持ちで一杯になりました。
木村さんに対しては母がお世話になっていた事すら知らずに、丸子は浜松に5年、新潟に4年の単身赴任を終えてこの地に戻ってきてからもそのことを何も知らずに何十年も過ごして来て、昨年木村和江さまの訃報を回覧で見た時も付き合いのない人としてお悔やみもしていませんでした。恥ずかしい思いと母への申し訳なさで涙をこらえながら失礼を詫び、早々に木村さん宅を辞しました。

数日後木村さんが丸子の家を訪ねて来ました。「栗山さんの後任は引き受け兼ねます」と先日の半年間の予定表を返却に見えたのです。返された予定表を受け取りながら、私は先日来考えていたことを口にしてみました。
「木村さん、お願いがあるのですが、いつかご都合のよい時に、お母様のご仏前にお線香をあげさせていただけませんか」
木村さんは即答しました。
「はい、いいですよ。母も喜ぶと思いますので私からもお願いします。ただ仏壇を掃除しなければならないので少し時間を下さい」
恐縮しながら丸子は言いました。
「我が家も掃除出来なくてめちゃくちゃですから気にしませんから、そのままでよいのですがすみません。何時頃伺ったらよいでしょうか」
木村さんは丸顔を綻ばせて言いました。
「2日後ということにしましょうか。時間は電話でやりとりしましょう。町会名簿に載っている電話番号は替えましたから、4×××にお願いします」
番号が覚えられなくて私は急いで言いました。
「あ、電話番号をもう一度、メモしておかないとすぐ忘れてしまうものですから」
80歳を超えてから頓に物忘れが酷くなったのを自覚していました。今聞いたことをメモしておかないと大変です。すぐに何だったか思い出せなくなってしまうのです。玄関のメモ用紙に電話番号を記入し、木村さまと名前も入れました。数字だけ書いておくとそれが何の数字だか分からなくなるのです。困ったものです。夜になって連絡を取り合い2日後の3時に伺うことになりました。(続く)

※続きをお読みになるには、下の「続きを読む >>」をクリックしてください。

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

さつき会総会2022 「性差(ジェンダー)の日本史」

さつき会CM(0)

こんにちは、リポーターの若山です。
いつもは「つくばの良いところ発信」として好きに記事を書かせていただいているのですが、
このたび2022年さつき会総会に参加させていただきました。
自身の備忘録を兼ねて、記事を書かせていただきます。

さつき総会2022式次第-2

今回の総会のゲストは横山百合子さん。演題は「展示を創る~文化のジェンダーギャップを越えて~」です。
2020年秋、国立歴史民俗博物館で開催された「性差(ジェンダー)の日本史」について講演を伺いました。

この展示会、現地でも拝見したのですが、博物館の展示で泣くという、生まれて初めての経験をしました。
実物があること。その実物の展示の仕方から伝わってくる人間の真摯さ。実物の「在ること」の圧倒的な説得力。
そのため、このたびお話を聴けることを大変楽しみにするとともに、こんなに貴重なお話を伺えるさつき会というコミュニティが在ることのつよさを感じていました。

私は、ブログのリポーターをしているほどなので、もともと書くことが好きです。
ただ、社会人になってから、子育てをはじめてから、書きたいことが山ほどあるのに書く時間が取れないことに悩んでいました。

書きたい思いが在ります。
働きながら、子育てをしながら、「人間とは?」と疑問に思うことばかりの日々です。
それは、自身の思いを客観化したい、という願いだけではなく、書き残すことで、2022年の日本という島国の片隅にこういう歴史が在ったのだということ、在ったという証拠を残したい。
そういう願いです。
しかし、働きながら子育てしながら資格の勉強をしながら、なにはともあれ時間がとれない。

「書く」ためにはふたつの余裕が必要です。
まず、思考のための時間的余裕、精神的余裕。そしてその思考を書き記すための時間的余裕。
現代日本社会では、「母親」にとっても「会社員」にとっても、「余裕」はぜいたく品です。
書く時間がない。
それは自分という人間が歴史に残れない。という空恐ろしさに繋がります。

書く時間がない。
私は大学までの教育課程で書くための訓練を受けてきた人間なので、きっと人類史で考えたらものすごく恵まれている方です。
きっと歴史上、紀元前からずっと、残したい思いがあるのにそのための時間や能力がない、という歯がゆい葛藤をしてきた人間は、数えきれないほどでしょう。
それは性別や人種を超えた共通のくやしさかもしれません。

スクリーンショット (39)

そういう葛藤について最近もやもやと考えていたわけですが。
今回、横山さんのお話を伺っていて、「歴史」とは「歴」と「史」である。
つまり、「史」が文字資料の世界、「歴」が文字資料以外の人類の足跡、という風なお話がちらりと資料に載っていました。
(きちんとメモができなかったのでうろ覚えです。私の記憶と解釈です)

「史」が文字として残っている史料であるならば、「歴」はたとえば、はにわや衣類、遺跡などから出土するような、多種多様な史料です。
「史」だけではなく、「歴」も含んで、歴史を紐解くこと。
横山さんをはじめとして、名探偵のように、諦めずに、人が生きてきた足跡を辿ってくれる人たちがいること。
それは、「史」に入れなかった人にとってはどれだけ嬉しいことだろう、と泣きそうになりました。

現代社会で生きていると、ときどき泣きそうになります。
さつき会みたいに言葉を話せば通じる場所が在れば、
家庭でも会社でも、そして国会のような政治的な公の場所でも、言葉が通じない場所があるのも又、生きている者としての実感です。
粘土層みたいに、いくら言葉を尽くして語っても通じない空間があります。

そういうときに、私などは、もういいかと思考を放り出して、無力感に身を投げ出したくなることもあるのですが、
今回の総会で、もうすこし思考を投げ出さずに歩いてみようかと思いました。

スクリーンショット (50)

茨の道を歩いてきた先人たちが、さつき会をはじめとして、目を凝らせば社会のあちらこちらに砂金のなかの宝石のように光っていらっしゃるので、
マイクロアグレッションに押しつぶされず、
自分の限られたリソースを、善き方向に、善き方向に手向けていきたいと感じた一日でした。

※関連情報:さつき会ホームページ/総会

※掲載の写真は、さつき会イベント委員会総会チームが提供したものです。
-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

ニュートンのりんごの木

東京都CM(3)

我が家の近くにある電気通信大学には、正門を入ったところに「ニュートンのりんごの木」が2本あります。
今、小さな実が4つも生っているのです。

ブ-電通大2

ニュートンは庭にあったりんごの木から実が落ちるのを見たのがきっかけで万有引力の法則を発見したと言われています。
元の木は今では枯れてしまったそうですが、1964年に英国物理学研究所所長サザーランド卿から、日本学士院長 柴田雄次博士に1本の苗木が贈られました。
ところが、この苗木はウイルスを持っていたため焼却処分も検討されましたが、東京大学理学部附属小石川植物園で隔離され、努力の末にウイルスの無毒化に成功しました。
※この間の経緯は東京大学のホームページ に書かれています。興味のある方はご覧ください。

ブ-電通大

この電気通信大学の「ニュートンのりんごの木」は、1982年小石川植物園から東京農工大学に穂木が譲られ、1999年に同大工学部で根付いた株から接ぎ木した穂木を、2014年に東京農工大学から分けてもらったものです。

私は、この木が植えられたときから知っています。
初めて見たとき、「えっ、これって本当に「ニュートンのりんごの木」なの!?」ととても驚きました。
それから4年。2018年に初めて花が咲き、小さな青い実が2つ付きました。大きくなって赤く色づくのを楽しみにしていたのに、残念ながら2つとも大きくなる前に落ちてしまいました。
それからまた4年が過ぎ、今、小さな実が4つ付いているのです。
今度こそ、赤い実になって欲しいものです。

ところで、調布には神代植物公園にもう1本「ニュートンのりんごの木」があります。
こちらは、2010年に小石川植物園から寄贈されたものです。

ブ-神代植物公園

「巨大地震が甚大な被害をもたらしたこの年、人類が生み出した科学や技術について考えさせる機会になりました。このような年を意味づけるうえで、ニュートンのリンゴを記念樹として植えることにしたものです。」
平成23年(2011年)10月20日に神代植物公園サービスセンターが設置した説明板には、そう記されています。

英国にあった元の木は枯れてしまったそうですが、今でもケンブリッジ大学トリニティ・カレッジには「ニュートンのりんごの木」が植えられているそうです。
一方、日本に渡ってきた苗木は小石川植物園でウイルスの無毒化に成功した後、接ぎ木で増やされ、日本各地に広がりました。
小石川植物園では、1981年から一般公開されています。
もしかしたら、皆さんのお近くにも「ニュートンのりんごの木」があるかもしれませんね。

そうそう、この「ニュートンのりんごの木」は“ケントの花”という西洋りんごの品種だそうです。一体どんな味がするのでしょうか?生食には向かないと言いますが、一度食べてみたいものです。

1814年に伐採された原木で作られた椅子と余った木材が、現在英国王立協会と天文台に保存されています。
2010年には、この原木の10cmほどの木片とニュートンの肖像画がスペースシャトル・アトランティスで宇宙を旅しました。ミッション終了後には、もちろん英国王立協会に戻されました。

(担当 Mikkie)


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

柳宗悦がこだわり抜いた日本民藝館

博物館めぐりCM(0)

今回は、さつき会会員haoさんから、懐かしい駒場東大前にある日本民藝館の情報をお寄せいただきました。

駒場東大前駅から歩いて10分弱の日本民藝館に行ってきました。
駅から住宅街の舗装道路を道なりに歩いていくと、斜め右に曲がった先に、日本民藝館の建物が忽然と現れます。
訪れた日は天気もよく、日本家屋のたたずまいと青空のコントラストがとてもきれいで、印象に残りました。
民芸館 入口

『日本民藝館は、「民藝」という新しい美の概念の普及と「美の生活化」を目指す民藝運動の本拠として、1926年に思想家の柳宗悦(1889-1961)らにより企画され、実業家で社会事業家の大原孫三郎をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、1936年に開設された。』
(HPより抜粋)
日本民藝館では、美術館というよりは大きな家のような場所に、自然と物を置いたような手法で品物が置かれていました。
品物は、免震のためにテグスで物を固定したり、免震台を使うこともなく、また展示ケースもなく、ガラス張りの棚に整然と、調和を考えて配置されていました。
また、品物の説明書き(キャプション)は漆塗りの板に朱書きで物の名前と時代、素材しか書かれていません。
これは「知識で物を見るのではなく、直観の力で見ることが何よりも肝要であるという、柳の見識によるものです。」とパンフレットに紹介されていました。
木の引き戸2
本館の入口

長屋門
西館(柳の旧自宅)

民藝館本館、西館(柳の自宅)ともに柳の設計によるもので、細部までこだわり抜いて建てられたそうです。
展示の手法の独特さ、館内の品物の良さとともに、建物の内部をあれこれ見るのも楽しかったです。
入館料は大人1,200円ですが一生に一度くらいは見ておいて損はないかもしれません。
ご興味のある方はぜひ。

日本民藝館

さつき会会員hao

(担当:ゆっちょむ)

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

二度童子

エッセイCM(2)

先月に引き続き、さつき会員の松村幸子さん(1958医・衛生看護)の作品をお届けします。
今月は、幼い頃から力強い助人(すけっと)であり、頼りになる存在、そして今はアルツハイマー型認知症を患うお姉さまへの思いを綴った作品を選んでいただきました。

                             
「おふくろが12月20日にKホームに入ります。昼前にHが丘の家を出発して昼食を食べてからホームに向かう予定です」
姉京子の長男太郎からのメールを受信した私はすぐに返信した。
「わかりました。当日は姉に同行しますのでよろしくお願いします」
その日、私は姉の処女詩集「教室の手帳」を本棚から取り出して読んだ。赤い表紙の詩集をめくると「運動靴の配給」という詩が目にとまった。
運動靴の配給

 姉は、「こんな教師にはならないぞ」という決意を胸に秘め、都下の小学校を歴任し、定年の時はHが丘第1小学校の校長だった。定年後も区立教育センターの教育指導員として更に8年働いた。2歳下の私はいつも姉の後ろについて歩き、お下がりの服を着て、姉の読む本を読み、困ったことがあるとなんでも姉に相談した。
 中学時代、何のために生きているのかわからなくなり、うつ状態に陥った時、チャップリンの「ライムライト」と「女一人大地を行く」という三池炭鉱の闘争を描いた山田五十鈴主演の映画に誘ってくれたのは姉だった。定収のない新劇俳優との結婚に踏み切れずに迷っていた時、背中を押してくれたのも姉だった。
 「家ではなんでも話すのに、外では一言も口をきかないので誰も友達がいない」という孫の男子中学生について知人から相談された時も、すぐに姉に電話をかけた。「それは場面緘黙症という病気かもしれない。関連した本を送るから読んで、相談機関を紹介してあげたらどうかしら」
 一事が万事、姉に相談することで絡まった糸が解れていくように物事がよい方向に動いていく体験をした。

 力強い助人であった姉がアルツハイマー型認知症になったという連絡を受けた時は晴天の霹靂だった。一体認知症とは何者で、いつ頃から始まったのだろうか。
 「私は小さい弟たちを兵児帯で負ぶって育てたので背が伸びなくて小さいの」
 150センチに満たない身長を嘆いて繰り返し話すようになったのは下から二番目の弟が59歳の時食道がんで亡くなった(2001年)頃からであったろうか。同じことを繰り返し話すようになるのが認知症の始まりということを聞いていたが、まさか自分たちの姉が認知症になるとは、誰も想像出来ないことだった。親戚で集まる時は、いつも進行役を務めてくれたし、私たちは姉に頼り切っていた。
 弟が亡くなった時を同じくして姉の夫和男が喉頭がんの手術を受け、一命をとりとめて退院した。年子で生まれた息子の太郎と次郎は伴侶を得て独立し、Hヶ丘の家は姉夫婦のみとなった。姉は退院後の夫のリハビリと介護に精を出していたようだ。
 私は1995年3月、K市役所を定年退職後、N県の私立大学に特任教授として単身赴任をしていた。姉の詩集の出版祝いを最寄りの温泉地で企画した2005年3月、癌から生還した和男と共に参加した姉は、口数が少なく、物静かであった。和男も不機嫌に黙り込み、姉が会の進行を務めた時のように宴は盛り上がらなかった。
 この時の写真を今回手にとって眺めた。姉は不安を押し殺したような表情で作り笑いをしている事に気付いた。当時全く気付かなかったのは迂闊であった。この頃から内部で誰にも分らないまま人格の崩壊が始まっていたのだろうか。

 2016年12月20日、街にはクリスマスソングが鳴り響き、年末の買い物客で賑わう中、太郎夫婦と待ち合わせ、一緒に食事をした。彼は手慣れたように「おふくろ何食べる」と問いかけながらオムレツを注文した。食欲は旺盛でほぼ全量摂取したが、姉はこれから50年住み慣れた家を離れホームに入ることを理解しているとは思えなかった。一人で子供のようにはしゃいでいた。
 私は姉から貰ったグレイのオーバーを着て、姉の詩集と認知症治療に有効と言われる回想法に使えそうな昔の写真をアルバムから抜いて数枚を用意していた。
「このオーバー、お姉ちゃんにもらったオーバーよ。とっても温かいわ。有難う」
と話しかけた。姉は“そうだったかしら”というような表情をして私を見た。私が妹ということを認識しているのかどうか覚束ない表情だった。私は姉と腕を組み、太郎のワゴン車の後部座席に並んで座り、青春時代に姉に教えてもらったゴンドラの歌をハミングした。「命短し、恋せよ乙女・・・」黒沢明の「生きる」という映画も姉と一緒に池袋の人生座で観た。しかし姉の記憶からは全く消えて
しまっていた。はっきりしない言葉をしゃべり続けるが、意味不明である。それは録音テープを異なる周波数で再生した時のようだった。歌を諦めて、両親と祖母と姉が雛壇をバックにした写真を見せた。着物にお被布の愛らしい女児が自分であることを認知出来なかった。関心も示さない。回想法は使えなかった。どこまで崩れてしまったのか。しっかりした姉はどこへ行ってしまったのか。指を絡ませて指相撲を試みた。姉の手は白く柔らかで幼児の手を思わせた。
 Kホームの玄関は総ガラス張りのホテルのような構えだった。姉にはグループホームのようなこじんまりした家庭的なところがよいと思って私は提案をしていたがやはりこういう大型の施設に決まってしまったのは残念だったが、太郎が介護保険担当のケアマネージャーと相談して決めたのだから尊重しなければ、と自分に言い聞かせた。天井が高い明るいフロアの応接セットに腰を下ろして太郎が母の入所手続きを終えるのを待っている私たちに担当の介護福祉担当者と看護師長が近づき名刺を姉にもきちんと渡して言った。
「今日からここを自分のおうちと思って過ごして下さいね。困ったことがあったら何でも遠慮なく言って下さい。私たちはKホームに入所して下さった方が気持ちよく安心して暮らせるように一生懸命お手伝いいたしますから」
白衣の胸元のポケットには花柄のハンカチが覗いていた。ひらがなの大きな字で書かれたネームプレートも手づくりのようだった。
優しそうな師長に出会えて安堵した。自己紹介後、居室に案内してくれた。迷路のような通路を通り別棟の2階一番奥の部屋に大きな字で「新井京子」の表札がかけてあった。姉は表札を指し「ああうう」と言った。自分の名前はわかるのだ。私は嬉しかった。居室のオリエンテーション後、体温、脈拍、血圧測定を済ませた師長は、「わからないことがありましたら、遠慮なさらないでこのブザーを押して呼んで下さいね」、と言って部屋を出ていった。
 ベッドに腰かけた姉と向きあわせの椅子に腰かけた私は姉の手をとりお互いの手をしみじみ眺めた。手の甲には青い血管が浮き出し曲がりくねって走るさまが二人ともそっくりだった。爪の形も似ていた。「あら同じね」と顔を見合わせて笑った。姉の手は皺だらけで柔らかだったが私の手は炊事、洗濯、掃除、庭仕事で荒れていた。「危ないから」という理由で和男は姉に家事一切をやらせなかった。姉はやりたがった。姉の家を訪ねた時、茶菓の準備をしようとする姉を叱り飛ばす義兄に、私は「やらせた方が姉の為になる」と言った。アルツハイマー型認知症の診断を受けたとしても、残された能力を引き出し、少しでも人の役に立つ体験をさせることが大切ではないかと話した。しかし義兄は頑固に「駄目だ」と突き放した。姉は悲しそうな顔をして言った。「この人、怒ってばかりいるの」
 私の家に連れて帰りたい衝動にかられたこともあった。義兄もそれを察したのか「人のうちのことに口をだすな。もう来なくていい」と私を遠ざけた。
 5月に義兄が先に亡くなり姉が一人残された。太郎家族が車で片道一時間のところに住んでいたが同居は学校と職場の関係で無理だった。ケァマネージャーと相談して月曜日から金曜日まで短期宿泊制度を利用した。金曜日夜に太郎が施設から連れて帰り、姉の家で三泊した後、月曜日朝、施設に送り届けるという生活を半年続けていた。太郎には大学受験を控えた娘と共働きの妻がいた。土日は全部京子の為に時間を費やし家庭サービスには手が回らなくなっていたようだ。
 私は義兄亡き後、姉を家にひきとり、一緒に暮らせないかと考えたが、86歳の夫が体調不良をきたしその介護があった。速足でどこまでも歩いていってしまう姉と共に暮らすのは80を過ぎた私には体力的に無理であった。もう少し若ければ!と願っても歳には勝てない。「お姉ちゃんごめんね」と謝るのみであった。
 Kホームの殺風景なこの部屋に姉一人を残して帰るのは忍びなかった。
 太郎の妻文美は姉の持ち物すべてに名前を記し、備え付けのタンスの引き出しに分類しながら収める作業をしていた。
「ブンちゃん、姉のこと、いろいろ有難う。大変だったでしょう」
と労わると彼女は肉付きの良い体をゆすって笑いながら言った。
「お義母さん、いっぱい生徒さんから来た手紙、みんな大事にしているから、どうしていいかわからないで困っています。捨てられないしそれが一番大変。ベッドの下はお義母さんの詩集で一杯、これもどうしたらいいかわからない」
北京出身の彼女は日本語が覚束ないところはあるが、コミュニケーションには事欠かない。話していると憂鬱な時も気が晴れてくる雰囲気を持っていた。
「姉の詩集、ブンちゃん読んだ?」
「はい。大好き。読んでいて涙が出るのもあったよ」
「涙が出たという詩、“みかん”という詩ではないかしら。実は今日一冊持ってきたのよ」
私はバッグから姉の詩集を取り出した。
「ミカンという詩、読ませてもらっていいかしら」
文美が頷いたので私は「みかん」という詩を姉にも聞こえるように読んだ。
みかん

私はみかんの詩を読みながら、姉が集団疎開したZ寺と1キロ離れたA寺で私も一人で大雪を見ていた日の事が思い出された。この詩を二人でもっと話したかった思いが胸に迫ったが、ベッドに腰かけていた姉は途中で靴のまま横になってしまっていた。
「疲れたのよ、お義母さんを少し寝かせましょう。」
文美は靴を脱がせて、戸棚から毛布を出し義母に掛けてからしみじみした口調で言った。
「校長先生までやったお義母さんでしょう。生徒さんから卒業したあとでも“先生結婚しました”とか“恋人に振られました”とか山のように手紙が届くやさしい先生だったお義母さんがどうして認知症なんかになってしまったのか不思議でたまらないわ」
「わからないのは私も同じよ。アルツハイマー病の原因はアミロイドベータという特殊なたんぱく質が脳の中にシミを作りながら神経細胞を傷つけてしまって記憶障害が起きると言われているの。けれど何が原因でシミが出来てしまうのか、それはまだわからないらしいわ」
私はまごつきながら答えたが、もしかしたら脳の変化を起こすのは長年のストレスではないかと推測していた。姉の詩集に、わたしのなつやすみ その(一)という短い詩があった。
草もち 目次

三泊四日の
臨海学校から帰る
へとへとに 疲れ果てて
わたしを待っていたものは
  わんぱく息子どもの こしらえた
せんたくものの山
一学期間 放っておいた
台所のレンジの汚れ
冬物の整理に ふとんの綿入れ
そして――
うんざりしたような 夫の顔
読みかけの本と
書きかけのノートを
横目でにらみながら
やおら立ち上がって 働き出す
毎年のことながら
こうして
わたしの夏やすみが はじまる

 夏やすみの詩は その(九)迄あったが私が注目したのは、2連目の最後のうんざりしたような夫の顔、というところであった。
私は義兄の笑顔をここ何十年見たことがなかった。姉と同じ大学の1年先輩で歴史研究会サークルで知り合い、姉の卒業を待って結婚した二人だった。
 義兄は坂口安吾の「白痴」で卒業論文を書き、中学校の国語教師として定年まで働いた。共働き夫婦だったが家事育児は姉に任せきりだった。私が義兄に初めて会った時、色白で哲学者を思わせる風貌だった。そして明るい人だった。いつの頃から笑顔のない人に変化してしまったのか。坂口安吾を読み込んでいた和男はどんな思いでこの時期を生き抜いたのであろうか。もっと話を聞いておけばよかった、という後悔の念に苛まれたが、義兄はもうこの世にいない。
 毎日精一杯働き帰宅後、夫のうんざりしたような顔と付き合い、何十年かの歳月を経た時、人の脳はどんな風に変化するのだろうか。文美はどう考えるだろうか。
 みかんと同じように文美に夏休みの詩を聞いてもらった後で私は聞いた。
 「私がこの詩を読んだのは二連目のうんざりしたような夫の顔、というところについてブンちゃんの感想を聞きたかったからなの。
 毎日精一杯働いて家に帰ると一番身近で頼りにしたい夫がうんざりした顔をしていて、それが365日、何十年かの歳月を経た時、人の脳はどんな風に変化するのだろうかと考えた事はありませんか」
文美は首を傾けながら言った。
 「そうすると、瑠璃子さんはお義父さんがお義母さんの認知症の原因になったと言いたいのですか。それは酷い。亡くなったお義父さんは本当に優しくてよい人でした」
 文美の反撃にあい、私は言葉を失った。人間の内面と外面の話をしてもなんになろうか。認知症の原因はまだわからない。原因の決め手のない中でさまざまな認知症予防のための栄養、運動、休養の普及活動は目覚ましい昨今である。しかし認知症になってしまった人が地域で生活していくのは大丈夫なのだろうか。
 北京出身の文美は国境を越え、認知症の義母と腕を組んで歩きトイレの世話も厭わない。
 「お義母さんの詩、私大好きですから大丈夫です。お義母さんのお世話苦にはなりません。毎日だと困りましたけど、これからは車で30分の距離なので、花見に連れていったりできます。瑠璃子さんも自分のお体、大切にしてください」
 私は、立ち上がって文美の豊かな胸に顔を埋め、背中に手を回し「ありがとう」と心を込めて言った。

 姉と夕食まで付き合ってから帰るという甥夫婦を残して私は一足先に帰ることにした。姉も起きたので、一緒に迷路の通路を通って玄関へ出た。太郎と施設職員との入所面談がちょうど終わったところだったので、一緒に写真を撮ることになった。黒のスーツに身を包み、ホテルのフロントマンのような青年がシャッターを押してくれた。姉は笑顔だった。人を信じて疑わない澄んだ目をしていた。
「さよなら、またくるね」
と言いながら姉を抱きしめた。脆く崩れていくような感触だった。姉の意見を聞きたいことが沢山ある。相談したいのに答えは返ってこない。 
 「我思う。故に我あり」デカルトの言葉が今、姉と共に味わえないことを思うと悲しみに襲われる。80年余りこの荒涼たる光景を見るために生きてきたのかと思うと何ともやるせない思いに打ちひしがれた。長い道を重荷を負って誠実に、精一杯生きてきて疲れ果て、今すべての事から解放されて子供に返って私の前に存在している姉新井京子はどんな世界をさまよっているのだろうか。認知症の人を「二度童子」とは、言い得て妙であると思う。

 バスはなかなか来なかった。夕焼けが消え、薄墨色に覆われた街に一人で立ち竦んでバスを待っていると姉の声が背中の方から聞こえてきたような気がした。
「瑠璃子ちゃん、あなたは私より2歳も若いのよ。元気を出してね」
 振り返ると着崩れした姉が一人小股で歩いて芒原の中へ消えて行った。私は丸くなった背筋を伸ばし姉が消えて行った方向に目を凝らした。(了)

(担当:ゆっちょむ)

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------


出光美術館(東京)

美術館さんぽCM(0)

国宝「見努世友」とは?

新型コロナで閉館していた出光美術館が4月23日からようやく再開しました。
再開後の最初の展示は、「国宝『見努世友』と古筆の美」です。

古筆とは、一般的には平安時代・鎌倉時代の和歌を書いた筆跡を指しますが、広くは古人の優れた筆跡や絵画を意味し、歌書だけではなく、写経、物語、日記等その内容は様々なものがあります。これらは、時代が下るにつれ、切り分けられて、掛軸としたり、台紙に貼られアルバムのようなコレクション(手鑑=てかがみ)として鑑賞されていました。(出光美術館の説明より要約)

カタログ

今回、国宝の手鑑「見努世友=みぬよのとも」が2018年からの修復後初めて公開されています。中には、様々な古筆(「伝聖武天皇(大和切)」、「伝源実朝(中院切)」、「伝菅原道真(河内切)」、「伝紀貫之(荒野切)」等々)があり、きれいに修復されています。残念ながら私には読めませんが、筆者の性格や美意識がそこはかとなく伝わってきます。こうした古いものが長い間大切にされてきたことを考えると、私の親の世代には当然であった変体仮名や漢文の知識などが特別なものとなり、古いものが理解できなくなってきていることが残念な気がします。

ところで、私は出光美術館がとても好きなのですが、その理由はいくつかあります。
まず、アクセスがとてもよいことです。JR有楽町駅からも、多くの地下鉄の日比谷駅からもすぐのところにあります。(帝国劇場と同じビルといった方がわかりやすいでしょうか。)
また、小さな美術館で混雑していないので、ゆっくり鑑賞できることです。私は、全体をざっと見て、その後気に入った展示に戻りゆっくり見ることが多いのですが、戻るのが億劫になるほど広くはなく、また、並んで順番待ちをする必要もなく、好きなだけ見ていられます。
さらに、館内を30分ほど回りながら学芸員さんが見どころなどを説明してくれる「列品説明」というのがあります。展示を企画した学芸員さんだからなのだと思いますが、企画の狙いや展示物の面白いエピソードのほか、学芸員さんの個人的な思いや興味のポイントなども話してくださることがあります。

IMG_1131.png

最後にロビーです。皇居を望む大きな窓があり、自由に緑茶やほうじ茶をいただきながら、ゆったりと余韻にひたることができます。今回は小雨にけぶる新緑と遠くのビル群をながめることができました。

IMG_1134.png

 なお、現在は新型コロナの感染防止のため、「列品説明」と「給茶サービス」はやっていません。また、入館には事前予約が必要です。


 出光美術館

          (担当 Aozora)

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------


足裏の記憶

エッセイCM(0)

さつき会員の松村幸子さん(1958医・衛生看護)が、回想録やご自身の体験を基にした作品を寄稿してくださいましたので、さつき会ブログに順次掲載する予定です。
今月は、ご自身の9歳から10歳にかけての学童集団疎開の回想録「足裏の記憶」です。ウクライナの戦争が一刻も早く終わってほしいとの願いを込めて、初回の掲載に選んでいただきました。



 1945年1月10日、学童集団疎開に出発した日、私は9歳、東京第三師範学校(現東京学芸大学)付属国民学校3年生だった。姉同5年、弟同1年、未就学の5歳、3歳、0歳の弟妹と教員の父と母8人で板橋区(現練馬区)大泉の借家に住んでいた。雑木林と麦畑の広がる武蔵野の一隅で、朝は納豆売りの歌と太鼓で目が覚め、井戸水で顔を洗い、父が蠟燭を灯した神棚に全員で柏手を打って、神の国日本が永遠に栄えますようにと祈り、鶏、兎、山羊の世話をしてから全員で食卓を囲む平穏な生活は、第二次世界大戦により壊されていった。

 敵機襲来が頻発し、空襲警報が鳴り響き、登校してもすぐ下校になり、父が庭に掘削した防空壕へ逃げこむ日が続いていた。近くの東宝撮影所が狙われ、2トン爆弾が落ちて爆風にさらされた我が家の東窓ガラスは粉々になり、防空壕に入れず、座敷に寝かされていた末弟の上に降り注いだ。
 東京が危ない‼ 3年生以上の生徒と先生総勢200人余は、「学童疎開促進要綱」(1944年6月30日付極秘裏に閣議決定)により決まった学童集団疎開先、群馬県勢多郡新里村(現桐生市新里村)へ出発した。8時半に武蔵野線(現西武池袋線)、池袋駅東口広場集合、親と別れ、電車を乗り継ぎ新里村に到着したのは周囲が薄墨色に染まる頃だった。上毛電鉄武井駅前の広場で宿泊先のお寺の住職さんはじめ、寮母さんたちに出迎えられた生徒達は各寺院に分散して向かった。私の行く先は安養寺、姉は善昌寺、弟は3か月後に出発し、1、2年生は男女共、常廣寺だった。

 この日から敗戦8月15日を経て10月20日迄の9ヶ月10日間に体験したことは9歳の私にとって、二度と繰り返したくない体験であった。しかし、記録が残っていない。親からもらったハガキや手紙、日記、絵などは私が東京大学に入学し親元から離れた時、無断で処分されてしまった。この原稿を書くにあたって探し、1枚だけ見つかったのは、住職さんに召集令状が来て、出征の日の朝、生徒、先生、寮母さん全員で記念撮影した写真である。住職さんは幼い長男と、お腹に赤ちゃんを宿した妻に留守を託して出征した。赴任先は広島であったが、原爆投下の日が出産と重なり、里帰りしていて助かった。ということは後日わかった事である。両脇の担任教師はゲートル、詰襟の国防服、3、4年女子はモンペ姿で暗い顔をして並んでいる。寮母さんは、地元出身の献身的な方々で、親元を離れた疎開っ子の面倒を本当によくみて下さった。今考えると24時間勤務である。どこで休息をとっておられたのであろうか。
 この1枚を手掛かりに当時の記憶を辿ってみたい。戦後76年を経て記憶は覚束なくなっているがセピア色の写真と自分の足の裏が記憶していることを、まずは記して恒久平和への希求の一歩としたい。

学童集団疎開

 一つ目の記憶は勤労奉仕の時の足裏の熱さである。農家の働き手は次々に出征し、農作業の担い手がいなくなっていた。疎開っ子は農家から働き手として求められた。草むしり、トマト胡瓜などの収穫、桑の皮ひき、馬糞拾い、頼まれた事は何でもした。当時、畑仕事は裸足か草履だった。裸足の足裏は火傷しそうに熱かったのでサツマイモの葉などで日陰になっている土に足が着くようにして移動した。
 馬糞拾いは4人でカマスの4隅を持ち、農道を歩く牛や馬を見つけると、一目散に走って追いかけた。尻尾を振り上げて排泄してくれた時は、「ありがとう!」と叫んだ。探しても落ちていなくて、乾き切った農道にへばりついて居る便をシャベルでほじくりだす時は、情けなかったが泣かなかった。馬糞は畑の肥料として使われた。

 二つ目は冬の凍った道の冷たさである。村の国民学校へ全員で登校する日が時々あったが、登校日の朝、雨が雪に変わっていた。ゴム長靴はないし、運動靴には穴があいていた。母が縫ってくれた帯芯の足袋は穴がある運動靴より優れていると自分で考え、一足しかない新しい足袋をおろした。雪道を歩き出した時、帯芯はすぐに濡れてしまい、霙の冷たさが足裏を通して、体中に沁みこんできた。学校まで約3キロ、霙道を裸足で歩くに等しかったが、私は泣かなかった。兵隊さんはもっとつらい思いをしている。こんなことで泣いてたまるかと自分を鼓舞した。

 三つ目はよく歩いた道路の感触である。先生にお使いを頼まれて姉のいる善昌寺や5,6年生の男子学寮へ届け物をした。舗装されていない道は荷車の轍が続いていたり、牛馬の肥爪の跡が残っていたりするでこぼこ道であったが、ちびた下駄、藁草履で歩く感触は今も鮮やかに蘇る。預かったバターが溶け出して困ったこともあったが、役目を果たして帰れた時は嬉しかった。姉とはすれ違いで滅多に会えなかった。

 「お使いや勤労奉仕よりも私は勉強がしたい」と先生に申し出た時、先生から大声で怒鳴りつけられたことは忘れない。戦時下で勉強がしたい。というのは贅沢なことだった。「欲しがりません。勝つまでは」「鬼畜米英撃滅」と黒板に白墨で書き、がんばろうと疎開っ子たちは誓い合って布団に入った。
 布団に入ると蚤にやられた。蚤は布団を本堂わきの布団部屋から出して本堂に敷き詰める時、ぴょん、捕まえようとするとまたぴょんと跳んですぐ逃げられてしまうので、捕まえられなかった。運よく捕まえて指先で潰すと血を一杯吸っていた。気持ち悪くなり、虱とりは諦めた。いつも痒くて耐えられなかった。DDTもそんなに沢山あったようには思えなかった。みんな我慢強い疎開っ子であった。親元に早く帰りたいと泣き寝入りした。おねしょしてしまう友もいた。悲しい夜であった。四つ目の想い出である。

 五つ目はお寺の本堂の床の感触である。お寺の庫裡で朝、昼、夕食事をした。主食は高粱ご飯の時が多かったが、必ず寮母さんたちの手づくりの副菜が一皿あった。大根、かぼちゃの煮付け等だった。勤労奉仕に行った農家から野菜の差し入れがあり、大助かりだと寮母さんは云った。毎日の当番が決まっていて食器洗いと片付け、長細い食卓と、床を拭き掃除した。当番フリーの日は、食事が終わり、全員でご馳走様と挨拶した後、脱兎の如く、庫裡の渡り廊下を駆け抜けて本堂に向かう。目当ては本堂の壁側に設置された本棚の本であった。読みかけた本の続きが早く読みたいのである。「ジャンバルジャン」「家なき子」、「母をたずねて3千里」、「小公子」、「小公女」など貪るように読んだ。黒光りする本堂の床に足を投げ出して読書する時、本堂の床の感触はひんやりしていた。

 六つ目は、二歳年下の弟がパラチブスにかかり、常廣寺から大間々の避病院に入院した時のことである。弟は本堂の前の広間で鬼ごっこをしていた時、足の裏についた高粱の飯粒を食べたのが原因でパラチブスにかかった。父が見舞いに駆けつけた時は高熱が続き、意識朦朧状態で、どうしたら助けられるか。父は熟慮の末、弟が可愛がっていた山羊を絞めてその肉を近医に届けて、ブドウ糖アンプルと交換し、それを持って、避病院にとんぼ返りし医師に注射してもらったお陰で、一命をとりとめた。足裏についた飯粒を拾って食べしまうくらい、弟は腹がへっていたのである。私はこの弟の体験をもとに75歳の時「ぼくの仔山羊」という短編を書いたが、民主文学横浜支部誌23号合評会で本部誌推薦に一票差で敗れた。

 七つ目は虱である。洗濯の時、下着の縫い目にびっしり隙間なく並んで蠢いているのを見つけた時、寒気が来て、思わず下着を地面に放り投げて逃げた。寮母さんが熱湯で消毒して洗ってくれた。「二枚しかない下着でしょ。大切にしなければ」と諭された。お寺の脇の地面にしゃがんで洗面器に井戸水を汲んで一緒に洗濯していた同級生の一人が童話作家になった佐藤和貴子である。さとうわきこの「洗濯母ちゃんシリーズ」はS40年代生まれの子供たちとその母たちの人気をさらった。彼女は飯田市に絵本の美術館を作り、今も健在である。

 八つ目は童謡や創作した歌をよく歌ったことである。劇も作って配役を決めてお世話になっている村の人たちに披露した。私の創作の一つに、「バッタ見つけた」という短い童謡がある。「バッタ見つけた草の中、静かにそっとねらってみたが、ああとんだ、バッタとんで行っちゃった」という他愛ないものに動作をつけた。バッタも蚤も捕まえられないスロモーションの私をよく表現していると云われて、所望されると恥ずかしげもなく披露した。疎開地の寂しさを紛らせてくれた歌は86歳の現在も生きている。平和を願う合唱団に所属して歌うことは二度と戦争は嫌だという内に籠めた願いである。(了)


    (担当 Aozora)

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------


映画「ぼけますから、」

卒業生応援CM(0)

2020年10月のホームカミングデーにさつき会が上映した映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」(信友直子さん(84文)監督)をご記憶の方も多いと思います。
信友監督のご両親のその後を記録した映画「ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~」が3月25日から全国で順次公開されています。
さっそくご覧になったさつき会員のF.Aさんから、感想が寄せられました。


IMG_6568.jpg


IMG_6567.jpg

入学時の文Ⅲのクラスのオリター(一つ先輩)の信友直子さんが監督・語りをされたドキュメンタリー映画の第二作、『ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~』を観てきました! 念願かなって夫と一緒に。同級生の夫は前作公開の時には韓国に駐在中で、ホームカミングデーのさつき会主催のオンライン講演会で第一作を観ました。(上映後の歓談タイムになってみたら、Zoomギャラリーに女性ばかりで恥ずかしかった、と言っていました。)

いや、もう、ほんとうに・・・・・。涙覚悟で行きましたが、何度もうるっとしつつも号泣には至らず。第三者として泣くには、信友家のお暮しが深刻過ぎて真実すぎて明るすぎて。

全編に、愛の「かたち」と「言葉」があふれています。
「ありがとう
「・・・してあげたい
「ごめんね
「いてくれて嬉しい
「よろしく〜
家族にこそ、ちゃんと感謝と思いを伝えたい!

折しも最近、葬儀屋さんから「その時のための心構え」を聞いた時に、「しっかり家族会議をしておいてください」とお話があったことを思い出しました。生きることも死ぬことも、自分の意思をはっきりと伝えてこそ、周りの人も迷うことなく、お互いが満足のできる生活を送ることができるはずですね。
でも、夫婦のコミュニケーションは意外に難しい。我が家だけでしょうか?

「私にとって、介護の日々は親が命懸けでしてくれる最後の子育てだと思えました。」という監督の言葉(『しんぶん赤旗日曜版』インタビューより)が印象的でした。
信友さん、ご両親様、ありがとうございました。

 映画 「ぼけますから よろしくお願いします。~おかえり お母さん~



       (担当 Aozora)


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

魚沼生活52年

会員の活動CM(1)

☆ さつき会員の黒岩秩子さん(1963理)が投稿してくださった記事です。☆

 1963年、理学部数学科を卒業して、高校の数学の教員を6年、その後保育園で保母を1年終わったところで、夫の仕事の都合でここ新潟県南魚沼市浦佐に3人の子どもを連れて引っ越してきました。ここで保育園に19年務めたのち退職して、1990年家で、不登校や、障がいを持った方々も含めた塾を8年間運営していました。その間、参議院議員に立候補を促されて1995年に新党さきがけから全国区で立候補し落選したのですが、2001年に堂本暁子さんが、千葉知事になられた後、繰り上げ当選で、5か月間参議院議員をしました。

 浦佐の地元では、町立保育園の保母をしているときに受け持った知的障がい児のまあちゃんとさっちゃんにより価値観を180度転換させられました。まあちゃんさっちゃんが、保育園卒業後、上越にある養護学校に入って親元を離れて寄宿舎生活を始めました。6歳で親元を放せられることに疑問を感じながら、どんな障がいがあっても地域の中で生活できる地域を、と考える仲間が集まって、誰いうともなく「ともに育つ会」ができてしまいました。

 1996年春、夫が町長選に立候補して落選した時に、町長にならなくてもできることをしようということになって、「ともに育つ会」の仲間が、450坪の土地と5000万円を提供するから、何かを作ろう、と提案してくれ、1999年に社会福祉法人桐鈴会(桐が立っている畑を鈴木さんが寄付してくださりこの名前が付いた)が設立され、ケアハウス「鈴懸」が開設されました。「終の棲家」を詠ったケアハウスで、認知症になってしまう入居者のために、隣に認知症高齢者のグループホーム「桐の花」を立てました。その時に夫が古物商から100万で購入してあったお寺を移築して、グループホームと廊下で繋げました。そのお寺は夢草堂と名付けられ、講演会に音楽会(寄付されたグランドピアノあり)に展覧会に葬式場に集会場にと使われます。

桐の花

 「ともに育つ会」の仲間から障がい者の施設も、と言われ、2005年に障害者自立支援法ができて、知的、身体、精神、という縦割りが解消されて、「障がい者」にまとめられたので、障がい者の昼間生活する場「工房とんとん」とグループホームを2011年から作り始めました。今では、障がい者グループホームが3つ、相談支援事業所、障がい者日中活動の場などができて、高齢者施設と合わせて職員が全部で80人ぐらいになっています。

tonton.png

 2019年には、20周年記念行事が行われ、20周年記念誌が出来上がりました。この記念誌の名前は「迷惑をかけあえる関係を目指して」というもので、このタイトルを考えたのは、職員の一人です。職員全員が文章を寄せてくれ、すべてがあいうえお順で並んでいます。
 桐鈴会の理念の中に「迷惑をかけあえる関係」を目指す、というのがあるためです。利用者さんたちの家族さんは、たびたび「ご迷惑をおかけして」という言葉を使います。そのたびに職員たちが「ここは迷惑をかけあえるところですから」と応じているそうです。
 そんなこともあってか、どこの施設に行っても続かない人が工房とんとんにだけは喜んで通ってくださったり、警察に入ったり出たりしていた人が、桐鈴会のGHに入居したら、1週間ぐらいで「俺の人生、やり直す」と宣言してくれたりしています。詳しくは、桐鈴会のHPをご覧ください。

グループホームでの食事風景

すずカフェ

作品販売

パン売り場

テイクアウトの惣菜

 私がこちらに移住してきたのが、1971年、その翌年、上越新幹線が浦佐駅に止まることが決まりました。そのため、東京から7時間かかってきていたのに、いきなり1時間半で来られるようになってしまいました。
 夫が診療所に勤めていたのですが、町立病院を立てて、ここで往診もするような地域医療を支える病院「ゆきぐに大和総合病院」ができたので、毎年2,000人ぐらいの見学者が来られるようになりました。夫は行政を握って医療福祉の街にしたいということで、町長選挙に出たのですが、落選したので、浦佐に在宅医療を行う診療所「萌気園」を立てました。そして、在宅ケアの全国組織の会長を17年間やることになったのでした。
 桐鈴会も夫の診療所のおかげで、住んでいるお部屋で亡くなることが可能で、病院で亡くなる方はほとんどいない状態です。高齢者の皆さんは、「終の棲家」として桐鈴会のケアハウスや、グループホームを選んできてくださっています。
 夫は1970年に移住してきて、1年後に私と3人の子ども、そして夫の母が移住してきました。その後子どもは4人生まれて、今では孫が18人になっています。18歳で全国にちりぢりになっていた子どもたち、今では南魚沼市内に4家族が住み、新潟県には5家族が住んでいます。
 魚沼生活52年、82歳になり、そろそろ終活にとりかかっているところです。


☆ 黒岩さん、投稿有難うございました。☆
                 
               (担当 Aozora)


 -----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

愛宕山付近を散策する 

東京都CM(0) TB(0)

東京23区で一番高い山は?

東京23区で一番高い山をご存知ですか? 何とわずか標高25.7mの愛宕山が自然の山としては一番高い山だということです。今回はこの愛宕山付近を散策してみたいと思います。
愛宕山に行くには、日比谷線神谷町をはじめ、色々なルートがありますが、都営三田線の御成門から向かうことにしました。
東京慈恵医大の前にある青松寺の山門は花まつりバージョン。境内のお釈迦様の噴水と共に心を和ませてくれます。

IMG_4455.jpg

IMG_4450.jpg

出世の階段を上ってみる

更に進むと、愛宕通り沿いに標識があります。


標識に示されているエレベーターは使わずに、少し先にある石段を上って愛宕神社に向かうことにします。
徳川家光が愛宕山に咲いている梅を見て「誰か、馬にてあの梅を取って参れ」と命じたところ、当時無名だった曲垣(まがき)平九郎が、馬で石段を上り下りして、梅の花を家光に献上した、という話をご存知の方もいらっしゃることでしょう。その後曲垣平九郎は「馬術の名人」としてその名を日本中にとどろかせたということで、それにちなんで「出世の石段」と呼ばれています。
この石段に挑戦してみることにしました。全部で86段。後ろを振り返るとめまいがしそうなので、ひたすら足元を見て登ります。息が切れて途中で休憩すること3回。
振り返ってみると驚くほど急な石段。「上がり切った」という満足感で、運気が上がりそう。ちなみに勾配は40度だということです。

G-2203ata2.jpg

IMG_4460 (1)

愛宕神社は徳川家康の命によって防火の神様として建立されたそうです。ところが、江戸時代の火災、関東大震災、東京大空襲などで繰り返し消失し、今の建物は昭和33年に再建されたものだとのこと。東京の身代わりに焼けたのだという説もありますが・・・。
東京23区内で一番高い愛宕山にある神社、昔は、さぞ眺めがよかったのでしょう。今は高層ビルに埋もれています。

IMG_4484.jpg

愛宕神社は若者でいっぱい

3月から4月という節目の季節。彼らは何を祈ったのでしょうか。真剣なまなざしで手を合わせて祈る若者たちの姿が印象的でした。
池には錦鯉がたくさん泳いでいてほっとした気分になり、癒されます。

G-2203ata3.jpg

G-2203ata5.jpg

NHK放送博物館へ

すぐ隣に、NHK放送博物館があります。ここはNHK発祥の地。1925年に愛宕山からラジオの本放送が開始されたとのことです。

G-2203ata6.jpg

先ず3階へ。さすがにエレベーターを使うことにします。
ヒストリーゾーンではNHK100年の歴史が、たくさんの映像や音を通じてじっくりと見られます。移り変わるラジオやテレビ、昭和のテレビ番組、など記憶の彼方に消えそうな映像を残しておきたいのですが、残念ながら撮影禁止。
階段で2階へ。ここには子どもが喜びそうな放送体験スタジオがあります。小学校4年生くらいの女の子とその両親の仲良し家族と一緒に体験をすることになりました。
上がテレビのバーチャル画面。青い布を通して体が透き通り、その中を魚が泳いでいます! 
アナウンサーになった気分でニュースを読むコーナー、気象予報士になれるコーナーもありましたが、ここの体験は仲良し家族に任せることにしました。
そのほか、テーマ展示ゾーン、愛宕山8Kシアターなどもあり、色々と楽しめます。

G-2203ata8.jpg

G-2203ata9.jpg

4階には番組公開ライブラリーがあり、1万本を超える番組を視聴できるはずでしたが、この日は公開されていませんでした。ある日ある時の、思い出のビデオが見つかるかもしれません。

近くに増上寺、東京タワーもありますし、小学生くらいのお子様連れでの散策にもおススメ。
都心で味わえる別世界の散策コースです。

(担当:Giglio)


愛宕神社の詳しい情報はこちら
NHK放送博物館の詳しい情報はこちら


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------





斎藤茂吉~歌碑で辿る東京の軌跡~

東京都CM(0)

先月、ブログレポーターのkuminさんが山形県上山市にある斎藤茂吉記念館の記事を投稿してくださいましたが(そのときの記事は→こちら)、それに触発されて、東京のゆかりの地を訪ね歩いてみました。

〈浅草区東三筋町54番地(現:台東区三筋一丁目付近)〉
1891~1907年
◆浅草の三筋町なるおもいでもうたかたの如や過ぎゆく光の如や

(台東区立「三筋保育園」庭の歌碑)

1891年(明治15)8月、14歳の茂吉は浅草で医院を営む斎藤紀一の世話になるため父に連れられて上京しました。ここから学校に通い、医者になりました。
上京の様子や浅草での思い出を綴った『三筋町界隈』はとても面白いエッセイです。当時の東京では吉原などよく火事が起こり、茂吉はいつも屋根に上って鎮火するまで一晩中でも見ていたとか、浅草寺の境内にいた「砂がき婆さん」のことや当時評判だった名妓初代ぽん太の話などなど。
ご興味のある方は是非お読みください。

〈青山脳病院(現:港区南青山4-17-43)〉
1907~1945年
◆あかあかと一本の道通りたり霊剋(たまきは)る我が命なりけり

(王子グリーンヒルアパーツメンツ入口の歌碑)
ブ20220307_113840

青山脳病院は1907年南青山の広大な敷地に建てられた洋風の瀟洒な建物でした。茂吉は1914年に紀一の次女輝子と結婚し斎藤家の婿養子となり、1921年から欧州に留学。1924年に病院が火災で全焼したとの報せは帰国の船上で受け取ったそうです。その後、小さな診療所と茂吉一家の居宅のみがここに再建され、1945年に米軍の空襲で全焼するまで茂吉が約40年間住んだところです。

〈青山脳病院松沢本院(現:世田谷区松原6-37-1)〉
1925~1945年
◆茂吉われ院長となりいそしむを世のもろびとよ知りてくだされよ

(東京リハビリテーションセンター世田谷構内の歌碑)
ブ20220301_131015 (2)

南青山の青山脳病院が1924年に全焼した後、1925年に松澤村松原への移転が決まり、1926年に診療を開始しました。この再建では茂吉が資金繰りに大変苦労したようです。
1927年には義父から院長を引き継ぎ、1945年まで務めました。
1945年に東京都に譲渡された病院は「東京都立松沢病院分院」となり、1952年に「東京都立梅が丘病院」と名前を変えて診療を続けましたが、2010年に閉鎖。現在は、「東京リハビリテーションセンター世田谷」となっています。

〈世田谷区代田〉
1947~1950年
◆代田川のほとりにわれをいこはしむ柳の花もほほけそめつつ

(鶴が岡橋下流の歌碑)
ブ20220307_123607

茂吉は1945年に郷里の山形県金瓶(かなかめ)に疎開します。翌年の1946年には大石田町に移転。そして1947年11月に東京に戻り世田谷区代田に居を構えました。
茂吉の住まいは代田3丁目の北沢川(代田川)沿いにあったようで、よく川沿いの道を散歩したそうです。この大きな岩の歌碑は、少し下流の鶴が岡橋の脇に2013年に建てられたものです。

〈新宿区大京町〉
1950~1953年
◆新宿の大京町といふとほりわが足よわり住みつかむとす

(新宿区大京町22-2 PJビルの歌碑)
ブ20220309_111805

1950年、斎藤家は代田から新宿区大京町に移転しました。それから2年余り、茂吉は70歳でこの世を去りました。
この地には、ビル入口脇の壁に茂吉の長男 斎藤茂太が1988年(平成元年)に掲げた歌碑(銘板)がある他、外苑西通りに面した外壁に2013年に新宿区教育委員会による新宿区指定史跡「斎藤茂吉終焉の地」の石板がはめ込まれています。
そこに「当時の家屋は1988年に解体されたが、書斎は上山市の斎藤茂吉記念館内に復元展示されている」とありますので、上山市の記念館にある「斎藤茂吉晩年の居室」はここから移されたもののようです。

ブ20220309_111838

ところで茂吉の墓は、分骨埋葬されて東京青山墓地と郷里の宝仙寺にあります。

〈斎藤病院〉
茂吉の長男 斎藤茂太は、代田を引き払った1950年、府中市浅間町4-1に「斎藤神経科」を開業しました。この病院は現在も精神科・神経科専門の「医療財団法人赤光会斎藤病院」として運営されており、ホームページには青山脳病院から今日までの「斎藤病院のあゆみ」が記載されています。

(担当 Mikkie)

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

アンティークストールに魅せられて17年 

会員の活動CM(0) TB(0)

☆会員の長谷川峰子さんに、ストール専門店がちょうど17周年目を迎えた2022年3月3日に寄稿していただいた記事です。☆

2022年3月3日でストール専門店インドリームは設立17周年を迎えました。この17年間に3万枚以上のストールに出会いました。すでに子育ても終わっていたので、ストールのことだけ考え続けて17年、そろそろ私もストールのプロといえる段階に入ったでしょうか。

アンティークストールとの出会い

私は東京表参道でストール専門店を営んでおります。予備知識なしで、ひとめぼれして始めたインドの高級ストールの販売。そのストールは、なんと500年以上の伝統があり、ナポレオンのジョゼフィーヌ皇后も愛したインドのカシミールショールでした。知れば知るほど奥が深いストールで、本当に素晴らしい商材に出会えたのは幸運でした。
この17年間で出会ったストールのうち、一番印象深いのは、100年以上前に作られたというアンティークの手刺繍ストールです。それまでにアンティークストールの切れ端は見たことがあったのですが、一枚完全な形というのは初めてでした。
私も最初は見るだけのつもりだったのですが、大好きな色の組み合わせ、またストールの放つ素朴な刺繍の美しさに魅了され、予定外に入手してしまいました。カシミールショールの知識が深まった時期でもあったので、どうしても持ち帰りたくなってしまったのです。

それがこちらのストールです。この写真はあるイベントでご紹介した時のものです。

antique-1-2.jpg

アンティークショールは、生地が弱っているので、ストールのサイドの部分は布テープで補強されています。また、フリンジ部分は損傷が激しかったので、新しく作り直されていますが、はぎ合わせの技術は素晴らしく全くわかりません。ただ生地の色が変化していることで、時代の違いがわかります。

antique2-2.jpg

高級ストールは絹糸で刺繍するのですが、買えなかったため、ウールの細い糸で刺繍されています。それゆえにマットな風合いと、なんとも言えない素朴な美しさがあります。そして、カラフルでとても可愛らしい配色です。

antique-3-2.jpg

このストールへの愛は日に日に深まり、結局インドリームの宝物とすることになりました。インドリームという会社名はインドとドリームをくっつけた造語です。まさにインドリームにふさわしい宝物です。
とは言え、このストールを秘蔵しておくだけでは、ストールを作った職人さんにも申し訳ないと考え、このストールをご紹介するために、「ストール美人ランチ会」というイベントを始めました。青山のレストランでストールの歴史の話をしながら、ランチして、その後、このアンティークストールをご覧に入れて、お土産のストールを選んでいただくという楽しいイベントです。
2016年以来、60回以上開催、400人以上の方にこのストールをご覧に入れました。さつき会の先輩や後輩もたくさん参加してくださいました。コロナ禍のなか、積極的な募集は控えておりますが、現在でも、ご希望があれば少人数開催をしております。

もし、実際にご覧になりたい方がありましたら、ぜひご連絡ください。
このストールをお見せして、たくさんの方に楽しんでいただくことが、私の何よりの喜びです。

ストール専門店「インドリーム」はこちらです。
長谷川峰子さんはFacebookINSTAGRAMも利用されています。


(担当:Giglio)


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

介護 ~私の場合②~

介護CM(1)

「介護」の経験は人それぞれ。私の場合は、仕事を続ける中、大勢の方たちに助けられながら伯母(母の姉)と母の在宅介護をしていたのですが、ついに限界の日が訪れ、高齢者施設で二人を看取った、という経験です。

DSC_1404.jpg
(母が高齢者施設で迎えた誕生日にいただいたカードと供花)

介護が必要だと思った日
介護が必要だとはっきり思ったのは、伯母93歳、母89歳の時でした。深夜に鳴った電話のベルの音。走って5分ほどの実家に着くと、伯母がベットから落ちていて、動くことすらできませんでした。
「元気なときを大いに楽しみましょう!」「姉妹二人で助け合うから大丈夫!」の言葉に甘え、民間のヘルパーさんを週2日頼むことで安心して、会社経営と今後の継承問題に追われていた一人っ子の私が、このままではいけないと思った日でした。
出来る限り在宅で過ごしてほしい。しかし、仕事を辞める訳にいかず、私自身、70歳を目前に体力的にも精一杯。

あらゆる在宅介護サービスの手配
先ず、今までお願いしていた信頼できるケアマネージャーに相談しました。そこで紹介してもらった在宅医療の女性の先生との出会いが私の心を支えてくれたような気がします。そしてその後も大きな関わりを持つことになったのですが・・・。
在宅看護の会社とも契約をし、民間のヘルパー会社の日数、時間を増やし、何とか週5日間、誰かが二人を見守ってくださる体制を作りました。家中に転倒防止の介護用の器具を取り付けて、緊急の際はいずれかのサービスに連絡すれば、すぐにとんで来てくれるようにして、鍵の管理についても安全を期した対策を講じて・・・・これで一安心。

在宅介護サービスの難しさ
と思ったのも束の間。在宅介護サービスを利用することの難しさと直面することになります。
二人とも、自宅に第三者が出入ることに抵抗があったのを説得し、納得してもらったはずなのですが、「どうしても受け入れられない」人ができてしまうのです。在宅看護の会社は変えざるを得ませんでした。半面気に入ったヘルパーさん以外はいや、という希望もあります。在宅医療の先生、ケアマネージャーとの打ち合わせは、介護する側の悩みを相談できる有意義な時間でした。
週5日誰かに来ていただいても、いつ何が起きているか分からない・・・という状況の中、毎回30分程度1日に数回行う巡回訪問サービス、というものも採り入れました。しかし、老々介護の中、母からの連絡で真夜中、明け方など、実家に走る日もだんだん増えていきました。

在宅介護の終った日
転倒は、状況を一変させるものです。うなぎやお寿司を元気に食べていた二人でしたが、伯母が転倒を機に誤嚥。在宅医療の先生がすぐに来てくださり、「私の経営している高齢者施設に入れましょう!」という決定が一晩にしてなされたのです。

kaigo1
(高齢者施設の室内で)

在宅で看取る、ということの限界を実感しました。高齢者施設に入った伯母は環境の変化を受け入れ、「食べたいものは全部食べたのでもういい。」と言い、入所後約1年経った日に安らかに老衰で旅立ちました。
付き添いで施設に入ったはずの母は、施設で転倒して大腿骨骨折。術後は順調に快復したのですが、元気すぎてまたもや施設で転倒。伯母が他界した1か月後、脳梗塞で意識が亡くなり、姉を追うように旅立っていきました。享年97歳と93歳でした。
「幸せねえ」が口癖だった老姉妹、「ぽっくり行きたいわ。」という願いはほぼかなえられたのかと、墓の前で手を合わせています。

遠からず介護される側になるかもしれない私はこのように思っています。
元気なうちに幸せな体験を思い切りしたい。急激な老いが訪れたら、第三者の手を借りながら、自然に旅立てる日を待ちたい・・・と。
(担当:Giglio)

※「介護」の経験は人それぞれで、本当に違います。
様々な経験談は、これから介護を経験する方たちの参考になるかもしれません。
そんな思いから、『さつき会ブログ』では介護経験のある会員の皆さんから「介護~私の場合~」の原稿を募集致します。
あなたの経験を是非 お聞かせください。
原稿は joho-hasshin@satsuki-kai.net までお願いします。


-----------------------------------------------------

★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9

息をするのと同じように~村上春樹ライブラリー

東京都CM(0)

村上表題1JPG

 2021年10月早稲田大学構内にオープンした国際文学館(村上春樹ライブラリー)を訪ねました。


階段横2JPG
図書館内から入口を臨む

村上著書2J2PG
村上春樹氏の著作コーナー

 このライブラリーのコンセプトを、展示されている村上春樹氏の碑文(全文)でご紹介します。

    息をするのと同じように

 学校に通っている頃は、自分は勉学をすることにあまり向いていないと考えていたのですが、大学を卒業してしばらくしてから、「僕は実は学ぶのが好きだったんだ」ということにあらためて気づきました。
 学ぶというのは本来、呼吸をするのと同じです。教室の中であれ、外であれ、僕らは息をするのと同じように、日々多くのものごとを自然に、当たり前に学び取っています。このささやかなライブラリーが、学校や国境の壁を自由に抜けて、あなたにとって「息をしやすい学びの場」となることを、心から祈っています。
           村上春樹

 このライブラリーでは現在本の貸し出しが禁止され、閲覧のみとなっています。館内には、村上氏の著作をはじめ氏が選んだ個性的な本を寛いで読める場所があちこちに設けられています。マスコミでたびたび取り上げられている中央階段(実は読書スペース)に腰を下ろし本を楽しむ人も見受けられました。

階段42JPG 村上階段


 その他村上氏の書斎が再現されていたり、ジャズ喫茶を経営されていた村上氏ならではのオーディオコーナーがあります。

村上書斎新PG
村上氏書斎

村上オーディオ新1
オーディオコーナーとレコード、音楽が楽しめます

オーディオコーナーと読書スペース
オーディオコーナーと読書スペース

 この建物は本学ご出身の隈研吾氏の設計によるものです。隈氏のコンセプトを、館内にある碑文(全文)でご紹介いたします。

    トンネルとしての建築

 村上春樹さんの小説によって、どれだけ多くの人が救われたのだろうか。そういう僕も、村上さんの小説で救われた一人である。
 村上さんの小説を読み始めると、僕はトンネルの中に吸い込まれていくような感覚を味わう。その体験は突然にやってきて、そのトンネルの入口は、この見慣れた日常の世界の中に、突然ぽかんとあいている。トンネルは、奥へ奥へといざない、最後のページを閉じると、また突然日常に放り出される。
 その時の僕は、穴に吸い込まれる前の僕とは全く別の人間になっている。そんなトンネルのような建築を作りたいとずっと考えてきたが、いつも建築がトンネルになれるわけでない。しかし今回は本物のトンネルができた。なにしろ春樹さんとの共同作業だからである。   
           隈 研吾

村上建物1
建物全景

村上看板3JPG

※ 現在このライブラリーは予約制となっています。

[ブログ担当: アレクサンドリア]


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

ポインセチアの短日処理

ガーデニングCM(1)

ポインセチア後期
冬を彩るポインセチア、シーズン終了後その鉢植えをどうされていますか?
ポインセチアは時期が来れば落葉し、やがて緑の葉のみが繁ります。

ポインセチア初期

9月後半くらいから、約7時間(毎日一定の9時半から16時半など)しか日照をあたえないと(納戸に入れる、段ボールを被せるなど完全に光を遮る方法で)白い芽から赤い葉が育つと知り、トライしました。
昨年度は日照時間の規則性に欠き、さらに日照そのものの強さも足らなかったようで失敗しました。

ポインセチア中期

今年度は9月下旬スタートで写真のように色づきました。来年度はスタート時期を早め赤い葉を増やす予定です。
コロナ渦で、家族に在宅ワーカーが複数いたために成功しました。


ポインセチア後期2 
[担当:アレクサンドリア]

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------


冬の斎藤茂吉記念館 山形のみのり〜vol.3

山形県CM(1)

1斎藤茂吉記念館
************************************************
今回は、山形県にお住まいのレポーター、kuminさんからの投稿です。
************************************************



 山形の冬は空が重く暗く、道路も雪泥道で車のボディといえば撥ねた泥で汚れていることが多いのが当たり前でした。就学で太平洋側へ出た私は、冬の空の軽やかで明るいことに驚き、陰がないなとしみじみ思ったものでした。斎藤茂吉の生涯を通した中でこの重い冬空の下で培った力が作用しているのではないかと感じております。冬の斎藤茂吉記念館を訪れました。
茂吉肖像画

 斎藤茂吉記念館は近代短歌史上に重要な位置を占めかつつ歌論、評論、随筆などにも優れた業績を残した斎藤茂吉を讃えるため1968年上山市立として開館1983年公益財団法人組織化されました。設計は、東京国立近代美術館をはじめとした建築を手がけた谷口吉郎氏の手になり赤松の林に建てられました。1989年には子息谷口吉生氏(資生堂アートハウスや土門拳記念館を設計され私の好きな建築家です)による大規模増改築が行われています。ガラス箱のラウンジもこの時建てられました。さらに2018年に改修されています。
内部ロビー
ラウンジ
展示の概要は
◎常設展示室
 ・茂吉の生涯
 ・茂吉の作歌姿勢
 ・医学者茂吉
 ・茂吉の書画
 ・茂吉とふるさと山形・上山
 ・茂吉の業績
 ・茂吉の交遊
 ・茂吉の著書
◎映像展示室 18分間
◎守谷夫妻記念室
◎斎藤茂吉晩年の居室
となっております。展示物は撮影できませんでしたが自筆の書画や原稿、生活を伝える遺品などがテーマに沿って展示されています。

茂吉展示室
*写真の女性は許可を得て撮影させて頂いた学芸員の佐藤結子さんです。
中には大きなアンモナイトの化石があり、こちらは1932年8月茂吉が実弟高橋四郎兵衛と当時北海道で拓殖医をしていた次兄守谷富太郎を訪ねた折旅の記念としてもらったものでした。富太郎は在留地の志文内で採集されたアンモナイトの収集家でありました。
 茂吉の生涯を早足で辿ると山形県金瓶村農家守谷家三男として生まれる。→上京、斉藤家に入る。後に婿養子。→
第一歌集『赤光』出版→長崎へ赴任→欧州留学→帰国。多忙の日々→蔵王山頂に歌碑が建つ→ふるさと金瓶へ疎開、そして大石田へ→世田谷区代田へ帰京→七十歳9ヶ月の生涯を閉じる。となりましょうか。
 その作歌論は正岡子規の「写生論」を発展させ「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」ことが重要であるとした茂吉独自のものです。
 また医学者としての茂吉は養父斎藤紀一の跡を継ぎ精神科医として青山脳病院で勤務し欧州への留学の様子なども当館では紹介されています。
 ここでは幼い頃から習字が得意だった茂吉の幼少から晩年に至る書画も紹介され、館内の売店では複製の品を求めることができます。

茂吉葉書

一筆箋
 茂吉の業績としては帝国学士院賞を受賞した柿本人麻呂研究や文化勲章受賞があり、中村研一による茂吉肖像画はこの時描かれれました。

最上川さかしらなみの立つまでにふぶく夕べとなりにけるかも

足乳根の母に連れられ川越えし田越えしこともありにけむもの

灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり

蕗の葉に丁寧にあつめし骨くづ皆骨瓶に入れしまひけり

陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

まどかにも照りくるものか歩み止めて吾の見てゐる冬の夜の月

銘板

  
       (kumin)

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

介護~私の場合~ ①

介護CM(0)

田舎の親を実家で看取る

父が亡くなって三年半経ちました。

“絶対に入院しない”という父を実家で家族で看取ることができたのは、本当に周りの方たちの助けがあったからだったとしみじみと思います。

半年間の闘病生活でしたが、母は認知症で戦力外。実家に同居している妹も心身ともにパーフェクトではないという状況でした。
ケアマネージャーの方が中心となり、計画を立ててくださいました。母はできるだけデイケアへ。父には訪問医療、訪問看護、デイケア、ヘルパーの方、使える公的サービスはすべて利用。私も10日1回は帰省。(最後の1か月は何往復もしましたが)
加えて、私も妹も車が使えないという状況を、従姉が考えられないぐらい助けてくれました。なんといっても洗濯が大変で、コインランドリー通いはマスト。乾燥している間にスーパーに買い出し。
さらには幼馴染で同じ町内のAさんには私が帰省できない間家の様子を見に行ってもらったり、葬儀の時にも貴重なアドバイスをいただいたり、本当に助けてもらいました。

病院のような設備も手厚い看護もなかったですが、とにかく本人の願いはかなったのだと思います。

(N.H.さん 1984法:東京都在住)

--------------------------------------
※「介護」の経験は人それぞれで、本当に違います。
様々な経験談は、これから介護を経験する方たちの参考になるかもしれません。

そんな思いから、『さつき会ブログ』では介護経験のある会員の皆さんから「介護~私の場合~」の原稿を募集致します。
あなたの経験を是非 お聞かせください。
原稿は joho-hasshin@satsuki-kai.net までお願いします。



-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

グローバルに戦うマイナー競技のアスリートを応援する!

会員の活動CM(0)

さつき会会員の大里真理子さん(1986文)が代表取締役を務める(株)アークコミュニケーションズには、オリンピックを目指して頑張っているマイナー競技の選手たちを支援するスキーチームがあります。
今回は大里さんにお願いして、スキーチームを設立した経緯や願いなどを書いて頂きました。


********************************************************
アークコミュニケーションズスキーチームは、グローバルに戦うアスリートの育成・支援と競技の裾野拡大を目的として、東日本大震災後の2011年に設立されました。
未曽有の事態に、会社自体がどうなってしまうのか不安ではありましたが、さらに苦境に陥っているアスリートを支援できないものかと、大きな情熱とちっちゃな正義感から始まりました。

ブishihara1
※スキーオリエンテーリング競技中の石原湧樹選手

さて、なぜ私がこんな大きな情熱をもつことになったのでしょう?
私が30代半ばに出会ったスキーオリエンテーリング(50秒)がきっかけです。
自然との共生や自分との闘いについて多くのことを学びました。マイナースポーツの良いところは、競技人口が少ないがゆえにトップアスリートと物理的距離も心理的距離も近いことです。彼らの競技力の凄さを生で見せつけられ、そしてそれは彼らがいかに真摯に競技に向き合っているかの裏打ちであることを肌で感じます。
またマイナースポーツが故の彼らの困難、周囲の理解や金銭的苦労にも気が付くようになりました。「こんな素晴らしいトップアスリートを応援したい」、そんな気持ちが自然と芽生えるようになりました。そしてせっかく応援するのであれば、一時的に金銭を支援するだけではなく、アスリートへの支援の輪が広がり、競技そのものも永続的に発展できるモデルが作れないかと考えるようになりました。

ブyamamoto2
※フリースタイルスキー・スロープスタイル競技中の山本泰成選手

これまでの企業とアスリートの関わり方は、企業が宣伝効果を狙って一方的に支援するのに対し、選手はそれとは無関係に純粋に競技に取り組むという関係性がほとんどでした。しかし、メジャースポーツですら実業団チームは存続の危機に陥っており、さらに露出が少なく宣伝効果が小さなマイナースポーツにおいては、企業の協賛が非常にとりづらい状況になっています。
このままでは、グローバルレベルで戦っているアスリートであっても、マイナースポーツであるが故に支援の提供が制限され、金銭的にスポーツを続けることが困難になってしまいます。
アークコミュニケーションズは、人々のニーズが多様化している現在こそ、マイナースポーツとビジネスの新しい関係を築くチャンスだと考えています。アスリートを育成・支援する環境を整えながら、他の企業や地域社会や個々人に働きかけることで、アスリートを多面的に支援・応援するためのネットワークを拡大させます。こうしたベンチャーならではのビジネスモデル構築にチャレンジします。アスリートが引退したあとのキャリアについても一緒に考え、サポートしていきます。

ohsato.jpg ※選手を応援する大里さん

一方、アスリートは、競技に真摯に取り組みながらも、アークコミュニケーションズの発展や他企業のビジネス面に貢献します。自分ができることを自分で考え、競技との関係の有無にかかわらず行動に移します。
アークコミュニケーションズスキーチームは、アスリートに対する支援の輪を広げる方法を模索しながら、アスリートとサポートする企業や個人の共生のあり方を共に考え、実践するパートナーを募っています。
2021-2022シーズンは前シーズンに続き、平昌オリンピックに出場したフリースタイルスキー・スロープスタイル競技の山本泰成選手と、3期連続スキーオリエンテーリング競技の日本チャンピオンである石原湧樹選手(東京大学博士課程1年)をサポートしています。ぜひ皆様、応援してください。

山本泰成選手 石橋湧樹選手
さて、応援って何をすればよいのでしょうか??
3つあります。
・まず選手に興味をもってください。
アークコミュニケーションズスキーチームのメルマガにご登録ください。
選手が何を考え練習に試合に臨んでいるのかよくわかります。
・イベントに参加して下さい。試合を観戦してください。
→選手の素顔がわかる壮行会を開いています。
残念ながらテレビ中継はありませんが、インターネットでのライブ配信がなされることが多いです。
・金銭的にご支援いただけると嬉しく思います。
グローバルに戦うには、そのための準備はもちろんのこと、遠征費用(交通費、滞在費など)がかかります。それらの費用をサポーターが少しずつ負担して、選手を応援できないか、模索しています。
https://www.arc-c.jp/ski/sponsors/index.html

さて、2月には北京オリンピックが開催されます。オリンピックでないとテレビ放映されない競技もたくさんあります。残念ながら日本からの渡航観戦はかないませんが、ぜひトップアスリートの凄さをテレビやインターネット放映を通じて感じてください。

(大里真理子1986文:東京都在住)


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

私の一推し!つくば学園田園都市の魅力~その3

茨城県CM(2)

お久しぶりです。
2014年教育学部卒の若山彩見です。

つくばの魅力を勝手に発信したい・第3弾。
今回は「研究学園都市」ならではの知の側面について、発信したいと思います。

「研究学園都市」の名前のとおり、つくば市にはJAXAを筆頭に約150の研究機関があります。
一方で、市民意識調査(注)では、
Q.つくばが「科学のまち」であることの恩恵を感じることがありますか。
A.「ない、あまりない」という回答が50%超え
となっていますが、私個人としては毎週末恩恵を感じる日々です。

我が家は現在2歳児の子育て真っ最中です。そのため最大の関心事は「子連れで週末どこで過ごすか」。
平日は保育園さまのお力添えをいただくとして、保護者が頑張らないといけないのが週末なのです。(感覚としては全然「休日」ではありません)
我が家は週末、晴れた日はとりあえず公園に連れ出して放牧しています。
困るのは雨の日と寒風吹きすさぶ日。家の中でじっと遊ぶのは現実的ではないため、ショッピングモールに連れ出してもいいのですが、個人的に人ごみが苦手なため体力メンタル共に消耗してしまいます。

筑波2022-01 No1
「つくばの雪景色」

そこで助かるのが、市民にも開放されている各研究機関。
つくばエキスポセンター、植物園、地質標本館etcetc
とっっっっても広々としていて、このご時世人ごみがないだけでも大変ありがたい、子どもが騒いでも人目を気にする必要のない屋内施設です。
イヤイヤ期の我が家の2歳児は、よく研究機関の床に寝そべって何かに抗議しています。(止めるのは早々に諦めました)
日常とは異なる「知」の世界に触れることができるので、保護者の好奇心も大満足です。
日常で積もった疲れをアカデミックな好奇心で振り払えることのありがたさ is 最高。
個人的に、いかにも「親子連れ向け!」「子ども向け!」といったにぎやかなテンションが苦手なので、研究機関の静かな知の佇まいに子連れでも触れられる機会があるのは、本当に命が救われる思いです。
(同じ文化的公共施設としては、美術館も子どもが生まれる前はよく訪れていたのですが、どうしても静かさが求められて子ども連れでは行きにくい場所です。)

我が家のフェイバリットプレイスは、上にもあげましたが、植物園とつくばエキスポセンター。
植物園の正式名称は筑波実験植物園と申しまして、約5000種の国内外の植物を温帯地域から熱帯地域に至るまで世界中から集めています。
特筆すべきはその広さ。14ヘクタールもあるので、1日かけても回り切れません。
屋外がメインですが、サボテンのぎゅうぎゅうに詰まった温室もあるので、小雨の日でも楽しめます。(大雨の日はキツイかもしれません)

若山さん筑波3-2-2

つくばエキスポセンターはTXつくば駅から徒歩圏内にある研究・教育施設で、つくば駅の出口で真っ先に目にとまる謎のロケットはここのものです。

TXつくば駅におりたったら、とりあえず謎のロケットを目指して歩いていけば、方向音痴の方でも迷う心配はありません。
宇宙・海洋・原子力・ナノテクノロジー・生命科学・地球環境等、科学技術について幅広く展示している科学館です。
我が家の2歳児は宇宙関連の模型で、よくビッグバン誕生のボタンを連打しまくって宇宙を誕生させています。

ちなみに研究学園都市つくばでは、土日祝日に、車が無い方でもつくばの研究機関を楽しめるよう「つくばサイエンスツアーバス」も開催されています。
https://www.i-step.org/tour/tsukuba-science-tour-bus.html#contents-head1
駅前発のバスでつくばの各研究機関を巡れるツアーです。
TXつくば駅は東京秋葉原からは最速45分の近さですので、首都圏在住の方もお休みの日にいかがでしょうか。

寒さが厳しい折、どうか皆様ご自愛ください。
今はつくばは極寒ですが、春になったらいちご狩りや楽しいことがいっぱいです。冬を乗りきり、また記事でご紹介できればと思います。

※(注)「スタートアップ都市」に変貌するつくば市

(レポーター若山綾見:茨城県在住)

-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

御柱の圧倒的な迫力!~諏訪大社の四宮巡り~

長野県CM(1)

「御柱祭り」で有名な諏訪大社。日本全国にある1万を超える諏訪神社の総本社です。
男衆たちが「御柱(おんばしら)」と呼ばれる巨大な丸太に群がって急峻な坂を次々に滑り落ちる映像を、皆さんもテレビなどで目にしたことがあるのではないでしょうか。
時には死者が出たりもする激しい祭りはとても印象的なものですが、一体何のために巨大な「御柱」で坂を滑り降りるのかご存知ですか?
昨年11月に諏訪大社を訪れましたので、今回は諏訪大社と「御柱」のことを書いてみたいと思います。

ブDSC05025上社本宮 ブDSC05035上社前宮

諏訪大社は実は1つではなく、上社(「前宮」・「本宮」)と下社(「春宮」・「秋宮」)の二社四宮からなります。創建はとても古く、古事記の国譲り神話にまで遡る我が国最古の神社の1つです。
上社の二宮があるのは諏訪湖から東南へ少し離れた中央高速の諏訪インターの近くで、最寄り駅は茅野駅です。
一方、下社の二宮は諏訪湖から近い北側にあり、最寄り駅は下諏訪駅です。

ブDSC05049下社秋宮 
ブDSC05062下社春宮

四宮ともいわゆる本殿を持たず、自然そのものをご神体とする古い信仰の形を伝えています。
上社は守屋山(1651m)がご神山。下社は春宮が杉、秋宮がイチイをご神木としています。
訪れてみると、四宮の雰囲気がそれぞれ全く違うことにとても驚きます。

関連情報:「上社本宮」「上社前宮」「下社秋宮」「下社春宮


〈御柱祭〉
御柱祭は正式名称を「式年造営御柱大祭」といい、寅と申の年に行なわれます。
宝殿を造り替え、社殿の四隅にモミの巨木の御柱を曳き建てる諏訪大社最大の神事で、諏訪地方の氏子20万人が総出で奉仕します。
2022年の今年は寅年なので、御柱祭が行われる年です。

直径約1m、長さ約17m、重さ10tにもなるモミの巨木を上社・下社が別々の山から8本ずつ切り出して、上社は約20㎞、下社は約12㎞もの距離を人力だけで各お宮まで曳いていき、境内の所定の場所にロープやワイヤーを使って建てるのです。1本の柱につき1000~3000人が曳くそうです。
「山出し」は4月に3日間、「里曳き」は5月に3日間、上社と下社が別々の日に行いますが、木の選定などの準備は祭の3年前から始まります。

上社木落し 上社川越し
※諏訪大社ホームページより

上社の「山出し」は、「綱置き場」が出発点→難所「穴山の大曲」→斜度27度の坂の「木落し」→雪解け水が流れる宮川の「川越し」→「御柱屋敷」に御柱を安置。
下社の「山出し」は、1年前に伐採して乾燥させていた「棚木場」が出発点→難所「萩倉の大曲」→最大斜度35度で約100mも続く急斜面の「木落し」→「注連掛(しめかけ)」に御柱を安置。
下社の御柱とは違って、上社の御柱には「めどでこ」という2本の角のような柱が付けられていて、木落しの際にはさらに大きな「めどでこ」に付け替えられるそうです。

下社木落し2 下社里曳き
※諏訪大社ホームページより

「里曳き」は5月の新緑の中、華麗な時代絵巻のように華やかな雰囲気で各お宮に向かいます。境内に着くと、柱の先端を三角錐に切り落とす「冠(かんむり)落し」の後、神の宿る「建(たて)御柱」となります。

今年の祭に使う16本の御柱は既に準備ができており、4月の出番を待っていると地元の人から聞きました。
「山出し」は上社が2022年4月2日(土)~4日(月)、下社が2022年4月8日(金)~10日(日)。
「里曳き」は上社が2022年5月3日(火)~5日(木)、下社が2022年5月14日(土)~16日(月)に予定されています。
ここのところオミクロン株の広がりで感染者が増えていますが、無事に「御柱祭」が行われることを願っています。

ブ 御柱

各お宮で目にした建御柱は、ただそこに建っているだけなのにゾクゾクするほどの迫力で圧倒されました。
長い距離を曳かれてきた証に、後ろの面が平になっていたことも印象的でした。

〈御神渡り(おみわたり)〉
ところで、寒さの厳しい冬には諏訪湖の湖面が凍ります。-10℃程の気温が続くと諏訪湖は全面結氷し、ある夜明けに大音響とともに氷が裂けてせり上がり、南の岸から北の岸にかけて氷の山脈のようになります。これは上社の男神が下社の女神のもとに渡った道筋だといわれています。
最近は暖冬でなかなか諏訪湖が全面結氷せず、2018年を最後にこの「御神渡り」の現象は見られていませんでした。
ところが、今年は寒い日が続き先日全面結氷したそうで、地元の人たちが毎日観察を始めたというニュースを聞きました。期待できますね。
そのうち「御神渡り」が出現するかもしれないと、ワクワクしながら吉報を待っているこの頃です。

関連情報:「御神渡り」(御神渡りの画像を見られます)

(担当:Mikkie)


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

三川を眼下に臨む、こだわりの山荘~アサヒビール大山崎山荘美術館

美術館さんぽCM(0)

 重厚な趣がある中に、実家のような温かさを感じるアサヒビール大山崎山荘美術館。かつてマンション建設のために取り壊す計画もあったというこの山荘が、美術館として保存されたことに感謝せずにはいられません。
全景
英国風ゴチック様式の山荘

 アサヒビール大山崎山荘美術館は、天下分け目の戦いで知られる天王山の麓にあり、京都駅と大阪駅のほぼ真ん中に位置します。JR京都線の山崎駅か阪急京都線の大山崎駅まで、京都、大阪のどちらからも20分程度。駅から徒歩約10分。少々急な坂道ですが、駅前から無料送迎バスも出ています。
 駅から坂を登っていき、山の中のトンネルをくぐると、どんな世界が待ち受けているのだろうとワクワクしてきます。
入り口のトンネル
山荘入り口のトンネル

テムズ川の記憶をもとに選んだ眺望
 坂道を登った先では、自然を活かした木々と広々とした庭園、そして英国風ゴチック様式の邸宅が迎え入れてくれます。この山荘は、関西の実業家、加賀正太郎氏が自ら設計し、何度も改築を繰り返して完成したものだそうです。そのためか、随所に正太郎氏のこだわりが見られ、別荘でありながら本宅のような味わいと温かさを感じます。
 正太郎氏のこだわりは、暖炉や壁面装飾、ステンドグラス、2階の浴室など枚挙にいとまがありませんが、中でも私が大好きなのが2階のテラスからの眺めです。正太郎氏は、イギリス遊学中に眺めたテムズ川の流れの記憶をもとに、木津、宇治、桂の三川が合流するこの地を選んだそうです。今は、このテラスは喫茶室として利用されており、美味しいお茶とケーキをいただきながら、景色を堪能することができます。対岸には石清水八幡宮のある男山が見え、京都や奈良の山々も見渡せます。
テラスからの眺望
テラスからの眺め(私のカメラの腕前では、景色の素晴らしさを十分お伝えできないのがもどかしいです)

安藤忠雄氏設計「地中の宝石箱」での名画鑑賞
 正太郎氏の没後、大山崎山荘は、平成のはじめには傷みが激しく、荒廃していたそうです。正太郎氏が創業に関わったニッカウヰスキーの株を託すなど、アサヒビールの初代社長の故山本爲三郎氏と深い親交があった縁で、アサヒビールが山荘を復元し、1996年に美術館として公開することになりました。
 復元の際、建築家・安藤忠雄氏の設計により、コンクリートの展示室「地中の宝石箱」が加えられました。当時、安藤忠雄建築研究所の一員として改修に携った同窓生の岩田恵さん(d/dt Arch.パートナー、1991年工学部卒)に、改修のポイントを伺いました。
 「『“地中の宝石箱”が庭園側から見えなくなるように!』と安藤さんが何度も言われていました。土のレベルに配慮したり、植栽を増やしたり。25年経って、今は緑に埋もれて庭園に馴染みました。安藤さんは、『建物は古くなるが、木は大きくなる』ともおっしゃっていました。
 建物の中では、本館の内装とできるだけ違和感のないように展示ケースをデザインしたこと。これも安藤さんが『新しく見えないように古めかしく』と強調されていました。」(岩田氏より)
 改修時には、そんな配慮があったのですね。構想通り、今では木々に隠れて、コンクリートの違和感はほとんどありません。
 「地中の宝石箱」では、モネの「睡蓮」やピカソ、モディリアーニなどの作品が常設されており、柔らかく曲線を描いた壁面と相まって、ゆっくりと鑑賞できることも魅力の一つです。
地中の宝石箱
木々に埋もれて周囲に溶け込んでいる「地中の宝石箱」

 大山崎山荘美術館にはまだまだ語り尽くせない魅力がたくさんあります。ぜひ一度足を運んで、ご覧いただけたら幸いです。

アサヒビール大山崎山荘美術館
美術館へのアクセス(JR山崎駅、阪急大山崎駅からの無料送迎バス時刻表など)
岩田恵氏略歴など

(担当:ゆっちょむ)


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------



Another Energy展~挑戦し続ける力―世界の女性アーテイスト16人 

美術館さんぽCM(0)

さつき会会員のFAさんからいただいた森美術館の記事です。

友人と出かける約束があいにく月曜日で美術館が軒並み閉館だとがっかりしていたところ、クリエイティブテクノロジストの長男の紹介で出かけたのが、六本木・森美術館の《アナザーエナジー展 挑戦しつづける力ー世界の女性アーティスト16人》でした。

Another Energy →SDGsや自然エネルギーの話?
世界の女性アーティスト→若手の、いわゆる前衛芸術の旗手?

という連想はまったく的外れ。ある意味では「期待」抜きで行った展示に度肝を抜かれました。
登場アーティストは72歳〜106歳。今年4月からの会期中にお一人亡くなられましたが、みんな現役。この展覧会のための新作もありました。なにしろ作品が鮮やか!色も、形も、生き生きしていて、スケールも大きい。たとえば、ホロコーストや移民問題をとりあげた作品は、テーマの深刻さ、描かれた状況の悲惨さが、美しい色遣いや優しい線と不釣り合いなほどでした。暗い話を暗く描くのではない表現。それだけに目を背けきれなくなりました。 
IMG_0762.png 
ベアトリス・ゴンザレス


このアーティストたちの背景・出身は非常に多様で、アート(美術)で表現したかったから、造形によって表現できたから、という軽やかさを感じます。もっと適当なメディアがあれば、詩でも音楽でも映像でも論文でも何でもよいけれども、というような。各人の展示には本人インタビューのビデオも流れ、本人やプロジェクトについての話を直に聴くことができて作品への理解が深まります。

そして、どなたも好奇心が旺盛!それが創作の原動力。「i面白いことがいっぱいで。」「社会には問題がいっぱいで。」「あれも試してみたくて。」と、思索も行動も止まらない勢いを感じました。たとえば、陶製のゴミ箱や新聞紙の束。この作家は焼き物を薄―く仕上げることに夢中になり、それで空缶や新聞紙を作っているのですが、その作業を思うと果てしなさに目がくらみます。展示品なので触れられないのが残念でした。 IMG_0765.png IMG_0755.png
三島喜美代



また、全体を通して「日本ってなんてmarginal!」とビジュアルにも行動や考え方の点でも痛感しました。日本列島が極東の位置にある世界地図。中央が大西洋の地図はよく見かけますが、アラビア半島がど真ん中の地図から日本はまさに落ちそうな位置でした。あるいは、長いSilk Road(絹の道)の最終地が「富岡製糸場」なのでした。
image3.png image2.png 
 アンナ・ボギギアン


会期が延長されて、2022年1月16日まで開催されています。
美しいものを見たい方も、刺激が欲しい方も、女性のパワーを感じたい方も、また六本木ヒルズ高層からの眺めを楽しみたい方も、ぜひお訪ねください。(さつき会会員FA)

(担当 Aozora)


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------


研究分野での男女共同参画は実現できるのか?

男女共同参画CM(0)

***会員の中野恭子さんが、12月15日開催のJSPS(日本学術振興会)男女共同参画推進シンポジウム『研究とライフイベントの両立へのヒントがここに!』をご紹介くださるとともに、ご自身のご経験を踏まえて男女共同参画に関する思いを投稿してくださいました。***

日本の女性の地位、昔よりはよくなったものの
 大学の執行部に女性が少ない状況は、Global Gender Gap Index Rankingsにおける日本の地位の低さに貢献しており(注1)、仕事で行く東南アジアの国立大学では女性学長や副学長が珍しくないのに恥ずかしいことです。それでもこの30年に少しはよくなり、たとえば日本学術振興会(JSPS)のデータによりますと、大学教授の6人に1人は女性だということです(注2)。
 男女雇用機会均等法ができる10年前に理学部を卒業し、高卒の資格でよければ採用するなどといわれるなか大卒資格で民間企業に就職したものの、本社での出世頭は秘書課の主任という現実にくじけて出産退職した私には、社会のうねりがあるように見えます。長男と三男は3歳しか違いませんが、朝幼稚園に送ってくるお父さんが3年間で顕著に増えた記憶があります。夫はまったく知らないと思いますが。
 他方、特別研究員-RPD及び海外特別研究員-RRAの採用者・経験者を対象としたアンケート調査(JSPS 2020年)では、出産・育児のために研究を諦めることが多いと感じる研究者が85%にのぼります。男女共同参画学協会連絡会「第四回 科学技術系専門職の男女共同参画実態調査」(2017)は、社会全体での取組が必要と指摘していますが、男性の家事・育児への参加や上司の理解、男性の意識改革はなかなか進まないようです。
日本女性の地位データ
Prof. Ellen Joan Kumaat:インドネシアの国立大学(Universitas Sam Ratulangi)学長、専門は土木工学
インドネシアKumaat学長
出所:https://womensobsession.com/detail/803/berkarya-lewat-dunia-pendidikan

それぞれの取り組み情報を共有しよう
 このようななか、JSPSは2021年12月15日(水)に男女共同参画推進シンポジウム『研究とライフイベントの両立へのヒントがここに!』をオンラインで開催します(https://cheers.jsps.go.jp/event/)。企画を持ち込んだ男性理系研究者は、多くの大学・研究機関が多様性推進に取り組んでいるものの、それらが単独で走っていて情報共有ができていない、との現状認識をもっています。どの職場がどのような方針や体制をもっているのか広く情報共有することは、女性研究者の挑戦を後押しするとの期待があります。また男女共同参画は、性的マイノリティや移民などマイナーな立場にある人々の参画につうじる多様性の尊重であり、SDGsが目指す誰も取り残さない世界へのカギの一つでもあります。
 理系研究分野での男女共同参画には母数の増加が必要です。この観点から、お茶の水女子大学は理系女性教育開発共同機構を設置し、いわゆるリケジョ育成や女性研究者の海外での活躍を支援しています(注3)。
JSPSポスター

夫の仕事事情で退職する女性は、まだ今も
 私はすべての仕事から離れるというどん底からはいあがり、いつからか夫もこどもも置いて何週間も海外出張に出るようになりましたが、研究職の夫の仕事事情で退職して海外に同行する女性を至近距離でみると胸が痛みます。個人の選択や環境にもよりますが、子連れのシングルファーザーで海外赴任することが許されなかったり(女性の単身赴任はたいてい子連れなのに)、保育園お迎えの時間に帰れない父親が普通だったりと、日本のワークライフバランスはまだ均衡していない気がします。育った家庭のカルチャーも影響すると考えられるので、女性が無意識の性別役割分担から脱することも大事かなと思います。

中野恭子

(注1)WEF "Global Gender Gap Report 2021"

(注2)日本学術振興会(JSPS)Cheers!「データで見る研究分野の男女共同参画」

(注3)お茶の水女子大学理系女性教育開発共同機構


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

遺構へ行こう!「愛岐トンネル群」             ~今年の秋の特別公開は11/27(土)-12/5(日)~

愛知県CM(2)

日本の産業化の波の中に生まれ、そのうちに忘れ去られてしまった遺構が日本のあちこちに残っています。
今回はその遺構のうちでもお気に入りの一つである「愛岐トンネル群」をご紹介します。

愛岐トンネル1
3号トンネル(一番最初のトンネル)。 廃線の時にレールは取り除かれています。

「愛岐トンネル群」はその名の通り、「愛知」と「岐阜」にまたがるトンネル群です。
国鉄の中央(西)線の名古屋―多治見間に開通したのは1900(明治33)年。高蔵寺駅から多治見駅にかけての区間は13基のトンネルを抜けて川沿いを走る単線でした。
1960年代の高度経済成長の時代になって、大量輸送の要求から中央線は電化・複線化されることになり、この区間には新しい長いトンネルによるルートが敷設され、1966年に古いルートは廃止されました。そして、時代とともに、この古いルートの存在は忘れ去られていたそうです。
ところが今から15年ほど前、年配の方がとあるきっかけで定光寺駅付近に煉瓦造りのトンネルがあることを思い出し、その話をきいて有志の方々がトンネルの探索を始め、数ヶ月の後にトンネル群が再発見されることとなりました。
その後トンネル群は貴重な産業遺構として、経済産業省「近代化産業遺産」として認定され、ボランティアの方達のご尽力で春と秋に特別公開され、廃線跡を伝ってトンネル群を散策できるようになっています。
中でも、秋の紅葉の頃の景色は大変見事です。

愛岐トンネル2
6号トンネル。このトンネルをぬけると岐阜県側になりますが、残念ながらこの先はまだ整備されていません。

写真は昨年の秋の特別公開の時の景色です。
今年の秋の特別公開は11月27日(土)~12月5日(日)の9日間です。
煉瓦造りのトンネルのロマンを感じに、お近くの方、是非お出かけください。

愛岐トンネル保存再生委員会
※このサイトでは、名古屋市内の小学5年生トン太くんが案内してくれる「愛岐トンネル群特別公開バーチャル体験記(2016秋)」なども見ることができて、とても楽しめます。現地に行けない方は、こちらをどうぞ!

(担当: Super鉄子)


-----------------------------------------------------
★あなたの「とっておき」の情報も教えてください★

下のURLをクリックして情報をお寄せください。
https://forms.gle/Yn8FBiFNcSx3camc9
-----------------------------------------------------

PrevPage |  to Blog Top  | NextPage

さつき会イベント委員の有志が会員の皆さんと一緒に様々な情報をお伝えしていきます。           (※ブログ内の関連情報は、興味をお持ちの方にさらに深く知って頂くためのものです。さつき会として販売促進するものではありませんのでご了解ください。)

プロフィール

johohasshin2020

Author:johohasshin2020
さつき会
(東大女子ネットワーク・コミュニティ)

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
 

Copyright ©さつき会ブログ. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha.